1.木天蓼
稽古を脇から見つめていた黒鯱は教えてくれた。
竹刀をもって隼人を打ち破る私の姿はまさに、沖の向こうより渡ってきた化け猫の祖先を思わせるような禍々しいケダモノのようであったと。
それはきっと純粋な猫のアヤカシである月瞳のように恐ろしいものだったのだろうけれど、生憎、私自身はそんな自分の姿など分かりやしなかった。
ただただ震えていた。
もはや降参するしかない隼人の手の震えを見つめるまで、勝利を掴むためとはいえ手も抜かずに友を叩きのめす自分を知って、恐ろしくなっていた。
隼人は幸い、大した傷ではなかった。
謝る私に笑顔で「気にすんな」と答え、むしろ負けたことを悔しそうにしていたくらいだ。
でも、私は気づいていた。打ち負かすその瞬間、私を見つめている隼人の目の色には恐れがいっぱいに広がっていた。彼の目。見たことのある心を宿した目。あれは、影鬼の目だ。腹をすかせた私に喰われる影鬼の怯えた目。
「明よぉ、お前、怯えてんのか?」
錆び付いた刀の刺さる祠の前でうずくまる私に、熊手が訊ねてきた。
隼人が共に稽古できなくなって一日後の事だ。
十四夜の慰霊の森には私と熊手と、そしてもう一人しかいない。
「隼人の事なら気にするんじゃない。本人も言う通り、大した怪我じゃねえ。奴のお仲間もお前を責めたりしねえさ」
「私、妖力を制御できなかった」
「そういうもんだ。お前はまだ子猫だからね」
「でも、これじゃ女豹に勝つなんて――」
「勘違いしちゃいけねえ、明。女豹に勝つためじゃねえ、命を守るために木天蓼を渡すんだぞ。そこを忘れるようじゃ、また時計台の中に引きこもってもらうしかねえなあ」
「……分かってるさ」
隼人との稽古で少しは眠っていた魔性の血が目覚めたらしい。
でも、制御できなくては意味がない。木天蓼の匂いに惑わされないためには、もっともっと成熟した化け猫にならなくてはならないのだから。
そのために協力願うのは熊手であり、そして、今この場の隅で体を休めている牡丹であった。
人の姿のまま湿った地面の上で寝そべる牡丹は、疲れているようだった。
女豹との闘いを終えて時計台に戻る前に、こちらに立ち寄ってくれたのだ。
どう見ても稽古をする余力などないだろう。けれど、牡丹は一言も弱音を吐かずに呆れた様子でめそめそしている私を見つめていた。
「同世代の男子に勝てたというのに、何をめそめそしているんだお前は」
指で地面を叩いて、ため息交じりに牡丹は言った。
「稽古はこれでおしまいじゃないぞ。その熊手とやらを倒したら、次は私だ。人狼すら倒せるようになったそのあとには、あのくそ蛇が待機してんだ。その間に女豹に襲われたらどうするつもりだ? 時間は貴重なんだぞ」
「熊手も、あなたも、そして黒鯱も倒せるようになれば、本当に木天蓼を使えるようになるの……?」
訊ねる私に対して、熊手も牡丹も反応は鈍い。
半妖の私の能力を目覚めさせる方法などこれしか思いつかないのだろう。彼らなりに真面目に考えた結果なのかもしれない。
しかし、これでいいのだろうか。魂喰い獣の力を解放することには欠点などないのだろうか。隼人が傷を負ったようなことが、他にも起きないでいられるのだろうか。
たとえば、女豹がただの魂喰い獣から化け物になってしまったことのような……。
「明」
ぽんと頭に手を置かれ、考え事が消え失せた。
「立て。今度は俺と勝負だ。俺が持つのは真剣。お前に与えるのはこれだ」
差し出されたのは、熊手に預かってもらっていた木天蓼であった。
受け取り、その鞘を抜けば、酒のようなきつい香りが鼻に付きまとった。
目眩をぐっと堪えて踏みとどまる私をよそに、熊手は己の愛刀をすらりと抜いて軽く空を切り始めた。その動きは少し違和感が付きまとう。あまり使い慣れているという様子ではなかった。
見上げる私を振り返り、熊手は笑った。
「真剣なんざ久々でさ。なんせ影鬼狩りにゃ必要ねえからな」
そう言って、重たそうな刀を掲げた。
「この剣にゃ名前なんてねえ。……いや、なんか萬屋の親父が言っとったっけね。忘れちまったが、こいつは人間の刀鍛冶が力籠めた代物だ。人間産だからって舐めちゃいけねえぜ。丹精込めて作られた代物っちゅうもんは魂が宿るもんさ」
「そんなん分かってるさ。木刀だって、そうだもの」
そんな木刀を私は何度も折ってしまったのだけれども。
不穏を覚えつつ立ち上がる私に、熊手は笑みを向けてきた。
