5.月夜屋
歌鳥という名前は、学のない私でもさすがに聞いたことがある。十六夜町にはいない種族の人間ではあるが、昼人よりもはっきりとした妖力を持っていて、その力を歌に込めて解放する。あらゆる益をもたらすものとして、権力者が所有することもあるのだとか。多くは温厚だが、一部には自らの力を悪用する輩もいるとも聞く。
まあ、全部、噂話程度しか知らないのだけれど。
だいたい、歌鳥なんて雲の上の存在だ。天翔出身のお偉いさんが連れているところしか見たことがない。ああいう連中の命は私らよりも重いとかで生まれながら価値が違うものなんだと、昔、夜人の誰かが開き直った態度で言っていたのを覚えている。
そんな歌鳥様の一人――いま目の前にいる小夜という娘がどういう人で、どういう経緯で此処にいるのか、私は妙に気になった。
「歌鳥……やっぱり。じゃあ、柄の悪い連中と用があるというのもこの子の為なのかな?」
率直な黒鯱の問いに、小夜は俯く。だが、満月と新月が一旦顔を見合わしてから、満月の方が答えてくれた。
「旅人さん、ここ数日は、十六夜広場にはあまり行かない方がいいですよ」
「ほう、それは何故かな?」
「言わなくても分かんだろ? 余所者にゃ首を突っ込むだけ損なことがあるのさ」
思わず口を挟むと、黒鯱の不思議そうな目がこちらを向いてきた。どうやらこの男、本気で分かっていないらしい。余所者というのはどうして危機感がないのだろうか。
十六夜町にて自分と関係のない厄介ごとに首を突っ込むなんて馬鹿のするものだって決まっている。血もつながらず永久の愛も誓っていないような他人の困難に無理してでも向き合わねばならないのは、群れに所属する野良犬くらいのものだ。
その野良犬だって、群れからひとたび離れれば誰も助けてはくれなくなるし、敵対する集団の一員が相手だとビックリするくらい敵意を剥きだしにして、もっと困らせてしまおうとするくらいだ。
そうでもしないと生き残れないのだ。
助けるとすれば、右も左も分からない駆け出しの夜人か、何らかの理由で路頭に迷ってしまった無害な昼人くらいのものだろう。
でもそれだって、わざわざ首を突っ込むわけではない。関わらざるを得なくなったときにやっと協力するのだ。非情と思われたとしても、自分の生活でいっぱいいっぱいなのだから仕方ない。
「これは失礼。言いつけどおり、僕は息をひそめておきますよ」
そう言って黒鯱は小夜から貰った湯呑の茶をごくりと飲む。
どうも他人事なんだよな。まるで真面目に聞いていないようだ。ただの世間知らずの向こう見ずなのか、相当の変わり者なのか……或いは、そんな態度を取れるだけの裏付けが存在するのか否か。
ああもう、分からねえ。
分かっているのは、この男はどうも胡散臭いってことだけ。悪い人ではないようなのだけれど、何とも言えないような引っかかりが魚の小骨のように残っていて気になってしょうがない。
けれど、そんな苛々は、満月によって解消された。
「ところで、明ちゃん。さっき、静海さんが来てね、明ちゃんを探していたみたいよ」
「へ? 静海さんが? なんで私を?」
「野良犬の坊ちゃんと狩りに出ていたんでしょう? その坊ちゃんの方に用があったみたい」
「隼人のことかい? 奴ならまた狩りに出ちゃったよ?」
「そのようね。静海さん心配していたわ。若犬特有の頑張り方で大丈夫かしらって」
あいつめ、やっぱり心配かけているんじゃないか。
飽きれ半分羨ましさ半分で私はしばし隼人を思った。心配してくれる年長の仲間がいるというのは心強いものだ。野良猫には一人で生きていくだけの気楽さがあると思われがちだが、群れる輩には群れるだけの得があるはず。仲間同士のいさかいなどの話を聞けば、野良猫生活はいいもんだと思えるものだが、こういう話を聞くと心の何処かにしこりを感じてしまう。
――私も仲間ってのが欲しいのかもなあ。
現実的に考えれば、やっぱりこのままでいいかともなるのだけれど。
「結局、坊ちゃんを拾うのを諦めて、そのまま銭湯に行ったみたい。ついさっきの事だから、今いけばまだいるかもしれないわね」
「へえ、銭湯……つまり風呂屋のことですね……」
湯呑を片手に黒鯱が呟く。
あ、そうだ。そういえば、銭湯も案内しろと言っていたのを忘れていた。
「十六夜町の銭湯はちょっとした有名所だと聞いたのだけれど、本当かな?」
「さあ、余所の銭湯なんて私ゃ知らんからね」
素っ気無く返したものの、確かに余所者は口を揃えて十六夜町の銭湯はいい所だと言う。
