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9.逃亡

 牡丹はどういうつもりで鍵を閉め忘れたのだろうか。

 どういうつもりであったとしても、抜け出してしまった以上、呑気に考え事をしている暇なんてないものだ。

 私の顔はすっかり覚えられている。

 どんなに気安い昼人であっても、ミサゴ様やチュウヒ様といったお偉方の命令を馬鹿正直に守らなければ生きていけない生き物なのだということを忘れてはならない。

 況してや、野良犬なんかに見つかった日にゃ大変だ。


 野良犬っていうのは鼻がいい。

 そりゃあ、魂喰い獣の血を引く夜人たち(時々昼人の中にもそういう奴はいるが)は、他所の人間なんかに比べたらたいてい鼻がいいものなのだが、その中でもとりわけ野良犬なんかは鼻がよくてぎょっとするものだ。

 子犬の隼人みたいにただ神経質なわけじゃない。あれはデリカシーがないだけの話だ。

 そうではなく、恐ろしく嗅ぎ分けてしまうものが大人の野良犬というもので、嗅覚だけで相手の年齢や性別、健康状態や食ったものまで言い当てる輩もいる。


 そんな輩がうろついている時計台の中。

 身を隠しながら進んだところで見つかってしまうのが落ちだろう。それでも、私は外に出たかった。「保護」という形で狭い折に閉じ込められてしまうくらいなら、危険を承知で外に出たい。

 牡丹は責められるだろうか。単にうっかりしていたのだとしても、あまり人に言うなよと言っていたことが引っかかるものだ。わざとだとしても私のことを思いやって開けてくれたとも考えにくい。

 何か理由があっての事だろう。

 だとしたら、こんな場所は早くおさらばしてしまおう。


 あいにく、私は見つかることがなかった。

 狭くて暗い廊下を慎重に進み続け、出口を探し続けることしばらく。

 ようやく見つけたのは裏口だった。十六夜広場ではなく、その裏通りに面している。下働きをしている者たちが主に使う出入り口だった。

 鍵は内鍵だけ。閉まってはいたけれど簡単に開けられる。逸る気持ちをどうにか抑えて慎重にノブを回そうとしたその時だった。


「明さん……!」


 押し殺した声で突如呼ばれ、心臓がひっくり返るかと思った。

 振り返ってみれば、そこには見慣れた顔があった。歌鳥の小夜である。青ざめた顔で手を伸ばし、私を引き留めようと必死な様子だ。


「どうか戻ってきて。チュウヒ様も心配されているわ。今、外に出ては危ない。木刀も折れてしまったというのに……」

「小夜……御免。でも私、やっぱり此処にはいられない」

「何故? 此処にいれば安全なのよ。危ないことはない。女豹も此処までは来られないわ。……それなのに」

「分かっている。分かっているんだけれど、ダメなんだ。身体がうずいて仕方ない。壁に囲まれながら暮らすことが出来ないんだ。御免、小夜。チュウヒ様にも詫びをお伝えしてほしい。いつか必ず、この恩をお返しします」


 ここ数日、ただ飯を貰っていたのは確かなこと。

 協力も半端に逃げ出そうとするとは、なんて薄情者だろう。我ながら辟易するところだけれど、だからと言ってこれ以上いい子にしていては頭がどうかなってしまう。

 所詮、私はアヤカシの端くれ。人間よりもアヤカシに近く生まれてしまったのだ。小夜やチュウヒ様、ミサゴ様なんかのように頭よくふるまうことは出来ないのだろう。


 木刀は折れている。

 外には危険な女豹がうろついている。

 次に襲われたら無事でいられるとは限らない。

 分かっている。無謀なことだって分かっている。分かっているけれど、どうしようもない。


「さようなら、小夜。君はどうか安全なこの場所にいてね」

「明さん!」


 ノブを思い切り回して私は外に出た。引き留める小夜の姿を振り返る暇もない。出迎えてくれるのは生暖かく腐った臭いのする風と薄暗い街並みのみ。不気味なほど静かなのは影鬼すら身を潜めているからなのだろう。

 日の沈んだこの時間は夜人のための世界が広がっているばかり。


「誰か! 誰か来て! 明様が!」


 小夜が誰かを呼ぶ声を背後に、私は走り出した。捕まるわけにはいかない。何処へ逃げればいいかなんて考えている暇もない。ただ思いつくままに、私は駆け出していた。

 月夜屋も自宅も野良犬が来たら面倒だ。


 じゃあ、何処へ行く? 何処へ行けばいい?