「その手にあるのは木刀なんかとは違う。俺の持つ真剣とも違う。木天蓼は絶対に折れねえ霊刀だ。その代わり、刀が主を認めねば大した力を貸してはくれねえ。どうだ、明、木天蓼は重いか?」
軽々と名もなき真剣を構える熊手に倣って木天蓼を構えるも、私の手はぷるぷる震えていた。
これで軽いように見えるだろうか。
歯を食いしばって重みに耐えながら構える私を見つめ、脇で見守る牡丹が一言。
「どうやら重いらしいな」
「重くなんかないさ!」
何故だかむっとして私は見栄を張った。
寝そべる牡丹が「おや?」と眉を顰めて私を窺った。
「そうか。それは失礼。なんせ、身体がぷるぷる震えているように見えたものでねえ」
くすりと笑う彼女に、私は更に見栄を張る。
「こんなもの、武者震いに決まっているだろうっ!」
先手必勝。
勝負の合図などかける必要はない。
弱肉強食の世界では正々堂々と勝負をかけて負ける方が恥ずかしい。十六夜町を生きる夜人ならば、騙し討ちをしてでも勝利をもぎ取り生き延びることこそ美徳であった。
勿論、熊手もそんなことは重々承知だ。
私がいつでも襲い掛かってもいいように、彼は彼で準備をしていた。
――お願い、木天蓼!
全身全霊を込めて私は熊手に突撃した。
しかし、そう甘くはなかった。
木天蓼の思うままに刀身を振るってみれば、たちまち機嫌のいい香りが広がって目眩がした。いつもならば強い相手には正面からぶつかるふりをして反撃を誘い、それを避けながら切り込むという手を使うのだが、これでは集中も出来ない。
結局、私は熊手の蹴りをもろに受け、ぶっ飛ばされてしまった。
「いってえっ!」
すり傷だらけで体が痛い。
だが、そんな時になっても木天蓼のあの心地よい香りが付きまとってきて頭がおかしくなってしまいそうだった。
おぼろげな視界がどうにか定まってきたと思ったら、仰向けに転ぶ私の目の前に迫っていたのは、熊手の持つ刀の矛先であった。
「勝負あり」
熊手が言った。
「木天蓼を扱うにはまだまだ早いようだな」
悔しいが言う通りだ。
いまだってこの奇妙な木天蓼の香りに惑わされ続けている。
本当にこれを扱うことが出来るのだろうか。父はこの刀を扱えていたのだろうか。そもそもこれは猫が扱うのに適したものなのだろうか。
いろいろと疑問が浮かぶものだが、疑ったところできりがない。
今の私が狙うべきは真実を突き止めることではなく、少しでもこの状況を覆すということだ。
木天蓼のくそやろうめ。
私に力を貸しやがれ。
叱り飛ばしたところで何になるというのだろう。
こんなことは意味がないのだと言われたとしても仕方がない。
だが、悪態を吐かずにはいられなかった。
男も女も正義も悪もない夜人の世界でこの先も長く生きていくためには、お行儀よくして自分を抑えてはいけないのだ。
女豹に殺されたくなければ、人間を捨てろ。
遠慮なんてしていれば殺されてしまう。
搾取されて終わりだなんて誰だって嫌に決まっている。
――そう、どんな手を使ったって、勝たなくてはならないんだ。
「ほお、明よぉ、お前さんまだやる気なのか」
野良猫特有の気だるそうな声で熊手は言った。
威圧的な猫の目が私の心を興奮させる。
これまで感じたこともない敵意。普段は親しかろうが、今の状況は違う。いつものことなど忘れてしまえ。
稽古という言葉から解き放たれるのだ。
「ならば、相手を――」
熊手が言いかけたときには私は起き上がっていた。
いや、走り出していた。
自分でも考えている暇もなく動いていた。
木天蓼に引っ張られているかのようだ。頭で判断するよりも先に、体が動いている。頭は空っぽだった。考えていれば、刃に当たってしまう。
「く、すばしっこい!」
熊手が焦りだしてきた。
熊手を焦らせることに成功した。
今、理解すべきはこれだけ。
相手は焦っている。だが、その情報に引っ張られてもいけない。
熊手はどうしようとしている? どうやって私を殺そうとしている? その動きから瞬時に判断して、どう動けばいいのか。
それは頭ではなく体が判断する。
いや、判断しているのは身体能力じゃない。
私は少しずつ自分の変化に気づいてきた。
木天蓼に引っ張られつつも、この香りにまで引っ張られることがなくなってきた。
逆に引っ張られているのは熊手の方だ。
私が木天蓼で切りかかるごとに、熊手の反応がだんだん鈍ってきている気がした。
思い当たるのは香り。この香りだ。私を惑わしたこの香りが、今度は相手をしている熊手を惑わし始めていた。
――タメラウナ!
