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6.幼馴染

 これからしばらくお世話になるお屋敷の廊下を歩いていると、どことなく現実離れしたような感覚に陥ってしまう。本当に立派な屋敷なのだ。柱もしっかりとしているし、壁もちゃんとある。隙間風なんて吹かないし、床板も外れない……というか、そもそも床というものがあるなんてことが新鮮だった。

 何もかも、私の暮らしている環境とは違いすぎて体が痒くなりそうだった。こんな場所でずっと寝泊まりしているのだ。そりゃあ、隼人も私のことを家無しというわけだ。

 隼人と共に歩きながら、私は一人で惨めな気持ちになっていた。


 ともに歩いてしばらく、隼人は私を屋敷の庭へと案内してくれた。

 年頃の男女が歩くにはちょうどいい塀のなかだ。お手伝いさんやらなんやらが働いている間、私と隼人は贅沢にも暇を持て余していた。鳥が空を飛んだと言ったら見上げ、生け簀の魚が跳ねたとあっては見つめ、非現実的な時をしばらくともに消費していると、隼人の方がやっと口を開いてくれた。


「しばらく居心地が悪いかもしれないけれどさ」


 私の様子を窺いながら。


「……正直、俺はホッとしてんだ。言っちゃあ悪いが、あんなお城じゃ女豹に食ってくださいって言っているようなもんだ。月夜だって人の出入りが激しい。危険だ。遅かれ早かれ、こういう壁や塀に囲まれた場所に落ち着いた方がよかったって思うんだよ」

「悪かったね、あんなお城でさ」


 皮肉に皮肉を返しながら、私は頬杖をついた。


 こうして隼人と一緒にのんびり過ごすのも久しぶりかもしれない。狩りをしているときはどうしても殺伐とするものだし、月夜で一緒に飯を食べる時も喧騒に包まれていて落ち着きがない。こんなにも静かで、のどかで、落ち着いた場所で二人きりというのは、珍しいことだと思う。


「まあいいさ。ここにきてよくわかった」


 私は正直に認めた。


「井の中の蛙ってやつ。月夜の親父がよく言うあれ。何も知らないから、こういうもんだと思っていた。ここは本当に立派なお屋敷なんだねえ」


 もちろん、外観がすごいことは知っていた。

 だが、中に入って見てもすごかった。ハリボテだと思っていたというわけではないが、実際に歩いてみて、改めて自分のお城との格差を思い知らされる。

 こんな場所で、塀や壁に囲まれて育てば、そりゃあ茣蓙ござうえ生活せいかつなんざできないだろう。寒いし、危ないし、雨風防げないし、落ち着かないっていうのも分からないでもない。

 しかし――。


「なあ、隼人。お前は私の家みたいなのに住むのって怖い?」

「怖いな。あの場所は一度知られたら逃げ道がない。一人で住むような場所じゃねえ。だいたい、路地の途中で火事でもあったらどうする」

「ああ……火事……考えたことなかった」

「呆れたもんだ」


 素直な反応に、私の方も正直に舌打ちが出る。

 これは認めよう。私はモノを知らない。知っているものだとすっかり思っていたが、知らないことが多すぎた。勉学だけの問題じゃない。世間ってものを知らなかったのだ。大人と同じように生き延びているとばかり思っていたのに、最近じゃ、大人に守られている自分を意識してばかりだ。

 こうして、野良犬様のお屋敷を見渡しているだけでも、惨めな気持ちになってしまうほどだ。


 ……そうか。隼人はとっくの昔に知っていたんだ。

 自分がどれだけ子どもなのか、知っていた。野良犬だからってだけじゃない。隼人は分かっていたんだ。自分が弱いということを知っていたから、慎重に生きていただけなんだ。こんな場所で庇護され続けていれば、そうなるだろう。きちんと大人たちに囲まれ、過ごしていればそれだけ賢くなれる機会もあるさ。

 野良犬の生活は複雑そうだ。長い時間をかけなくては一人前になれないだろうとそれは分かる。しかし、間違ってはいけない。野良犬が大人になれるのに時間がかかるからと言って、野良猫がすぐに大人になれるというわけではないのだ。

