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5.送り狼

 野良犬の殆どが去ってしまった広間にて、閉じられた襖を眺めたまま私は呆然としていた。


 ――稽古は……してもいいんだよね。


 最低限の掟を頭に叩き込んで、自分を落ち着かせるのに必死だった。


「明……おおい、明ってば! しっかりしろー!」


 そこへ、放心状態の私の身体を揺さぶる少年が一人。

 真横できゃんきゃん吠えられて、私はようやく我に返った。


「お、おう、隼人……。あ、傷は……傷はもう平気かい?」


 私のせいで大怪我をして以来だ。見たところ包帯だらけというわけではないが、今も腕やら足やらは包帯をしているし、ほっぺには絆創膏が貼ってある。私の鼻にも分かるくらい薬漬けだ。なんだか申し訳ない気持ちが爆発する。


「そんな顔すんなって。ますます惨めな気持ちになるだろ?」


 しかし隼人はそんな私を心配させぬためか、元気よく笑った。いいやつだ、と思う。犬と猫という垣根さえなければ、たぶんとっくに告白していた。しかし、私は猫でこいつは犬だから、そんな未来もない。というか、こいつにだって選ぶ権利がある。猫の私なんかよりもいい野良犬の女子を探した方がいいだろう。

 

 って、何を妄想しているのだ、私は。恥ずかしいな。


「んまあ、あんま無茶できないってことで、最近はお手伝いの姉ちゃんたちと家事やってるけどよ、でも一方的に看病されるばかりじゃねえぜ」

「その様子なら安心したよ。はあ、隼人。私、飼い猫だってさ。変な気持ち。猫鈴でも貰えるのかな?」

「欲しいならあげようか?」


 ふいに口を挟まれてドキッとした。

 そうだ。静海さんも此処に居るのだった。立ち上がろうとしているところだったが、なかなかしんどそうだ。隼人が手を貸そうと立ち上がるも、その前に居残ったお手伝いの野良犬姉さんが手早く駆けつけた。

 介助を受けながら立つところを見る限り、あちらはまだまだ万全ではない。それもこれも女豹の仕業ということだろう。


 私は固唾を飲んで、静海さんに話しかけてみた。


「あの……その傷、女豹にやられたんですよね?」


 単刀直入過ぎただろうかと後悔するも遅い。ベテランの野良犬のプライドを傷つけたのだろう表情にヒヤリとしたが、静海さんは特に苦言などは漏らさずに答えてくれた。


「そうだね。油断した……というのはまた違うね。完敗だった。生きているだけ儲けものさ。同じ魂喰い獣の大人の女。豹と犬の違いなんて妖刀を使えばどうにでもなるって信じていたんだけどね」

「妖刀?」


 尋ね返せば、静海さんは「おや」と笑みを漏らした。

 お手伝いさんに促して、一人でどうにか立って見せる。弱々しいその姿は物悲しさすら宿っているが、野犬の眼差しはいつもと同じくらい、いや、それ以上に鋭い。


「『送り狼』」


 静海さんは言った。


「大昔に山神の女――真神まかみが使っていたとされる妖刀だよ。狼や犬のための刀。かつてこの場所を荒らした悪鬼と戦い、満足に動けぬ花神の代わりに羊と呼ばれる人間の少女を守るために力を貸した。私の活躍の殆どはこの『送り狼』の力によるものなの。知らなかった?」


 優しく問われ、私はこくりと頷いた。

 しかし、目はまん丸だっただろう。そう、驚きと興奮が胸に宿っていた。つまり、静海さんが持っているのは、かつてこの場所を救った正義の雌狼の愛刀。かつてそれを求めている人の名を聞いたことがあった。黒鯱――いや、八番目様とやらから聞いたのだ。送り狼に今一番興味を持っている人がいる。最前線で戦い続けている人の中に。


「この通り、私は戦えない。あの妖刀は野良犬であっても誰にでも使えるわけではなくてね、私の亭主も使おうとしてみたけれど、駄目だった。もともと犬神のための刀ではないから仕方ない。今は私の部屋で眠っているんだ」


 ふうとため息を吐く静海さんをそっと見上げた。


「牡丹さんが……」


 堪らずにその名を口にした。


「その妖刀を探していました」


 どういう反応を期待していたのか、自分でもわからない。

 ただ、私の発言によって生じた静海さんの表情の変化に、私自身も戸惑った。妙に暗い顔をしている。牡丹というのが誰なのか、知らないわけではないのだろう。

 静海さんはいつか言っていた。人狼のことをあまりよく思っていない。しかし、牡丹はこの十六夜町のために戦っているのだ。戦わされている、が正しいのかもしれないけれど。


 思うところはたくさんあるが、私はそれ以上何も言えなかった。


 ――その妖刀を牡丹さんに貸してあげてください。


 そういうだけで良いはずなのに、何故か躊躇ってしまった。

 雰囲気に圧されたと言えばいいのだろうか。分からない。ただ、私は情けない。野良猫として生きることに甘えているのだろうか。さっきは野良犬共のお頭に強気な発言を出来たというのに、静海さんの言葉に言い表せぬ物悲しさやら嫉妬心やらの含まれているような表情を前にすると、堂々と発言する気持ちも萎えてしまったのだ。