 何処だっていい。

 外の世界を――汚らしいこの地面を踏んで歩くのは、なんて楽しいのだろう。生臭さの気になる風だけれど、じめじめとした壁の中の空気よりもずっとましだった。

 しばらく走り続け、建物と建物の間の道を走り続け、気付けば私は十五夜通りの傍――萬屋のすぐ前にいた。

 苦手な犬の吠え声にハッと我に帰れば、千代丸が私を見つけて尻尾を振っているところだった。あんなに無邪気に吠えてくるとはびっくりだ。でも、その表情に少しだけほっとした。


「おや……明じゃないか!」


 千代丸の声に釣られたのか店の親父が顔をのぞかせて私を見つけた。


「おお、やっぱり明だ。心配したんだぞ」

「おっちゃん……心配かけて御免」

「なんだい、すっかり威勢をなくしよって。時計台っちゅうところはそんなにおっかない場所だったのかい?」

「なんだ、知っていたの」


 思わず頬が緩んだとき、肌が引きつる様な感覚が生じた。

 緊張からまだ解放されてやいなかった。


「もしかして逃げ出したのかい? ああ、難儀なことよ。ちとこっちにおいで」


 言われるままに近づいて行けば、親父は手を伸ばして私に何かを差し出した。


「ほれ、ケチなおっちゃんからのせめてもの差し入れよ」


 丈夫な巾着だった。中には何か入っている。開けてみれば袋に入った金平糖と饅頭。それに、銭数枚に折りたたまれた一枚の紙が入っていた。

 開けてみれば、そこにはやけに丁寧な文字でこう書いてあった。


 ――十四夜、慰霊碑の前。


 ちなみに名前はどこにも書かれていない。

 親父に訊ねようと顔を上げるも、彼は千代丸の頭を撫でながら軽く首を振った。

 あまり屯していれば誰かに見つかってしまうだろう。

 もうすでに見つかっているかもしれない。


「あんまり無理するなよ、明」

「有難う……おっちゃん」


 巾着をぐっと抱きしめ、私は走り出した。

 長居すれば親父にも迷惑がかかってしまう。

 それに、手紙の主が気になった。十四夜の祠の前。錆びた刀の前で何が待っているのだろうか。黒鯱だろうか。それとも別の誰かなのか。

 様々な思いを巡らせて十四夜へと向かえば、物陰から影鬼どもが覗いてくる。武器も持たずにうろつく夜人をさぞ不審に思っていることだろう。そんな視線を掻い潜りながら、彼らが大量にこの町に住み着くようになった理由の眠る十四夜のあの場所へ、私は向かった。


