2.鬼灯の者
黒鯱のただならぬ気配を前に、私の本能が囁いた。
相手にするべきではない。それが賢い野良猫というもの。
普段はただの人間にすら思えたような何処か抜けた感じの旅人は、今や半妖の私が見損なうわけがないほどの妖気を漂わせていた。
これはまずい。世間知らずの私でも……この狭い町しか知らない私でも分かる。
アヤカシの血が――化け猫の血が私に教えてくれる。
実力差が酷いのだと。
「牡丹、君は時計台に。女豹がまた現れたらしい。野良犬たちにその力を貸してやってくれ」
「私に命令するな、くそ蛇が」
くそ蛇。
牡丹が彼をそう呼び捨てられるのは、彼女がそう出来るだけの存在であるから。
異世界の狼の血を引き、この火山大島の山神の血を引いているということは、それだけのものを彼女にもたらしているのだ。
実力が伴うからこそ、彼女は黒鯱に強く出ることが出来る。
じゃあ、私はどうだろう。
私は震えていた。
かつてのように黒鯱というこの男に対して偉そうな口を叩く勇気が持てない。
それは初めての気づきだった。
少しは強くなったということなのだろうか。
私はやっと彼と自分の実力の差に気づくことが出来たのだ。
「言われなくてもそうするよ。本当に子猫と遊んでいる場合でもないようだからね」
牡丹は人の姿に戻るとさっさと彼に黒鯱を譲った。
素っ気なくそう言いながらも、牡丹は彼の指示に従っている。
去る直前にふと振り返り、浅葱色の目で私を見つめて彼女は言った。
「いいかい、明。こいつとの戦いは異世界風に言えばサバイバルってやつだ。普段の関係のことなど忘れて生き残ることだけを考えろ。そのくらい集中しなくては、お前にこいつは倒せない」
「牡丹、ヒントってやつはその辺にしてくださいね」
真っ赤な目で不敵な笑みを浮かべ、黒鯱は牡丹を軽くいさめた。
牡丹は不満そうな表情を浮かべはしたが、特に何も反論せずに片手を上げた。
「おや、おせっかいだったかな。まあいいや、さてと私は私でお偉いさん方に尻尾を振りに行くとするか。百枝のエサ代も稼がにゃならんしね」
そう言い残し、彼女は去っていった。
残されるは私と熊手、そして異様な雰囲気のままの黒鯱の三人。
「さてと」
黒鯱はそういうと、手で空を切った。と、同時に、いつの間にか彼の手には真っ黒な剣が握られている。妖刀の一種だろうという事はすぐに分かった。刀身が真っ黒な煙のように揺らめいている。斬られればただじゃすまないだろうという恐れがすぐさま生まれた。
「おい、蛇の兄ちゃんよ」
離れた場所から熊手が口をはさんできた。
「まさかとは思うが、明を殺す気じゃねえだろうな」
不吉なその言葉にぎくりとした。
だが、黒鯱は軽く笑って熊手に言った。
「まさか。明は半妖なんですよ。ただの人間ならばまだしも、この子がこれくらいで死ぬなんてことはないはずです」
全く安心できないその受け答えに、私は固唾を飲んだ。
どうやら、牡丹の助言は的確だったらしい。
これより先、行われるのは稽古などではなく実戦だ。女豹に襲われた時と同じような覚悟が必要になるのだろう。そのくらい、黒鯱の眼差しには容赦を感じられなかった。
隼人を倒したのはアヤカシとしての実力が一瞬だけでも上回ったからだろう。私だけがアヤカシの血に目覚め、隼人がそうではなかったせいだ。運だったといってもいい。そして、熊手を倒せたのは木天蓼のおかげだ。熊手がもしも妖刀などを手にしていたら違っただろう。
じゃあ、今度は何が味方となるのか。
男で、しかも、ただならぬ者が相手。手に持つものは妖刀。得物さえも差をつけれない中、私はどうしたら彼に勝つことが出来るのか。
向かい合う中、私は必死に考えた。
だが、どうすればいいかなんて全く思いつかなかった。
黒鯱は一歩踏み込んでから口を開いた。
「さて、明。もう知っているとは思うが、私は人間じゃない。人間の血を引いていない」
はっきりと言われ、言葉も浮かばなかった。
純粋なるアヤカシ。牡丹と同じ。それは分かっている。問題はそれが何なのかというものであって。
「まあ、引いていないと言っても、ひょっとしたら少しは混ざっている可能性もあるけれどね、高位のアヤカシがアヤカシである条件というものは、血の純粋さではない。どんな血を濃く引いたかだ。君たちが野良猫なのか野良犬なのかを選別するのと同じだね」
そう言いながら黒鯱は怪しげな刀を構えその刀身を眺めた。
艶やかなその仕草はまるで女のよう。中世的な彼の美しさはきっと町娘なんかが見たら惚れ惚れすることだろう。あいにく、私の好みではないのだけれど。
「私の先祖に誰がいようと、私は私。その先祖の一人が”大蛇様”という蛇神であり、その血を濃く受け継いでいる以上、私が鬼灯の民であることは覆せないものなんだ」
――鬼灯。大蛇様。
その言葉が何だか不気味で毛が逆立ちそうだった。