昔は銭湯は混浴であり、その上俗物として御上に取り締まられるほどに荒れていた時代もあって、それはそれで余所の男や出稼ぎ女をたいそう呼び込んだそうなのだけれど、今はそんな時代でもない。
それでも余所者がいい場所だという理由は、単に凝った造りをしているからなのだろうか。
男湯の雰囲気がどうなっているかなんて知ったこっちゃないが、どうせ月替わりで男湯と女湯が入れ替わるのだから疑問は大して残らない。
言われてみれば確かに、十六夜町一の銭湯「鶴亀」は金持ちが趣味で投資してくれただけあって、裸のまま冒険が出来るほどに広い。
独り立ちしたばかりの頃は、湯船を巡って逆上せた挙句に体調を崩し、年長の夜人などに迷惑をかけたものだった。
まあ、つい二、三年前のことなのだけれど。
「そうそう、『鶴亀』だ」
黒鯱が言った。
「僕が聞いた銭湯はそんな名前だったね。教えてくれた人によれば、地図でも欲しいくらいに広くて、異世界にすら繋がっていそうなのだとか」
「はは、大げさな話だね。でも、広いのは確かだと思うよ。花の国の姉ちゃんが吃驚してるとこを何度か見たことあるからね」
花の国には巨大な銭湯などないのだろうか。
私が聞いたことのある花の国の風習は、七つの聖地に七つの神、そして七人の巫女だけだ。堅苦しい決まりごとに堅苦しい信仰心などが加えられ、十六夜町の住人には到底飛び込めないような高尚な世界が広がっているのだと、萬屋のおっちゃんが言っていた。
そんな場所にある銭湯もきっと、こことは比べ物にならないほどひっそりとしていて、堅苦しいのかもしれない。あるいは、そもそも銭湯なんてないのか。
何にせよ、花の国から来たという黒鯱。彼にとっても「鶴亀」はびっくりする場所に違いない。
「それは楽しみだなあ。ここは何処を見ても花の国よりも煌びやかだから、きっと見どころの銭湯も煌びやかなんだろうなあ」
「もともと十六夜町は花の国の一部だった時代もあるから、幻の八番目の聖地として持て囃されていた歴史もあるんですよ」
そう説明したのは、天翔人であるはずの小夜だった。
「今は殆どその面影もありませんが、『鶴亀』には幻の八番目の花の女神『朝顔様』の肖像や彫刻が祀ってあります。時計台の下にもひっそりと祠が残されていて、いまでもお参りをする人が多いらしいですよ」
「へえ、よく知ってるね。私なんか、ぜんぜん意識したことなかった」
心から感心し、思わず口を挟んだ。
やっぱり歌鳥ともなれば、教育も念入りに受けるものなのだろうか。
「天翔で少しこちらについて学びましたから……。先生の教えがよかったのでしょうね」
謙虚なところもなんだか私ら夜人とは違うなあ。
私らのような夜人が謙虚な態度とかとると、お前それ生き残る気あるのかと寧ろ怒られるものだ。昼人ならばそうではなく、小夜のこういう態度が好まれるのだけれど、夜人がそういった態度を真似るということは、お笑い話となってしまうのだ。
それはともかく、こんなお嬢様のような歌鳥の小夜がどうしてこんな店(蛙の親父、御免)で働いているのだろう。確かに、黒鯱が食いついたように、私も気になってきた。
いけない。無駄な好奇心は命取りだ。
「なるほど。参考になるね。後で行った時に確認してみるよ」
黒鯱はそう言いながらいつの間にか私の持っていた品書きを奪い取って眺めていた。
そういえば、旅人が前に言っていたのだけれど、この地域の文字には癖があるらしい。そのためだろう、品書きを見ながら黒鯱は面白いくらいに顔を歪ませている。
不満も忘れてその様子をしばし眺めていたら、満月がすっと別の品書きを差し出してくれた。
「明ちゃんも銭湯行く前に何か食べていったら?」
「そうだねえ。かるーく、食べるのもいいかも」
「炒り子とか?」
「あ、それがいい」
「うん、分かった。少しだけ待っててね」
そう言って、満月だけが厨房へと消えた。
ちなみに、炒り子は迷った時に注文する。
その名の通り、炒子を米の上にたっぷり載せただけの丼ものだ。
それにしても鰯を煮干しただけでどうしてあんなに美味しいのだろう。そして、この「月夜屋」特性のお茶ととても合うのが嬉しい。炒り子とお茶だけで後は何にもいらないと思うくらいだ。
……まあ、私の主食は影鬼たちの魂なので本当に何もいらないのだけれど。
それに、お気に入りの品は何も炒り子だけってわけじゃない。
「黒鯱さんは何になさいます? よければ説明いたしますよ?」
小夜に優しく問われ、黒鯱は首を傾げつつ何かを訊ねている。
「ねえ、新月」
残されていた引っ込み思案に私は容赦なく訊ねる。
「小夜ちゃんっていつから此処に居るの?」