 猫の集会が何故あるのか。熊手がどうして私にお小言をくれたのか。様々な場面が脳裏を駆け巡り、そして、パーンと光が見えた気がした。


 分かっているつもりだったが、私は、自分で知っている以上に、子どもだったんだ。


「なら、大人にならないと!」

「へ? 大人?」


 何故だか慌てふためく隼人に、私はこくりと頷いた。

 意志は固い。うじうじしている場合ではない。剣の修行もその一つ。強くなることこそ、私の得られる答えの一つでもある。


「立派な大人にならないと。私ゃ野良猫なんだよ。女豹がいなくなったら此処を出ていかにゃならない。一人で立派に生きていける大人にならないといけないんだ!」


 女豹がなんだ。弱肉強食がなんだ。

 私の先生はすごい人たちなんだぞ。純粋なるアヤカシ様たちがご教授くだすっているのだ。悲観してどうする。守ってくれるというのなら、尚更、修行に励めばいいだけじゃないか。そして、暁の旦那を見返してやろう。野良猫っていうものはこんなにも逞しいのだと思わせてやろうじゃないか。

 思いを滾らせ、願望ににやりとしていると、隼人が横で頭を掻きだした。


「あ、なんだ、大人ってそういうことか……へへ」

「ん?」


 見れば、何故だか彼は照れているようだった。


「そういうことって?」

「あ、いや、なんでもねえ! いやいや、それよりもさ、明。最近は黒鯱の兄さんを相手に鍛えているそうじゃないか」

「あー、うん……」

「どうだい? 鬼灯様ってやつの力は?」

「そこ聞いちゃう? 今も生傷だらけの私に」


 不服に思いながら口を尖らせてみれば、隼人もまた口を尖らせた。


「いいじゃねえか。俺に傷を負わせたんだからよ」

「あ! やっぱり根に持ってるな?」

「ちげーよ! そのくらいの特権はあるだろってことさ。傷が治ったらすぐにでも稽古の相手に復帰してやるつもりなんだからよ!」

「はは、その時は、隼人も獣になるといいよ」


 そう言って、ふと昔のことを思いだした。

 小さな子どもの頃は、起きている間、子犬や子猫のようにじゃれ合ったものだった。あの時の遊びの感覚は、隼人が大怪我するまで行っていた修行の時の感覚にも似ている。狩りにも似ているといえば似ているが、あちらは遠慮なんて存在しないので根本的に違う。

 隼人との鍛錬はそれだけ無邪気な心が伴うものだった。小さな頃、私たちはどの程度、妖力を使えただろうか。噂によれば、赤ん坊の頃に一番使えて成長と共に衰えていく妖力も存在するらしい。そんな不可思議な子どもの世界で、私と隼人はどんな思い出を重ねてきただろうか。


 まさか、未来がこんなにも殺伐としているだなんて思いもしなかった。

 いつ死んでもおかしくない。漠然とした当たり前を共有していると、なんだか妙に隼人との距離も前よりもずっと近いもののように思えてしまった。

 どうしてだろう。よく分からない。


「獣か。犬と猫の闘いか。持久戦になればオレの勝ちだな」

「一瞬で決めてやらあ。なんなら、分かりやすく紙風船でも付けて戦うか!」

「そりゃいい。昔よくやったチャンバラごっこだな。お袋さんにこっぴどく叱られたっけ」

「母ちゃん、昼人だからああいうの怖かったみたい。……元気してるかなあ」


 長く会っていない。

 連絡を取るとすれば、いつだろう。夜人というものは親の死に目にも会いに行かないものなのだと聞かされた。会いに行こうにも、どこにいるのだか分からないかららしい。

 また反対に、自分たちも子の前に現れたりしない。どうしても死ぬのが怖いのなら、動ける間に稼いでおいた銭を握りしめて寺に匿ってもらえばいい。

 そういうのが当たり前だから、会えていないのは寂しがるようなことじゃない。こちらから連絡を取る内容だって決めてあるのだ。父ちゃんに関する情報が得られたら、真っ先に母ちゃんに話すと決めてある。まあ、こちらは殆ど諦めているのだけれどね。


「隼人はさ、独り立ちしてから父ちゃんや母ちゃんに会った?」

「俺か。一回だけ会いに行った。この群れに入れてもらった後にね、お頭に言われて里帰りしたのさ」

「え、何それ、話してくれたっけ?」

「んにゃ、言っとらんかも。気恥ずかしかったからさ」

「なんだいそれ、水臭いなあ」


 とはいえ、気恥ずかしいという感覚は分かる。

 私だって無駄なことを恥ずかしがって、隼人に言わないでおいた事情がいくつもあったものだ。気が知れているからといって、なんでもかんでも話せるわけじゃない。これは、野良猫だから、野良犬だから、女だから、男だからということではないのだろう。

