10.稽古
隼人の奴ってば、いつの間にこんなに強くなったのかな。
祠の前で一休みしながら、私はぼんやりと考えた。
勝負にならないとはこのことだ。いつの間に私たちの間ではこんなにも実力が開いていたのだろうか。これが男女の差ってやつなのかな。
悔しかった。いつも群れで行動する奴の方が孤独な私より強いなんてさ。それも、同じ武器使っててこれじゃ、悲しすぎるよ。
弱い影鬼ばっかり食ってて、強くなった気でいたのかな。
彼と私が喧嘩ごっこを楽しんだのは、確か八つか九つの頃だ。傘を手にたたき合いをしていたので、よく大人たちに叱られた。特に、昼人の母にはこっぴどく叱られ、夜人の父には笑いながら頭を撫でられた。
隼人の両親はどちらも夜人だったらしいのだけれど、あまりあったことはない。家庭の事もあまり話したがらなかったので、こちらも聞いたりはしなかった。
二人でよく大人たちに内緒でこっそり影鬼狩りをしたっけ。父ちゃんに教えてもらった技能をぜひとも試してみたいって、当時は控えめだった隼人を引っ張って影鬼の生息地に行ったんだ。
懐かしいな。あの頃は隼人の方が弱かった。暗闇や物音にビビッて私の影に隠れてさ、「お前それでも誇り高い犬神の子孫かよっ!」ってからかったんだっけ。
ああ、懐かしい。あれって何年前だっけ。
腕に出来た生傷を舐めようとする私を、黒鯱がふと邪魔してきた。
「黒鯱? なんだよう……。こっぴどく負けた私に文句でもあんのかー?」
「違います」
そう言って彼は水筒を取り出し、冷や水を私の腕にぶっかけてきたのだ。
「し……沁みるっ! ちょっと、痛い痛い! なにすんだようっ!」
「蛇穴に伝わる魔石を浸した冷水です。唾よりもずっと効きますよ」
「蛇穴の魔石?」
そういえば変わった香りがする。萬屋に並んでいそうな御香の匂いにも似ている。
半分ほど血と土を流してしまうと、黒鯱はすっと水筒をどっかにやってから笑みを浮かべてこういった。
「正直、猫娘にしては犬神少年相手によくやりましたよ。もっと早く決着がつくと思っていました」
「はあっ? 馬鹿にしてるのか、ちくしょう。隼人……隼人どこだい? ちょっと休んだらまた一戦やるぞぉっ!」
頭来た。余所者の癖に私をか弱い女の子扱いだなんて。
「落ち着けよ、明。俺もちょっと疲れたよ……」
何処でかは知らないけれど、隼人の奴の情けない声が聞こえてきた。
なるほど。別に余裕だったわけじゃないのか。そこだけは満足だ。
私たちは一時間ぶっ続けで戦った。さすがに長かったかもしれないが、つまらない事柄で自分の心を納得させなくてはならないほど、悔いは残っている。
熊手は私達三人を残すと、何処へともなく行ってしまった。木天蓼は私が持つに相応しいものになるまで、彼が預かるらしい。そう言われて、焦らないわけがない。
早く強くなりたい。木天蓼に相応しい夜人になりたい。
そんな私を諭すように、黒鯱は言った。
「隼人の言う通り、もう少し休みなさい。気を悪くしたなら謝るからさ」
「ちぇっ、なんだい。悔しいなぁ。黒鯱、これで本当に私のアヤカシの血が開花するのかい?」
「さあ?」
「さあって、あんた……」
汗まみれ土まみれ傷だらけで、そんな態度とられちゃあ、心も折れちまうってもんだ。
しかし、黒鯱は黒鯱で困ったように言うのだ。
「私にも分からないんですよ。私と君は違う。君は夜人で、それも魂喰い獣という大まかなくくりに属したアヤカシたちの血を引いた混雑種。君に秘める可能性がどんなものなのか、余所者の私にはさっぱり」
「じゃあ、参考程度にさ」