「改めて挨拶しよう、化け猫娘の明。私は鬼灯の男。ここよりずっと南の蛇穴国は鬼灯の里にて豊穣をお守りの大蛇様の手先として大島各地を旅している八番目と呼ばれる者だ」
「八番目……」
血の通っていないその名前に戸惑っていると、熊手が離れた場所から口をはさんだ。
「蛇穴に君臨する偉大なる地母神が直々に選んだ八人衆という男の一人さ。鬼灯というものの実力は男も女も相当なもの。その中でも八人衆は彼らの顔とでも言うべき男の中の男。理性あるアヤカシならば彼らの正体を知って牙を剥けるものではないと恐怖されるほどだ」
なんていう紹介だろう。すっかり戦意を喪失しそうだ。
だが、後に引くわけにはいかない。惨めなことであるし、稽古を中断すれば待っているのは震えながら隠れ住む毎日だ。そんなのは嫌だった。
唇を噛んで踏みとどまる私を、黒鯱は血のような色の目で見つめている。赤いのに冷たい雰囲気のその色が、私の怯えをかきたてようとしている。
それでも、私は耐えた。ここでビビっていちゃいけない。夜人に生まれ、生き延びたいのなら、ここで恐怖につぶされるわけにはいかないのだ。
「それなら、その恐怖ってやつを味わわせてもらうだけさ」
木天蓼のきつい香りに包まれながら、私は言った。
厳しい戦いの中で、私は妖気を掴めるだろうか。化け物になるかもしれないという恐怖を覚えつつも、妖気を解放してこの姿を変化させるまでアヤカシに近づけるだろうか。
これが出来れば女豹なんてもう恐れなくていいのだ。
強くなりたい。死の恐怖に打ち勝ちたい。生き残りたい。
誰かに頼りながらも、最後には自分の足で立っていたい。
気持ちを高めながら、私は黒鯱の反応を待った。
彼はただ私を見つめている。
「此処へ来た理由は別件でした。だが、その別件の為には君たちの戦いに介入しなくてはならないそうだ。ミサゴ様に頭を下げられ、大蛇様に従うようにと言われれば、私など単なる操り人形。明、君には遠慮しない。だが、私は飽く迄も稽古のつもりだ。私が求めるのは志を共にする兵が増えること。出来れば純粋なアヤカシに近い方がいい。その方が、女豹を追い詰めるのに都合がいいからね」
今までにない冷静な言葉に、私ではなく熊手が反応を見せた。
「ちょっと待ってくれ、八番目さんよ。話が違うんじゃないか。俺はあんたが明に生き延びる術を与えるって言うもんだから木天蓼の話をして、稽古を依頼したんだ。それなのに、あんた、明を駒にするつもりか?」
「駒、というと語弊がありますね。私はただ女豹を追い詰めたいだけ。奴はきっと明の姿を見れば興奮する。一度狙った獲物ですからね。それは野良犬さん方が何度も囮にしているシャミセンちゃんのことを見ればお分かりでしょう。プライド?っていうやつが高いんですよ。一度コケにされたらいつまでも覚えている。取り逃がした獲物は食い殺さなくては気が済まない。典型的な怖い猛獣です」
「それはそうだが……でも、あんた――」
「明に多くは求めていません。ただ見下していた相手を捕まえたと思ったときに想定外の反撃を食らえばさすがの女豹も混乱する。それを期待しているんですよ」
「けれど……」
納得がいかない様子の熊手に、私は言った。
「大丈夫だよ、熊手。心配しないで」
木天蓼を手に、その顔を見つめる。
「御上に利用されるんじゃない。私が利用してやるんだ。時計台に引きこもりたくなければ、誰よりもアヤカシに近い夜人になれってことだろう? なってやろうじゃないか。この妖刀に相応しい化け猫として、十六夜町の独立性の危機すら招いているあの女豹の奴を黙らせてやるよ」
花の国からも、天翔国からも独立した身分。
十六夜町の民は今更そのどちらの国にも属せない。
古来はここも八花と呼ばれる一種だった。朝顔様がいまだってひっそりと祭られているとおり、花の聖地であることはこれからも変わらないのだろう。
だが、それでも時代は変わっていく。
花の国であった時代も、天翔の傘下であった時代も、とうに過ぎ去って長い。
夜人には町なんてなくたってどうでもいいとさえ思っていた。だが、違う。違うんだ。やっぱり、私は十六夜町が変わってしまうことが怖い。どこかよその国の十六夜町になってしまうのが耐えられない。私たちは十六夜町の民。これは誇りなのだ。この誇りを失うわけにはいかない。
だからこそ、十六夜町を荒らす女豹を止めなくては。
花の国からも、天翔国からもつけ込まれる中、ミサゴ様によくない決断をさせる前になんとか解決してやらにゃならない。
これは私の戦いでもある。
私の当たり前を守るための闘い。
そこにほかの要素なんていらない。黒鯱の別件が何なのか、ミサゴ様に何を握られて協力するに至ったのかなんてどうだっていい。
分かりやすい動機に身を固めて剣を構える私を見据え、黒鯱は微笑んだ。
「よかった。そんな覚悟を持ってくれて」
そうして稽古は始まった。
「その志を、どうかずっと持ち続けてくださいね!」
走りながら黒鯱が言う。
その動きに早くもついていくことが出来なかった。