 問題となるのは、隠されていたうえでどう捉えるかなのだろう。私としては、隼人がいくら隠し事をしていたとしても、気にならない。気にしたところで大した利点もないからだ。


「まあ、いいや。それで、どうだった?」

「どうって?」

「御里帰りの感想さ!」

「ああ……お袋は褒めてくれたよ。十六夜町で一番の群れだからって。親父は大して何も。そういうもんさ」

「きっと気恥ずかしかったんだろうね」


 なんとなく、そう思った。

 隼人の父ちゃんと母ちゃん。殆ど関わったことはないが、ちょっとだけ覚えていることがある。たしか、どっちも野良犬で、現在は三夜周辺の治安を守っている中小規模の群れの一員だったと聞いたのだ。母ちゃんは優しい人だったらしい。私もあったことはあるが、あまり印象にない。ただ、父ちゃんはちょっと怖そうな人だったように覚えている。でも、それも、後々になって、私の父ちゃんと仲が良かったのだと聞いたことがあって、だいぶ印象が変わった。

 まあともかく、隼人の両親は二人とも立派な大人の夜人だったわけだ。しかし息子は見習い風情とはいえ、静海さん達のいる群れの一員になってしまったのだ。野良犬界では、親より出世したといってもいいだろう。父ちゃんが複雑な気持ちになったとしても不思議なことではない。


「あ、でもさ」


 隼人は口元にちょっとだけ微笑みを浮かべて付け加えた。


「お袋に見送られながらもう三夜を去るってときにね、親父が家からひょいっと出てきてぶっきら棒に見送ってくれたんだ。その様子がなんか妙に可愛くておかしくってさ。……はあ、小さい頃って親父がかっこよく見えたもんだが、本当はあんなに小さかったんだなあ……」


 想像がつく。確かに、妙に可愛くておかしい。

 釣られて微笑み、そして、なんだか切なくなった。


「母ちゃん、元気かなあ……」

「明は会いに行ってないの?」

「うん。父ちゃん見つけ出すまで連絡しないつもりでいた」

「ふうん、猫の意地ってやつかね?」

「さあ? でも、そうだな。状況が落ち着いたら、顔出しに行ってみようかな……」


 本当は、怖いという気持ちもあった。昼人しかいない血族の中に、私の居場所なんてあるのだろうか、と。

 それに、夜人は親の面倒なんか見ない。とくに野良猫は、生みの親がどうしているかなんて知らない。独り立ちしたら誰も守ってくれないのだから、頼ってはいけないというのが常識だった。

 しかし、そういうものだからといって、そうしなくてはいけないというわけではない。会いに行くことが禁じられているわけではないし、本当はかっこ悪いわけでもないのだろう。

 つまらない意地を張ってきたのだって、自分がもっと強かったからだと思っていたからだ。しかし、隼人は私の呟きに頷くのだった。


「そうしなよ。悪いことは言わん。後悔するくらいなら、ちょっくら顔出してきたらいい。弟妹の昼人っぷりを目の当たりにして、オレに「かるちゃーしょっく」ってやつを話してくれよ」

「かるちゃーしょっく? 何それ」

「同世代の昼人から教わった言葉だ。海を渡ってきた異世界の言語で、『異文化と向き合った時の精神的な衝撃』とかいう小難しい意味らしい。昼人や異世界・異国文化で新しいものや知らなかったものに触れるとビックリするだろ。どうも、ああいうののことっぽい」

「ふうん。じゃ、その「かるちゃーしょっく」ってやつもその時は話すよ」


 笑い合っているうちに、だんだんと落ち着いてきた。

 言葉にならない不安や疲れも、隼人と話しているうちに吹き飛んだらしい。


 そうか。そういう言葉も世の中にはあるんだ。この世界はそれだけ驚きが蔓延しているのだろう。そうでありながら、共に生きることができるのは何故か。同じ夜人とはいえ、全く同じ世界の人間とはとても言えそうにない隼人と、こうして友人関係を続けられる理由に答えがあるのだろう。


「隼人」


 私は友人に宣言した。


「私、強くなる! もっと強くなって、母ちゃんに会いに行く!」


 すると、隼人はじっと私の顔を見つめ、やがて大きく頷いた。


「頑張れよ」


 その一言に勇気がわいた。

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