3.お迎え
コテンパンってパンの一種なのかな、なんだか美味しそうだな。
そんなことを思いながら私は耐えていた。生傷だらけの身体に薬草でつくった傷薬とやらを塗られ、その度にびくりと体を震わせていた。
耳や尻尾があったら、きっと毛が逆立っていたことだろう。しかし、残念ながらそんなことはなかった。私と稽古した誰もが獣化の兆候はあると教えてくれた。けれど、兆候では駄目なのだ。完全に獣になれなければ、そしてその力を制御できなければ、きっと女豹にはかなわない。
のんびりはしていられない。
いつまた女豹が襲ってくるかも分からない状況下、あまり時間はないのだと思うとますます落ち着かなかった。ああ、お天道さまも意地悪なものだ。あまり妬んだってみっともないのだと分かっていても、やはり私は妬んでしまう。この生傷を作り上げた張本人である黒鯱――いや、八番目とやらの力を間近で受ければ、そう思っても仕方ないだろう。
なんで私は半妖なんていう半端者なのだろう。
人間ならば人間として生きていけたし、アヤカシならばアヤカシとして生きていけた。
これまで深く考えたことはなかったけれど、鬼灯の者とやらの妖力をこの目で認め、感じれば、半妖ならば誰だって妬んでしまうのではなかろうか。
「はい、明ちゃん。これでおしまい」
「あいたっ!」
ぺしっと包帯を叩かれて、思わず身震いしてしまった。
結構な痛みだが、叩いた張本人はけろっとした様子で後片付けをしている。半ば恨みのこもった眼差しで振り返る私を、その無垢な瞳がじっと見つめてきた。
「痛いよう、新月……」
そう、ここは月夜屋の空き客間。
黒鯱に敗北し、ぼろぼろになった私を新月が手当てしてくれていた。
双子の姉妹であった満月がいなくなってから、まるでその姉妹に取り憑かれたように新月の言葉数は増えた。そればかりではなく、おどおどとした態度も減り、表情豊かになった。
今日になって知ったが、満月の死の時は今まで抑えてきた感情が全て爆発したかのように泣き喚いたそうだから、当然かもしれない。満月の死が彼女を変えた。いいことなのか、そうでもないのかよく分からない。私には全くいいことだとは思えない。だが、新月が喋るようになって、蛙の親父もちょっとは安心したらしいことは確かだ。
「なあに、情けないなあ。あの鬼灯様と剣を交えたんでしょう? このくらいの痛み、どうってことないじゃない」
「うへえ、手厳しいや」
満月の死は私が弱かったせいだとやっぱり思っている。仕方なかったんだと慰めても貰ったが、双子の姉妹を助けてやれなかった負い目は新月に対しても感じてしまう。そんな私の心を察してか、まるで満月の死などなかったかのように新月は振る舞う。それが見ていて苦しくもあり、「月夜」を訪れること自体が怖かった理由でもあった。
でも、今はだいぶ落ち着いてきた。新月にこうして治療してもらうことまで出来ている。それもこれも、蛙の親父や新月が私を責めたりしなかったお陰だろう。
「感謝してよね。このお薬新品だし高いのよ。でも、明ちゃんのためだけに開けたんだからね!」
……満月よりも手厳しめに感じるのは、新月の元来の性質なのかもしれない。こんな性格だったのか、新月って。
「おまけに小夜ちゃんのご主人様の御使いも来たのよ」
「小夜の……お役人さんかい?」
「雇われ番犬さんたちよ。時計台を逃げ出してから、明ちゃんの周りで”何か変わったことはないか”って聞きに来たの。失礼よね。まるで変ったことを期待しているみたいでむっとしたの」
「そりゃ、期待しているだろうね。女豹のやつはまだ捕まっちゃいないのだし……」
ともすれば、女豹が食事の為にさんざん楽しんでいる最中を狙いだすかもしれない。あまり非人道的なことは考えたくないけれど、いまだに生き餌役をやっているシャミセンの身が心配だった。