 隼人が私と静海さんとを見比べている。お手伝いさんもだ。二人とも、ただならぬ空気の変化に気づいたのだろう。


 静海さんは私をじっと見つめていた。目を合わせることが出来ず、すぐに俯く。だが、見つめているままだ。負傷して満足に動けないとは思えぬほどの迫力だった。


「そのようね」


 やがて冷や水のような声がもたらされた。感情を抑えてはいるが、内に秘めたるその思いは牡丹に対してあまりいいものを抱いていない気がした。

 静海さんは大きくため息を吐いた。


「この妖刀は此処に真神が居ついていた証でもある。大昔に、悪鬼に利用された鬼灯の少女を連れて、真神は混乱する十六夜を治める戦いに身を投じたらしい。平和が戻ったその後、真神は犬神との間に子を残したと言われている。でも、真神は犬神と子を残して十六夜を去ったらしい。花の国で聖地を守る羊たちに会いに行くと言って、鬼灯の子と一緒に旅立って、そのまま行方知れずになった。あとに残されたのが真神の血を引く子と、真神が我が子に残した『送り狼』だった。以来、これは私の一族に伝わる宝となっているの」

「……じゃあ、静海さんは真神の子孫なんだ」

「――そう、言われているってだけ。本当はどうだか分かんないけどね。ただ言えるのは、先祖代々あの『送り狼』を守ってきたという事。そう安々と人に貸せるものではない。明ちゃん、覚えておきなさい。妖刀というものは簡単に人に渡してはいけないんだ。正統な持ち主になった以上、自分の体の一部だと思って扱いなさい」


 説教は慣れないものだ。でも、今は素直に頷くことにした。委縮していたからではない。物事はそう単純ではないのだと理解したからだ。

 それに、静海さんの言う通り、他人事ではない。私もすでに木天蓼を受け取った身。正当性を主張する何者かが現れたとしても、そうやすやすと譲っていいものではないのだろう。

 ならば、どうすればいいのか。そう、私こそが木天蓼の持ち主であると胸を張れるようなアヤカシにならなければいけない。


「明」


 不安そうに隼人が視線を送ってくる。狂犬ばかりといった印象しかないこのねぐら。馴染みの静海さんすら凶暴な狼にも見えてしまう中、彼だけは何も知らない子犬のようだった。

 もちろん、そういうわけはないのだろう。たぶん、あまり静海さんに口答えするなと言いたいのだと思う。彼は下っ端。野良猫でないのだから、静海さんの機嫌を損ねるのを恐れているのだろう。私としては正直馬鹿馬鹿しく思ってしまう。でも、面と向かって馬鹿にしていいわけではないと教養ある夜人なら分からなくてはならない。

 血筋ごとの特性は、誰よりも夜人が理解し、尊重しなければならない。でないと、私たちは本当にケダモノになってしまう。十六夜町に住まう理由さえ失ってしまう。


「分かってるさ」


 私は素直に頭を下げた。


「ちょっと言ってみただけだよ。気分を害しちゃったのなら、すみません」


 隼人の見守る中、静海さんは表情をほとんど変えずに頷いた。


「そう謝らなくてもいい。疑問に思うことは大事だからね。それに、明ちゃんは野良猫。犬じゃないのだから、無理をする必要はないわ」

「すいません、静海姐さん」


 何故だか隼人も謝ると、静海さんはそっと笑みをこぼしたのだった。


「いいって言っているでしょう。怒ってはいないよ。さあさ、そろそろ行きなさいな。いつまでも此処に居たって茶菓子なんて出ないよ」


 それ以上はしつこいだけだ。

 静海さんに言われるままに、私は隼人と共に大広間を後にした。


 軋む廊下を歩きながら、ちゃんとした家というものを実感しながら、私はふと静海さんとの会話を反芻していた。

 妖刀を持つということ。その責任。その誇り。これまでの私には何一つ実感していなかったことが、少しずつ根付こうとしていた。がむしゃらに強くなろうとするだけでは駄目なのだろう。木天蓼を使いこなすということがどういうことなのか、木天蓼に相応しい人物とはどういうものなのか、少しずつ知っていかなくてはならないのかもしれない。

 隼人が歩くままについて行きながら、私は自分に言い聞かせていた。

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