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7.化け猫

 勝てない。

 得られたものは身の程というものだけ。


 打ち合いは続き、やがて一度も見せ場を作ることもできぬまま、疲労に足を奪われ、私は地面に寝転んだ。十四夜の慰霊碑前の地面はしっとりとしている。風呂に入りたいという思いも今さらというほど、汗と汚れまみれだった。

 そのうえ、体は擦り傷だらけだ。だが、擦り傷で済んでいるということは、相当手加減してもらっていることなのだと隼人は言っていた。

 彼によれば、鬼灯とはそれだけの力があるものらしい。とくに、八人衆に選ばれる男は相当優秀なもので、末端であっても多種族や他郷の者が苦戦するほどの相手なのだとか。


 それだけ強いならば、半妖程度の私が負けても仕方ないのだろうか。

 いや、そうは思わない。勝てなくては意味がない。勝てなくては死んでしまう。女豹から身を守るためには、今の実力に甘んじてはならないのだ。

 こうして、大人たちが協力してくれる。蛇穴の八人衆様とお手合わせだなんて一生ない機会なのだろう。そう思えば思うほど、地面の上にいつまでも寝っ転がっているわけにはいかないと起き上がってみた矢先、激しい痛みに猫らしくギャーと鳴いてしまった。


 勝負あったといつの間にか剣を収めていた黒鯱が、やはりいつの間にか隠し持っていた瓶から酒を取り出して、私の腕の傷口をどっぷりと洗い流したのだ。

 それが、ものすごく沁みた。どのくらい沁みたかといえば、言葉が出ないほどだ。以前、同じように傷口を洗ってもらったときの冷水とは比べ物にならない。


「ちょっと辛抱してくださいね。傷に沁みるのは確かですが、我々鬼灯以外にも効く良薬です」

「……くぅぅ……鬼灯の奴らって、怪我する度にこんな思いをするのかい?」

「子どもの頃は大泣きしていますね。でも、成長すれば男女ともに泣かなくなりますよ。……まあ、一生かかっても泣き続けるものもいますが」


 私はきっと後者だろう。そう感じた。

 それにしても、戦っていないときの黒鯱は今までと変わらないほど穏やかだ。八番目様と黒鯱の二人が存在しているかのようだが、それだけに羨ましかった。これほどの力をここまで隠すことができるのも才能と修行によるものなのだろう。そのうちの才能についてはどんなに羨んでも仕方ないが、修行は違う。羨む暇があるなら、積極的に体を動かした方がいいとそう思った。

 だが、動こうにも今日はもう限界のようだ。どうにか起き上がれたものの、そこから立ち上がるということが難しかったのだ。おまけに酒が沁みる。ひどいものだ。


「もっとも、効果的なのはこの御神酒を飲むことなのですが――」

「あの、黒鯱兄さん、未成年に酒はいけないんですよ」


 真面目にそういったのは、傍から見守っていた隼人だった。規則に厳しい彼のまなざしに、黒鯱もおどけた様子で手を挙げる。


「おや、そうでしたっけ。心配ありません。これはお薬です。それにここで飲ませたりはしませんよ」

「そうだよ、隼人。相変わらずビビりだなあ」


 痛みをこらえつつ揶揄ってやると、隼人はむっとした顔をした。


「なんだとぉ! せっかく他人が心配してやってんのによー!」


 そうして頬杖をついてしまった。

 十四夜にいるのは私と隼人、黒鯱だけだ。牡丹もいなけりゃ熊手もいない。もちろん、静海さんもいない。私たち二人と黒鯱だけだった。

 怪我をした熊手はともかく、どうやら牡丹は忙しいらしい。十六夜広場は今日も立て込んでいるのだろう。女豹は捕まらず、また新たな犠牲者がいつ出るのかと不安でいっぱいだった。

 昼人は標的とならないといわれていたが、こちらはこちらで別の問題が増えている。それは、悪党どもによる治安の乱れだ。夜人連中どころかお役人さんまでが揃いも揃って女豹に振り回されているもんだから、昼人を標的とした窃盗だの喧嘩だの婦女暴行だの殺人だのが発生しているらしい。


 ミサゴ様もさぞ頭を抱えているだろう。

 ほれ見ろ、やっぱり十六夜町は天翔と合併すべきなんだと言われたらどうする。花の国の大使も調査のために時計台に来ているというし、もう不安でいっぱいだ。

 って言っても、実際に合併した後の私の暮らしがどのように変化しちまうのかは知らないんだけども。


 だが、このままじゃマズイってことは分かるし、女豹は安心安全の私の日常に邪魔でしかないのは確かだ。

 同じ魂喰い獣として引導を渡してやるためにも、まずは野良犬様方に邪魔者扱いされない程度には動けるようにならにゃならん。つまり、黒鯱をビビらす程度には動けるようにならにゃならないのだ。