切ればどうなるかを考えてしまえば、私の方が切られてしまう。
そんな思いで私は熊手に襲い掛かった。
相手は香りに意識を取られている。反撃を試みたとしても、もう遅い。
――ブッタギッテシマエ!
音の聞こえが違う。モノの見え方が違う。体の動きさえも違う。
人間だったことも忘れて私は跳ね回っていた。熊手の顔色が変わっている。遠くで見ていた牡丹はどうしていただろう。
私は、私自身がどんな姿をしているかも知らないまま、ただ熊手の命を狙っていた。熊手も熊手で全力になっていた。
そして、勝敗は決した。
痛みがじわりと体にもたらされる代わりに、私の手には確かな感覚が伝わってきた。
生温かな血が飛び散り、影鬼は発さないきつい臭いが木天蓼の香りとはまた違う混乱を私に与えてくる。
痛みと臭い。
それだけで戦いは止まってしまった。
眩暈をこらえて傷を抑え、相手をしていた熊手をふと振り返ってみれば、彼もまた肩を抑えてその場にうずくまっていた。
血が流れている。
服を穢している。
牡丹が様子を見つつ、私にちらりと視線を送ってきた。
「大丈夫だ。傷は大したことない」
その言葉に力がふっと抜けた。
戦っていた時の感情がふつふつと蘇り、底知れぬ恐怖を覚えた。
私は何を思っていた?
木天蓼を手にしながら何を狙っていた?
戦う私に命じていたのは一体誰なのだろう。
そして私は、どんな姿をしていたのだろう。
木天蓼が地面に落ちる。
急に怖くなって、私は自分の両手を見つめた。耳は? 顔は? 足は? お尻は? 私は私の姿のままでいるだろうか。
恐怖のあまり取り乱す私を、牡丹はじっと見つめる。
「明」
よく通る声で牡丹が私に話しかけてきた。
「魂喰い獣ってやつの本来の姿を見たことがあるか?」
首を振れば、牡丹は頭をかいた。
「だろうな。この町にいるのは半端者ばかりだ。女豹の奴だって同じ。どいつもこいつも人間の血に引っ張られた形態で生まれてくる」
「話だけは聞いたことがある。魂喰い獣はアヤカシなんだって。人間の姿を借りて人間に紛れてこの場所で血を広めているのだって。……じゃあ、本当はどんな姿をしているの? 私のご先祖様は、どんな姿をしていたの?」
今すぐ答えを知りたくて必死に尋ねてみれば、牡丹はいったんため息をついてから熊手のそばを離れた。
私の前へと向き合うと、彼女はどういうわけかそのまま狼の姿へと変わってしまった。見れば見るほど恐ろしい。山神と信じられていたのは過去の話。異世界に住まう怪物とやらの血も引いている彼女は、本来、ドブネズミなんかではなく私の中にも流れているはずの人間の血だってお好みだろう。
だが、狼の姿になっても牡丹は牡丹のまま口を開いた。
「よく見ろ。これが山神なり、人狼なり呼ばれる私たちの能力だ」
狼の姿でしゃべりながら、牡丹は語る。
「私の先祖はみんなこの力を受け継いできた。異世界からはるばるこちらへ渡ってきた偉大な怪物も、古よりこの近くの血で山神として祭られてきた偉大な神獣も、同じ力をもっていた。人間はこれを人と血を交えた結果だと信じていた。確かにそういう歴史もあっただろう。だが、正確には違う。私たちは妖力で人の姿を借りているだけだ。だから、人と交わることが出来たのだ。なぜ、この話をしているかわかるか?」
問いかけられ、私は恐々答えた。
「その力……ひょっとしてアヤカシなら持っているということなの?」
「ああ、ある程度の地位のあるアヤカシならば殆ど、ね。私やお前のように人と言葉でやりとり出来るアヤカシは人に化けることが出来る。……だが、明、お前たち夜人のような半妖は少し違うんだ」