御上に夜人は少ない。いることはいるが、全てではない。おまけに、ミサゴ様をはじめ天翔や花の国出身の御方というものは、狭義の昼人にすら含まれない。そんな輩にとっちゃ、我々夜人なんざ正直人だって思いたくもないだろう。これが純粋なる人だったらあるいは、と思うが、多くを守るためにとの大義を前に、たった一人の少女の犠牲など仕方ないと判断される可能性もあり得ないなんていえない。
つまり、シャミセンを犠牲にして、わざと女豹が食らいつく状況を作り出す日が来ないなんて言えないのだ。
――まさか、とは思うけれど。
悪い考えをいったん起こせばすぐに止まるものでもなく、私はしばし自分の想像に震えていた。他人なんざ信用ならねえ。シャミセンをあのまま置いておくのは果たしていいことなのか。
「明ちゃん。どうしたの?」
「ねえ、新月。シャミセン元気かなあ……」
今思いついたことをそのまま話すというのは気が引けて、私はそっとそれだけを告げた。
猫というものは個人に重きを置く。仲間意識は犬に比べれば低く、友情だの親友だの端から興味がないものだ。だから、友人を大事にするのは、自分の為である。自分の為だからこそ、親しくできる存在が減るのは苦しい。トラトラのことだっていまだに悲しくなる。思い出さないように、深く考えないようにすることで必死でもあった。
新月もそんな私の気持ちが分かったのだろう。双子という半身を失った新月だからこそ分かったのだろう。深く訊ねてくることはせずに、敢えてそのまま返してきた。
「噂じゃ、元気なようよ」
「そっか……」
今聞けるのはそれだけでよかった。それだけでいい。気持ちを変えて、私は続けて言った。
「手当ありがとう。もうちょっと休んだら、また黒鯱に挑んでくる」
「もうちょっと休みなさいな。稽古だけじゃ意味がないわ。休息も適度にとることが大事なんだから」
「身体を動かしている方が楽なんだよ……」
「だーめ。化け猫ってのはただでさえ力を溜めておかなきゃならないんだから。許しません!」
「そこを何とか……」
と、世話になっておいて更に心配をかけるようなお願いをしたとき、唐突に襖があけられた。驚いて私も新月もそちらに顔を向け、そのまま固まってしまった。
廊下よりこちらを睨むように確認し、何か納得したように低く唸るその顔は、あまりにも親しみのないものであったからだ。突如現れた男。しばし彼の姿を見つめ、呆気に取られていると、やがて遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おおい、困りますよ、旦那。夜人つっても、明は年頃の乙女なんでさぁ」
蛙の親父だ。しかし、旦那と呼ばれたその男は全く動じない。蛙の親父の言葉なんて無視して、彼は真っすぐ私を睨み付けてきた。凝視されて嫌な緊張が増す中、やっと反応できたのは新月の方だった。
「ちょ……な、なんですか、暁さん! ここは女子の寝間――」
「明、といったな」
重々しい低音が響いた。猛犬が唸るようなその声。顔つきだけで分かる犬神の血。それは、滅多に昼人や底辺夜人の前には現れない男であった。
暁。静海さんの旦那であり、隼人のお頭だ。
「隼人の坊主が世話になったな。あの怪我は大したもんだ。心配で見に来たが、どうやら人間までを止めちまったようじゃあないようだ」
「暁の旦那――」
蛙の親父が肩に手を書けても、暁の旦那は全く動じなかった。
「さて、せっかちで悪いが本題に移ろう。明、今すぐ我々の本部に来い。心配せずとも乙女の寝間も確保できる。静海と同室ってわけだが、悪いもんじゃねえだろ?」
「え……ええ……?」
「いいから来い。それともなんだ。傷が疼いて動けないのか? なんせ鬼灯様の剣を受けたんだ、無理もねえ。だが、休むなら俺んとこで休め。隼人の坊主もおるから退屈はさせんぞ?」