 未熟な私が立派に動くにはどうすればいいか。

 その答えが手加減した黒鯱に勝つことと、完全なる獣化の習得であった。


「ふぬぬ……」


 せめて立ちあがれないならと猫化の練習を始めてみたが、その頭を黒鯱にポンと軽く叩かれた。


「今は休んだ方がいい。焦らずとも、だんだんと妖力の使い方がうまくなっていますよ」

「本当?」


 疑いの心を隠さずに黒鯱を見上げてみれば、彼はいつものあの胡散臭い笑顔で頷いた。


「本当ですよ。私が本当以外のことを言ったことってありましたっけ?」


 ――うーん、なかったかなあ。

 悩んでしまうのは、八人衆とかいう大層な身分をずっとお隠しになっていたせいだろう。最初は暢気な観光客だと思っていたのに、なんでえ、私よりずっと強いでやんの。本当に世間は不平等だ。鬼灯様に生まれたかったなんて言わねえけど、猫なんかじゃなくて、せめて女豹に対抗できる虎だの獅子だのそういった猛獣に生まれたかった。奴らなら、獣化になんか頼らなくたって力押しで女豹と戦えるはずだろう。

 もちろん、それだけで女豹の首をとれるものなら、もうとっくに事件は解決しているのだろうけれど。


「さて、今日のところはこの辺で終わりましょうか」

「待っておくれよ。もう少し休んだら私まだ――」

「すみません、明。呼ばれているのです。十六夜町ではまだ女豹の捜索と闘いが続いていますから……」


 そう言われてしまえば引き留めようがない。

 仕方なく黙る私に詫びながら、黒鯱は去っていったのだった。


 残されるのはぜえぜえ息を整えながら体を休める私と、そんな私に何故か律義に付き合う隼人。大人たちはいない。皆、戦いに行ってしまった。果たして、女豹は倒せるのか。私のこの訓練も、無意味となってくれたらどんなにいいだろう。


 しかしそうは思えない。

 なぜなら、牡丹だけでなく黒鯱までも苦戦しているのだもの。


「それにしてもよぉ、明」


 不貞腐れていた隼人が急に声をあげた。機嫌が直ったのか、先程のような表情は全くない。


「黒鯱兄さんの妖刀。ありゃ、いつ見ても不気味だね。さすがは女神のお力だ。他国のこととはいえ、感心しちまうほどだ。あれと戦わにゃならんなんてさぞかしご苦労なことだ」

「ああ、そりゃどうも……だが、そんな黒鯱ですら手古摺ってんのが女豹の奴なんだぞ」


 私もまた座り込んだまま頬杖をつく。

 人気ひとけのない十四夜の広場で聞こえてくるのは鳥のさえずりばかり。見守っているものがいるとすれば、それはここで眠っている英霊の女性とやらだろう。

 刺さっている妖刀が現役ならば、どれだけ役に立っただろう。しかし、現実は錆びついた刀じゃ猛獣を倒せない。黒霧とかいう女神の恩恵と向き合えば向き合うほど、あれで仕留めることが出来ない現状の恐ろしさを理解していった。


「信じられんね。本当に八番目様は本気を出して戦っているんだか。そうじゃなきゃ勝てる気がしないよ。何もかも力は上。妖力解放なんてしたところで、神の血を引くお方々に勝てるたあ思えないのが正直なところさ」

「なんだい、明。そんな思いで戦っていたのかい?」


 隼人はあきれたようだ。しかし、すぐに考えを変えたようで腕を組みつつ頷いた。


「まあ、確かにそう思っても仕方ねえか。何しろ、黒霧は怖い。有り物の刀だって恐ろしいというのに、黒霧はないと思った場所から現れ、あると思った場所から消える。兄さんの様子を見ていると、だいぶ加減しているようだが、戦っている相手の視界から外れた位置に瞬時に移動させて、グサッといくことも出来るんだろうなあ」

「……瞬時に視界よりはずれ……か」


 相手を翻弄して戦う。ただ力をつけて殴るだけが強さではない。知恵を生かして戦いを回避するという勝利の形もある。

 これらは夜人の諸先輩方よりいただいた助言でもある。もちろん、ボコッと殴って勝つだけが正義だと仰る先輩もいたし、運の良さがあるかどうかが全てだという友人もいた。だが、腕力のない私が勝ち残るためには、物理的な力と運の良さだけに頼ってはいけないことがよく分かる。