 人気のない林の中。錆びた刀と祠の主について黒鯱が教えてくれた日がもはや懐かしい。そんなに前の事じゃないはずなのに、あの時と今では全く違う。

 そうしてたどり着いた野良猫のための広場。

 すっかり暗いけれど、私の猫の目はその人物をはっきりと映し出してくれた。その姿を見て、私は緊張を解いた。

 そこにいたのは熊手。野良猫の先輩だったのだ。


「熊手。あんたが萬屋に手紙を託したのかい?」


 隣に立てば、熊手は大きく溜息を吐いた。


「明め、俺の忠告をことごとく無視しおって。でもいい、そのおかげでお前は女豹なんぞに食われずにすんだのだからな」

「熊手も知っているんだ。本当にみんな、噂好きだね」

「逃げ出したんだろう? 十六夜広場でちょっとした騒ぎになっていたぞ。逃げ出したとなれば色々と物入りだろうから萬屋に目をつけたんだが、どうやら正解だったらしい」

「此処に呼び出したのはどうして?」


 期待と不安の入り混じる中、私は熊手の巨体を見上げた。

 逞しい体つきは生まれつきのものである。猫というよりも獅子という言葉が合う。もしくは熊手という名前の通り、熊など。

 それでも彼もまた猫。猫以外の何者でもない。

 熊手は小さく息を吐くと、さり気なく持っていた物を私に差し出した。布で包まれたそれ。新しい木刀だろうかと受け取ってみれば、思わぬ重さにぎょっとした。


「お前の親父さんから預かっていたものだ」

「……え?」

「本当は二十歳になるまで渡すべきじゃない。一応守ってはいたのだが、気が変わった。そもそもあんな決まりはミサゴ様――昼人ですらない純血の人間が決めたものだ。俺たち夜人にゃ身を守る術が必要なのさ」

「こ、これは」


 布を解けば、思ってもみなかったものが現れた。

 豪勢な鞘だ。鞘に収まった刀だ。引き抜く度胸がない中、ただただ眺め、その独特な香りに頭がくらくらとした。

 真剣だ。それも、ただの刀なんかじゃない。


「おっと、あんまり香りを楽しんじゃいけねえ。それはな木天蓼またたびっていう宝刀だ。俺たち化け猫のための妖刀で、化け猫同士の争いに向いているとっておきの一品よ」

「こんなものが……どうして?」

「正当な持ち主はお前の親父さんだ。だが、行方知れずになって長く経っちまった。お前が持つといい。影鬼狩りには無用の長物だが、今のこの事態にゃおあつらえ向きだろうよ」


 化け猫同士の争いに強い妖刀。

 願ってもないものだ。化け猫というものに虎やら豹やら獅子やらが含まれるのかはともかく、木刀なんかよりもずっと有り難い。

 だが、気が急いて刀を鞘から抜いてみれば、強烈な匂いに見舞われた。


「うぐっ、なにこれ……」


 頭に血が上り、くらっとした。

 そんな私を見て、熊手はため息交じりに私の手を掴み刀を鞘に納めさせる。


「やっぱりお前はまだ子猫だね。こいつは猫を惑わす。大人でさえ扱うのは難しいものでね、未熟なアヤカシじゃ使用者の方が参っちまう」

「なんてこった」


 つまり私は未熟者ってことか。

 せっかくいい刀を受け継いだというのに。


 ……でも、光が見えてきた。

 こいつさえ使いこなせれば女豹を捕まえることだってできるのではないだろうか。


「明、よからぬことを考えてはいないか?」


 熊手に聞かれ、ぎくっとした。


「いいか、それを渡すのは身を守るためだ。親父さんがいなくなる前に俺に伝えたのさ。自分に何かあった時は代わりに渡してくれと。決して、女豹を退治しろといっているわけじゃないぞ」

「……あ、ああ。もちろん」

「まずは使いこなすために修業が必要だな。明、どうだ。お前さんに流れているアヤカシの血をもう少しだけ開花させてみる気はあるかね?」


 そうすれば、木天蓼とやらに惑わされることもないのだろうか。

 ならば返事はただ一つ。


「勿論! 教えておくれよ熊手。どうしたらいい? どうしたら強くなれるんだ。どうしたら木天蓼を使いこなせる?」

「そう急くな。アヤカシの血を開花させるのは簡単なことじゃねえ。特に猫っちゅうもんは個人主義だからね。同じ猫だからといって俺のやり方がそのままお前にも合うとは限らねえ」

「じゃあ、どうしたら……!」


 と、聞き返したとき、明後日の方向から返事は届いた。


「そこで俺たちの出番ってわけだ」


 いつの間に、彼らはそこにいたのだろう。

 てっきり熊手しかいないと思っていた寂しいこの場所に、彼らはいつの間にかいた。隼人。そして、黒鯱。


「出番? いったいどういう……」


 戸惑う私に隼人は近づき、竹刀を差し出しながら言った。


「明」


 やけに威勢の良い声で彼は言った。


「全身全霊を込めて、俺と勝負だ!」

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