「違う?」
問い返せば、離れた場所で熊手が何とか会話に入ってきた。
「人狼の変身能力は人化と呼ばれる。だが、俺たちは違う。俺たちが姿を変えることがあれば、それは獣化。どこにどんな先祖がいるかも分からねえが、俺やお前さんが何の疑問もなく野良猫と呼ばれ、自覚した通りの姿になることが出来るってわけだ」
「わ、私も姿を変えられるの?」
「成熟した夜人ならば誰だってその可能性がある。だが、そこまでアヤカシの血に傾倒するものは殆どいねえ。俺だって自分のケダモノ姿を見たこたあねえよ。あるとすれば他人。そうさな、縄張り抗争の多い野良犬連中にゃ、人知れず頻繁に姿を変えているもんがいるもんだ。だが、そのくらいだな」
「……知らなかった。姿を変えられたら、何かいいことがあるの?」
「人の姿の時よりもずっといい力を使える。隼人の坊ちゃんを倒したとき、そして俺と戦った今、お前さんもその傾向がみられる。黒鯱の兄ちゃんが期待したのはこういうことだな。女豹に殺されないでいるためにゃ、その力を使いこなすしかねえ」
――隼人。
傷ついた友のことを思い出し、私は臆した。
熊手のことだって殺そうとしていたのだ。
それらの感情が獣化とかいう現象のせいだとしたら、爆竹でも向けられているかのように恐ろしいことに思えた。
この力は危険だ。暴れるのが楽しくなってしまっていた。それを思い出せば思い出すほど、出してはいけないと思ってしまう。
「魂喰い獣は未知のアヤカシだ」
牡丹が言った。
「人狼と違って魂喰い獣の妖力は元来不安定なものだ。ちょっとしたことで妖力は暴走し、狂い始めてしまう。獣化もその原因の一つ。あまりに解放させすぎて歯止めが利かなくなれば、野を蹂躙する無駄に位の高いアヤカシどもよりも厄介な存在になり果てる」
「女豹のように、かい?」
牡丹も熊手も黙って頷いた。
まじめなその顔に震えが生まれた。
狂うのを恐れるか。喰われるのを恐れるか。
私に残されているのはこの二つだ。
一度狂ってしまったらどうなるのか。一巻の終わりというのは漠然とわかる。だが、それは具体的にどんな未来を指しているのか。
考えるだけで怖い。
だが、女豹に食われそうになった時を思い返せば、漠然とした不安なんて比較もできないほどのものだった。
「それでも」
私は二人に言った。
「それでも私は強くなりたい! 死にたくない!」
強い思いだった。
隼人も、熊手も、傷つきながらも私の相手をしてくれたのだ。
稽古は終わってみれば傷つけることは恐ろしい。命を奪いそうになったという恐怖はいつまでも付きまとってくる。だが、こうして恐怖していられるのは、すべて私が生きているからなのだ。
死んでしまったらおしまいだ。
破滅なんていやだ。
これからも私はこの町で生きていきたい。
暗雲立ち込める十六夜町がどうなるかなんてわからないけれど、その不安を同じ時間を生きる夜人たちとこれからも共有していきたいのだ。
思いは固まった。
私は強くならねばならない。
牡丹にも、熊手にもしっかりと伝わったことだろう。
「そうか」
牡丹はつぶやき、そしてふと別の方向に目をやった。
慰霊の広場と十四夜の通りをつなぐ出入り口にその目を向けてみれば、いつの間にかそこには別の者が訪れていた。
大した得物も見当たらない。
素手のまま、そして軽装でこちらを眺めている。
だが、私は気づいた。
黒鯱。彼の両目は真っ赤に染まっている。
ただならぬアヤカシの気がそこには宿っている。