 だからこそ、言い聞かせていたのだ。うまく立ち回ることが大事だと。


 けれど、ふと考える。私はそれを出来ていただろうか。


「なあ、隼人。あんたさ、翻弄する闘いって練習したことある?」

「ん? 翻弄する闘い? さあ、どうだろう。動きは、兄貴たちに付き合ってもらっている。取っ組み合いをするんだ。もちろん、兄貴たちは手加減してくれるが、これがなかなかいい。ただ、いちいち覚えちゃいねえよ。体が覚えちまっているから」

「……ふうん。じゃあ、練習あるのみってわけ?」

「そうだな。うん、そういうことになるな」


 ちょっと羨ましい。私がやるには別の大人に頼むか、隼人以外の友人をかき集めてくるか。もしくは紐でつるした丸太なんかを振り子にして練習するか……。


「そういや、翻弄で思い出したんだが」


 悩んでいると、隼人の奴が急に言い出した。


「静海姐さんが愛用している『送り狼』のことなんだがね、あれって翻弄する武器なんだってよ」

「翻弄する武器?」

「ああ、なんでもね、妖刀ってもんはただ折れないってだけじゃない。斬ることで何かしら奇妙な効果をもたらすものなんだって。それで、『送り狼』はいつ斬ったのかを相手に悟らせないことで優位に立つ。それが結構難しいらしくて、刀に好かれていないと紙切れも斬らせてくれないらしい」

「いつ斬ったか分からない……それだけ素早いってこと?」

「んー、そうだな。俺、姐さんが案山子を切るところを見たんだけどな、あれは早いっていうか見えないって感じだった。姿を消すんだ。でも、姿が消えているんじゃない。大抵の者が想定する位置に刃がないんだ。刀ならば普通動かないような部分が動いて案山子の横を通り過ぎた。それで、案山子の背後に回ってから、刃だけが動いて斬ってしまうのさ。その切れ味は大したことないかもしれない。だが、相手の予想しない動きをするってところに恐怖を感じたんだ」


 相手の予想しない、か。

 頭では分かっているつもりのことだ。しかし、改めてそのことを肝に銘じると、何やら感覚が変わった気がした。私は妖力解放に何を想像していただろう。アヤカシの部分を目覚めさせることで、「木天蓼」を使いこなすだけではなく、今までの私とは違う、強力な肉体の私になるのだと心のどこかで信じていたような気がした。

 違う。いつかはそうなれればいいかもしれないが、今のところはそうじゃない。私が目指すべき部分は、もっと手前の到達点なのではないか。


 そうだ。町にいる猫たちを思い出してみよう。

 彼らは可愛いだけの存在ではないが、どうしても猛獣であることを想像しがたい。中型、大型の野良犬に比べれば、よほど近づかなければ危ないということはないだろう。

 私が目指すのは、まず、あれなのではないか。


「なあ、隼人。全然関係ないこと聞いていい?」


 いまだに付き添ってくれる友人に、私は訊ねる。


「おう、なんだい?」

「隼人が想像する私の猫姿ってどんなの?」


 訊ねてみると、隼人はうーんと腕を組み考え始める。そしてこう答えた。


「三毛猫かなあ。いや、なんとなくだが、俺たちの縄張りにいる三毛猫のオバサンにちょっと似ているんだよ」

「オバサン……」

「あ、違う違う。オバサンってところじゃなくて、その猫が子猫の頃からなんか明を思い出すんだよ。っていうか、逆に聞くけど、俺は?」

「萬屋の千代丸かなあ」

「千代丸かよぉ……」

「いいじゃんか。千代丸かわいいし、あれでもいざとなれば唸れるはずさ」

「だとしても、アイツももうオッサンだぜ? もっと若くて勇ましい犬がいいかなあ」


 相打ちとなったところで、ひとしきり笑い、笑い疲れてほっと一息ついてみる。

 こうして休んでいる間にも、黒鯱やら牡丹やらは女豹を追い詰めているのだろう。訓練している間に、頼れる大人たちが倒してくれればとてもありがたい。だが、そうもいかないのだろう。


 いつか私と隼人の奴が本当にオバサンとオッサンになった後に、今日のことを笑って振り返る日が来るだろうか。来るためには、私も身を守ることができなくてはならない。


 そう、黒鯱たち大人が期待する化け猫の姿に――。


 ――化け猫?