と、私はここで一つ思いきったことを聞いてみることにした。
「黒鯱みたいな人たちは、どうやってアヤカシの血を目覚めさせるんだい?」
じっとその顔を見つめて訊ねれば、黒鯱もまた私の顔をじっと見つめてきた。
「私達、ですか」
ぽつりとそういうと、黒鯱は目を逸らし、その視線を錆びた刀の突き刺さる祠へと向けた。思いは何処に向いているのだろう。あの祠の下で眠る二人の女性、だろうか。
「私達は生まれながらのアヤカシです」
黒鯱は言った。
「幼い頃から鍛錬を積み、知らず知らずのうちに妖力の使い方を覚えていく。それが我々の『普通』なのです」
「……普通」
不思議な響きだった。どこかで聞いたことがある気がする。
「黒鯱も、妖力は使いこなせるの?」
「ええ」
「それってどのくらい強いの? もしかして、女豹を倒せるくらい……?」
「さて、私はどのくらい強いのでしょうね」
黒鯱は苦笑しながら答えてくれた。
「女豹は山神の子孫さえも手古摺らせる猛獣。牡丹も生まれ持った人狼の能力では足らないことを自覚し始めて、大昔、この町と花の国を救ったという山神の愛用した宝刀に興味を持ち始めています。大陸から受け継いだ異世界の血筋では勝てない。山神と称えられた祖先の血筋があっても勝てない。そう判断しての事でしょう。そんな相手に私程度が勝てるだろうか……自信がありません」
「でもね、周りの大人たちは言っていたんだ。あんたのこと警戒していて、怖がっていた。野良犬――静海さんたちだってそうだったろ?」
「そうだね。アヤカシというものはいつだって警戒されるものです。でも、私だってそんなアヤカシの末端。旅行ついでに上に使い走りをさせられている程度の者ですし」
にこにこしながら自虐する。そんな黒鯱が少し不気味だった。
一見すれば平和ボケした旅人にしか見えない。なんなら、ちょっと顔のいい人間の男にしか見えない。でも、彼はアヤカシ。人間の血を継いでいない者。夜人なんかよりも異質な者なのだ。
黒鯱。彼の本当の力はいかほどなのだろう。
「ねえ、黒鯱。あんたの力を見せてよ。本当の姿を見せて。妖力っていうのが……アヤカシっていうのがどういうものなのか、私に教えてほしいんだ」
あわよくば、本物のアヤカシの霊力を前に木天蓼を制するほどの力が私にも目覚めてはくれないだろうか。そんな都合のいいことを考えながら頼む私を見つめ、しかし、黒鯱は微笑みを浮かべて頭にポンと手を置いたのだった。
「勿論。そのつもりです。嫌でも君と刃を交わしますよ。……でもそれは、君が隼人くんをこてんぱんにしてからの話です」
「隼人をこてんぱんにっ?」
遠くでへへっと鼻で笑うような声が聞こえる。
「やんなっちゃうなあ、黒鯱兄さんよ。俺が、明に、こてんぱんに、だって?」
黙って聞いていれば、という事だろう。だが、私は私でむしろ血が滾った。
隼人はどうやら私に負けるようなことなんて絶対にないと信じているらしい。負けるどころかこてんぱんなのだから、年頃の男子としては当然だろう。幼い頃ならばまだしも、これから先、殺伐とした野良犬業界を生き抜くためにも同い年の女子に等負ける気などないのだろう。
なるほど。上等だ。やってやる。
「いいだろう、隼人っ!」
猫が毛を逆立てるような勢いで、私は隼人に叫んだ。
「覚悟しておけよっ!」
それでも犬神の子孫かと罵倒した残酷な子供時代は過ぎ去った。
今の力関係は、この一戦ではっきりした。ならば、挑戦するのは私の方。隼人をこてんぱんにして、木天蓼を使えるだけの立派な魂喰い獣になってやろうじゃないか。