「え……ちょ……それってどういう……」
「暁さん! ちょっと待ってください!」
動揺しすぎて混乱する私に代わって、新月が口を挟んでくれた。
「幾らなんでも乱暴すぎます。明ちゃんを連れてってどうしようっていうの? まさか、この人もシャミセンちゃんみたいに……」
「新ちゃん、堪忍な。明よ、これは御上の命令でもあり、譲歩でもあるんだ。時計台を勝手に抜け出したことに目を瞑ってやる代わりだと思え。ここじゃあ、女豹が現れたら色んな奴らが巻き込まれちまう。それでもいいっていうのか、ああン?」
そう言われてしまえば、返す言葉が見つからなかった。
月夜屋は宿もやっているのだ。もちろん、そこには余所者が泊まるわけで、多くは黒鯱なんかとは違って昼人ですらない普通の人間である。
私が此処に居ることで女豹にもしも襲撃されたら……ああ、そうだ。甘えすぎてはなんないんだ。
「隼人のお頭さんよ……」
だが、私はせめて確認した。
「本部とやらについて行ったとして、私はどうなるんだい? 時計台の時みたいに檻に閉じ込められたりなんてしないよね?」
「ああ、勿論よ。お前を匿うのは御上の命令だ。稽古すんのはいい。鬼灯様が一緒だからなあ。だが、ねぐらは移してもらわにゃいかん。お前さんが無防備なときを野良犬連中で見張るのも大変なのよ。ならば、いっそ、一緒に寝泊まりしてもらおうってわけさ。なあに心配ねえ。お前に求めているのは、無防備をよそで晒すなってことだけだ。家にいる間は、まだ満足に動けねえ静海の相手でもしてやっておくれ」
「本当に……信じていいんだね? 稽古の為に外に出たっていいんだろうね?」
「俺を疑うっていうのか。いい慎重さだ。よろしい、俺が勝手に約束を破ったなら、その木天蓼とやらで俺を切り殺したっていい。御上は許すって言ってんだ。それに従うのが我々の仕事だ」
まさか、嘘ではないだろう。それに、嘘だったとしても、これ以上粘るつもりもなかった。
ここに居てはいけない。新月や蛙の親父はそう思わないかもしれないが、暁の言ったことは正しいのだ。私がここにいることで巻き込まれてしまうかもしれない人がいる。女豹が襲ってきたら、客として来ている人までも殺されてしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ。そうなったら苦しい。だから、迷うわけもなかった。
「明ちゃん……」
起き上がり、木天蓼を手に取る私を新月が心配そうに見上げてくる。
そんな新月に、そして暁の後ろで心配そうにこちらを見つめている蛙の親父に、ほんのりとした笑みをそれぞれ向けてから、私は素直に言ったのだった。
「お世話になりました。お陰で怪我もすぐに治りそう」
畏まってしまって、何だか気恥ずかしい。
「今日から暁の旦那のところで世話になる。だから、心配しないで!」
暁の旦那が本当のことを言っているのか、はたまたこのまま私は第二のシャミセンになってしまうのか、よく分からない。
でも、ここに居座るよりも気楽なはずだし、ねぐらに帰って不安なまま気の休まらない時間を過ごすのもよくないだろう。
その分、暁のところならば時計台に閉じ込められるよりもましだろうし、隼人も静海さんもいる。
――それに、話が違うと感じたら、まだ逃げ出せばいいのさ。
だから、大丈夫。そう自分に何度も言い聞かせ、不安の一切をしまい込んだ。
そんな私を新月は見つめたまま、言葉も浮かばないようで黙っていた。一方、廊下では蛙の親父が、暁の旦那の向こうからこっちをじっと見つめ、そしてふうとため息をついてから呟いた。
「幸運を祈るぞ、明」
それはこの上なくあっさりとした、別れの言葉だった。