「えっと……先月……だったかな……?」
「え、そんなに前から?」
驚いて顔を見上げると、新月はびくりと体を震わせた。
そんなに短い付き合いじゃないのだけれど……というか、もう何年もの付き合いのはずなのだけれど、いまだに新月の方は私を若干怖がっている。
まあ、兎の血が強く出ているのだと考えると仕方がないのかもしれない。彼女が穏やかに話せるのは蛙の親父と、双子の片割れと、同じ兎と、あとは虫や幼子くらいのものだろう。それに、たまに言われるのだが、驚くと私の瞳は分かりやすく広がるらしくて、そういうところも新月を怖がらせている要因なのかもしれない。うむ、気を付け……られないな、さすがにそこは。
「うん……訳あってこの町に流れてきたみたいで……その――」
「おやっさんも私たちも落ち着くまで家にいたらいいって言ったんだけれど、本人がそろそろ働きたいって言い出したから、店に出てもらったの」
新月をフォローする形で割って入ってきたのは満月。
手にはもう炒り子丼を載せた盆があった。あつあつの飯に炒り子。これで銭一つなのだからとても安い。見ただけで涎が出てきそうだった。さらに時間があるときは、これに焼き鳥なんかもつける。今日はやめておくけれど、明日は焼き鳥食べに来ようかな。
……ってあれ、歌鳥がいる場所でそんなこと思っていていいのだろうか。
内心気まずくなりながら、私は箸を手に取り、炒り子丼を口に含んだ。
ああ、やばい。すごく美味い。難しいことがすべて流れ落ちてしまいそうなくらい幸せだ。
さて、随分と情けない顔をしていたのだろう。気づけば、満月と新月の二人が、私の顔をじっと覗き込んで、各々の性格が存分に含まれた笑みを浮かべていた。
「相変わらず、良い食べっぷり。その顔が見たくて、おやっさん、いつでも炒り子丼出せるように準備しているんだよ」
「え、大将が?」
「うん。来ない日が続くと、どっかで死んでんじゃないかって心配してるんだから」
満月の言葉に驚きつつ、ふと見てみれば、蛙の親父が慌てて目を逸らして瓦版を眺めていた。その動きでは、まとも字なんか追えちゃいないだろう。こっちを見ていたのはバレバレだ。
それにしても、こりゃ驚いた。
いつも来ても来なくてもいいような顔をしているくせに。今日だってほら、邪魔するなら帰れだもんな。でも、あの様子じゃまんざら嘘でもなさそうである。
ふうん、これからもっとちょくちょく顔だしてやろうかね。
と言っても、昼人様からの施しがなきゃこれない店なのだけれども。
銭。銭。銭だ。
夜人として生きてはいけても、昼人と共存するこの町を快適に過ごすにゃ、銭が多い方がいい。
「私もなんか銭稼げる仕事でもしようかなあ……」
「え? 明ちゃんが? なんで?」
素直に驚く満月に苦笑が浮かぶ。
確かに、必要はないだろう。施してくれる昼人もいるし、腹を満たしてくれる影鬼もうろちょろしている。それだけあれば、十二分に楽しめるってのに、なんでわざわざ仕事を増やすのか。
ちなみに、蛙の親父が店を切り盛りしている理由は、今は亡き昼人の親族の遺志を受け継いでの事らしい。昼人ながら、先祖の化け蛙と縁のあるこの店を守ってきたその人。相当な美人だったとも聞くが、そんなことは関係なく、恩人だからこそ彼女の役に立ちたいのだといつか親父は言っていた。そんな親父に恩を返すために満月と新月も働き、影鬼狩りと両立させている。
ここの夜人たちは立派なもんだ。施しなしで銭を稼いでいるのだから。
私にもそれが出来るだろうか。
「うん、何となく思っただけさ。用心棒とか、何でも屋とか、いろいろあるじゃないか」
「明ちゃんが用心棒ねえ」
いまいちな反応の満月。
「何だい、私が用心棒じゃ頼りないってかぁ?」
「いやいや、そういうわけじゃないけれど、何となくそういうのって野良犬の仕事な気がして」
「あー……」
――なるほど。
確かに、野良猫の用心棒ってあまりいない気がする。番犬という言葉があるように、重鎮の守護をするのはいかつい野良犬のおっさんだ。時に、御姐さんだったりもするけれど、それはともかく犬であるのには変わりない。隼人たちだってそうだしね。
うーん、やはり私にゃ向いていないのだろうか。
想像だけであっさりと方向転換を強いられることとなったのはいいとして、気付けば黒鯱が何やら注文して半分以上食べているではないか。
あれは確か、サバの煮つけ。私も食いたいのだが、野良猫には味が濃すぎると蛙の親父に怒られた一品だ。
それをもう半分以上?
まずい。早く食わないと案内させられる。
私は急いで炒り子丼にがっついた。