 ふと、私は目をつぶった。

 そもそも、私の中に流れる化け猫はどういう姿をしていたのだろう。誰もが言葉で教えてはくれるけれど、実際にこの目で先祖を見たことはない。化け猫に変身する野良猫仲間を目の当たりにするわけでもないし、そもそも無理に血を目覚めさせないものだと言っていた。

 化け猫とはなんだろう。改めて考えみると、面白いことに気づいた。化け猫と聞いて、大きな生き物だとばかり思いこんでいた。虎のような姿で牙があって尾は裂けていて……そういうおっかない奴を思い浮かべていた。

 しかし、私の中に流れている血は、本当にそういう姿だろうか。


 化け猫。

 私の先祖。


 普段どんな奴らと会話をしているのか。その姿になれたとして、どのように動くつもりなのか。「黒霧」に「木天蓼」、そして静海さんの「送り狼」。

 翻弄する武器。翻弄する動き。


 目を開けたとき、脳裏に一つの光景が浮かんだ。

 突如、現れて消える黒霧と対抗するためにはどうすればいいのか。私自身は突如現れて消えることはできない。疲れ切っている今、その練習をすることもできないだろう。


 だが、少しだけ、気づいたことがあったのだ。

 気づいたというよりも、思いついたというほうが正しいだろうか。


「隼人……ちょっと見ていてくれる?」


 そういって、私は座ったまま集中した。


 化け猫。その存在については様々な人から様々な話を聞く。


 いつだったか、鶴亀で異国の人の話を聞いたのを覚えている。彼女は天翔だったか、日陽だったかの出身で、はるばる旅をして十六夜町までやってきた。

 半妖がうろちょろしているこの世界に驚きつつも、興味深いと興奮していた。


 そんな彼女が言っていたことを思い出したのだ。


 この世にはあらゆるアヤカシがいる。

 その中でも化け猫は人間に近い場所で息をひそめている。ただの猫のふりをして、人目を避けて本性を現す。猫の姿から変わらずとも、人間たちの知らない場所で宴会をし、飲み交わすのもまた化け猫なのだ。


 おっかない姿が私だろうか。

 いや、違う気がした。

 おっかない人物と自分自身は一致しない。


 私はカッコいい娘だろうか。

 いや、残念ながらそうではないだろう。

 目指しているものだって、かっこよさではないのだ。強さはかっこよさと必ずしも一致しない。時にはかっこ悪い姿の強者だっているだろう。


 どんなになりたい姿があろうと、無理なものは無理という現実だってあるのだ。重要なのは、どれが私自身に近いのかというもの。数ある理想の姿の中で、私が無理なくなれるのはどんな姿だろう。

 そんな疑問がふと浮かぶと、自然と体から力が抜けたのだ。


「あ、明……?」


 隼人の驚く顔が見える。

 だが、その顔がどんどん上へ上へと高くなっていく。


 否、私の視線が低くなっているのだ。一度、気づけばあとは簡単だった。コツを掴んで逆立ちができるようになった日のように、側転ができるようになった日のように、私は姿を変えられた。


「明……ね、猫だ……お前、猫の姿してるぞ!」

「どんな猫だ?」


 間違いなく私の声で尋ねれば、隼人が驚いた眼をしたまま答えてくれた。


「み、三毛猫が、俺が言った通り! いや、オバサン猫よりゃ細いが、たしかに三毛猫だ!」

「そっか」


 やっぱり、私は勘違いしていたのだ。

 私だけじゃない。大人たちは皆、単細胞だった。窮地に落とせば力が目覚めるというのも、半ば、すがるようなものだったのだろう。どうすればアヤカシの血が目覚めるかはいろいろ試さねば分からないのだと彼らは言っていた。

 そう、これにはアヤカシの血を目覚めさせる張本人である私の意識がとても大事だったのだ。


 私は無意識に勘違いしていた。

 アヤカシの血が目覚めれば強くなる。強くなれば、私は私でなくなるのだと思っていた。

 しかし、違う。たしかに、アヤカシの血を目覚めさせればこれまでの弱っちい私ではなくなるだろう。だが、それが強さに直結するわけじゃないのだ。

 強くなりたいあまり、私はかたくなになっていた。ぶつかれば、立ち向かえば、刀を練習すれば、黒鯱に勝てるのだと思い込んでいた。


 それも確かだろうと今でも思う。

 だが、大事なことを忘れていた。


 私が、私自身のことをもっとよく知らねばならない。暁の旦那が言っていたことを分かったつもりで、わかっていなかったのだ。


「隼人」


 ふらふらとしながらも猫の姿で立ち上がると、世界がでっかく見えた。

 さっきまでの暗さはいったいどこへ行ったのだろう。見えるのは光ばかりだ。この勢いで、私は隼人に向かって叫んだ。


「ちょっと私と付き合ってくれ!」


 その語弊に気づくのには、少し時間がかかってしまった。

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