「おいおい正気か、明。これ以上の力で女に殴りかかりでもしたら、俺は皆の笑いもんだぜ?」
「ふん、男とか女とかそういうのは昼人の世界の話だろ? ここは夜人の世界。弱いもんが強いもんに食われちまう世界なんだぞ?」
「……まあ、確かに……違いねえ。よし、明よ。恨みっこなしだぞ。次は正真正銘の本気でかかるからな」
「おうよ!」
稽古に協力してもらう上に気を使ってもらってはいけない。いつまでも誰かに守ってもらう娘ではいけない。
私は夜人。それも野良猫。いざとなったら一人きりで自分の身を守らなくてはならないのだ。稽古用の竹刀を手に、私はゆっくりと起き上がった。
全ては生き延びるため。
恐ろしい女豹に怯えたままの自分から脱却するため。
窮鼠のように運命に噛みついて、混沌としたこの十六夜町で生き延びるため。
同じく立ち上がる隼人を見つめ、竹刀を向けた。
挑戦。その言葉を胸に、私の中に眠るアヤカシの血がぞくりと震えた。振り返る隼人。彼もまた同じ竹刀を持っている。
黒鯱はそんな私たちを見つめると、そっと祠のわきへと身を潜めた。
幼い頃にチャンバラで遊んだあの頃とは違う。違うけれど、同じ。同じように、私と隼人は向かい合っていた。
どんなにこてんぱんにされたとしても、絶対に諦めない。生きていたいという欲求を失わない限り、諦めてはいけない。
誇り高く、立ち向かえ。
それが、夜人に生まれた定めであるのだから。
「隼人……」
竹刀を構えながら、成長した隼人の全身を見つめて唸る。
「勝負だっ!」
「望むところよっ!」
全身全霊を込めた竹刀と竹刀によるぶつかり合いが私たちの体を揺らしている。
力勝負では隼人が有利。ならば、私は何を武器にすればいいのか。
振り払う彼の動きを察知して、勘に頼って潜り込むようにその一撃を避け、すぐさままた一撃を与えに行く。隼人は隼人で同じような動きをする。力任せに竹刀を振り回すのではなく、誰かと集団で戦う時のように攻撃しては退避という動きをつい繰り返しているようだ。
実力は彼の方が上。さっきはそう思った。だが、本当にそうだろうか。彼の武器は凄み。女子にはないような迫力が彼にはある。絶対に敵わないとこちらが思ってしまうような狂犬のような迫力。それに怯えているようでは、いつまで経っても勝機は訪れない。
怖がっていては駄目だ。
生き延びるのには怯えは必要なものだけれど、戦いに勝つには怯えは殺さなくてはならない。
矛盾しているようだけれど、散々怖がって死ぬくらいならば勇敢に戦って死ぬ方がまだいい。生き延びられないほど追い詰められるくらいならば、牙を剥いて生存の道を無理やりにでも作った方がいい。
「恨むなよっ、明っ!」
吠えるような隼人の声と共に、鋭い竹刀の一撃が私を狙って迫ってきた。
避けるも間に合わず、竹刀は肩をかすっていった。
「痛っ」
あれが真剣であればもっと酷い怪我を負っていたことだろう。竹刀でこんなにも痛いのだから。すぐさま抑えるも、その隙にさらなる追撃を感じ、私は慌てて距離を取った。
そうだ。これはただの稽古ではない。
隼人が隼人で本気になってくれるのならば、私の中の迷いを捨てて、牙を剥くだけ。隙も甘えも許さずに、勝利を掴み取りに行くだけだ。
「そっちこそ……」
全身全霊の力を込めて。その言葉通り、影鬼を狩るには無駄過ぎる集中力と筋力を込めて、私は隼人に立ち向かった。
「恨むんじゃないよ……隼人っ!」
大地を蹴って隼人に迫り行くその瞬間、不思議なことにいつもよりもずっと身体が軽く感じた。




