8.幽閉
力ある者が羨ましい。
牡丹も黒鯱も、どうやら毎日のように借り出されているらしい。
半ば強制的な協力要請だったかもしれないけれど、時計台に常に拘束されているわけではなく、用事ないときならば月夜屋なり路地裏なりで過ごしても文句ひとつ言われない。
牡丹は人狼。人狼は強い。山神とされていたと言われるように、十六夜町が花の国の一部であった時代(八花の時代とも言われている)は、人狼というものは神様であった。山を統治し、人間たちの暮らしを支える尊き者。尊き者であり続けるには力が強い方がいい。
私たちのように好き勝手暮らして繁栄した魂喰い獣とは違うのだろう。借り出された牡丹は強く、女豹と戦っても傷一つ受けずに帰ってくる。ただし、女豹の方も牡丹を恐れ、傷一つ受ける前に逃げてしまうらしい。まあ、そのおかげで、十六夜町の野良犬やその他の夜人の被害はぐっと抑えられるようになったのではあるが。
では、黒鯱はどうだろう。彼の活躍はあまり耳にしない。役に立っていないのかといえば、そういうわけでもないらしい。ただ、誰も噂しないのだ。不思議なくらい噂しない。おかげで私は彼が何者なのか、いまだにわからないままだった。
くそ蛇だとか牡丹は言っていた。
ということは、蛇のアヤカシなのだろうか。蛇神にゆかりのある墓を眺めていた彼。
なんにせよ、黒鯱も黒鯱で自由を約束されている身。かつては世間知らずで平和ボケした余所者としか思っていなかったのに、羨ましいッたらありゃしない。
冷たい石壁の囲む中、格子付きの窓より遥か高くの月を仰ぎながら、抱きしめた百枝の温もりを癒しにしながら私は不満を押し殺していた。
『そんな顔しなさんな。あなたはまだ子供なのよ。此処は大人たちに任せてじっとしていなさいな』
百枝が私に話しかける。
牡丹が戦っている間は、いつも傍にいてくれる。私よりもずっと小さくて力は弱いけれど、中身はずっとお姉さんだ。
諭すような彼女の視線がとても有り難くて、そして痛い。
子供っ気が抜けていないのは確かだけれど、思えば母の元を旅立ってしばらく経つ。迷惑になってはいけないとずっと会いに行ってもいないから、誰かに保護されるという感覚を忘れてしまっていたのかもしれない。
未成年だからなのか。
力がない所為なのか。
きっと後者なのだろう。
夜人の世界は弱肉強食。力こそが全てであり、力がなければ破滅するだけ。庇護を厭い、自由に動きたいと願うならば、自分に力がなければならない世界。
――力か。
もしも私に力があれば、女豹と戦うことも出来たのだろうか。
こんな冷たい石壁の中に閉じ込められることもなく、これまでのように自由気ままに十六夜町をふらつくことだって出来ただろう。
夜人の中にはこういうものもいるだろう。
お前は恵まれている。守ってもらえることが出来るのだから。殺されてしまうぐらいならば、多少不自由な思いをしてでも強いものの傍にいたい。
私は甘いのかもしれない。未熟すぎて有難味が分かっていないのかもしれない。
それでも、私は私で羨ましかった。
自由に動ける黒鯱や牡丹のことが羨ましくて仕方なかった。
「百枝……」
温かな百枝の体を抱きしめながら、その白い毛に頭をうずめる。
仄かに石鹸の香りがするのは、下水の臭いを嫌った時計台の若い女性が無理やり風呂に入れたせいだと聞いている。
これまで牡丹と一緒に気ままに路地裏で暮らしていた百枝だけれど、牡丹の希望で時計台に引き取られっぱなしだ。
つまり、私と同じで好き勝手に暮らしていた生活から一変したわけだ。
「百枝は辛くないの? こうして閉じ込められてさ、好きに散歩も出来ないなんて」
『不自由はあるわ。でも、きっちりご飯を貰っている以上、贅沢も言っていられないわ。野良生活は本当に大変なのよ。ドブネズミはうじゃうじゃいるけれど、いつだって捕れるとは限らないもの。あなた達だってそうでしょう?』
「そう……だけどさあ……」
なんだかすっきりしないのはどうしてだろう。
百枝は本物のネコ。生きていくために精一杯で、いつ何が原因で死ぬかもわからない。そんな百枝にとって大事なことは、生きるために必要なことのほかはせいぜい牡丹とのささやかな時間くらいのものなのだろう。
そのためならば、自由を奪われても構わない。
私とは違う。
本物のネコの百枝とも、私は違う。
――野良猫の中には野良犬のメンバーに加わる者もいるのだとか。
ふと、隼人の奴に誘われたことを思い出した。
独立と自立。母の元を旅立って以来、私が無意識に強く求めてきたもの。黒鯱や牡丹が持っているもの。そして女豹が持っているものでもあるのかもしれない。
十六夜町の夜人として本当に好き勝手に生きていくには、木刀しか持てないとしても、大人が納得できるような信頼と実力が必要なのだ。
信頼の方は……自分で言うのもなんだけれど、この町の人たちとも関係は良好であるのだと思っている。昼人も夜人も、私の事を信頼してくれている人たちを無駄に悲しませたり、裏切ったりはしたくないと思っている。
あとは、実力だけ。実力をつけるだけ。
女豹がうろついているような世界でも、身を守れるような力を私自身がつけるだけ。
……それには、どうしたらいいのか。
『あ、戻ってきた』
百枝がぴんと耳を立てる。
釣られて耳を澄ましてみれば、不注意に石畳を踏む音が聞こえてきた。忍ぶ必要のない人物。そして百枝の態度から、誰がこの牢の扉を開けてくれるのかは想像がついた。
解錠の音と重たい鉄の扉の音が響き、思っていた通りの人物の浅葱色の双眸と麦色の髪が見えた。疲れたような表情はすぐに分かった。倦怠感を露わに、牡丹は黙ったまま牢の中に入り込んで、私の隣に座ったのだった。
「ただいま」
『おかえりなさい、牡丹』
言葉と共ににゃあんという百枝の甘えた声が響く。
牡丹の反応は鈍い。もしかしたら、百枝の言葉を聞く力すら残っていないのではないだろうか。そのくらい、牡丹は疲れていた。
「魂喰い獣ってやつを甘く見ていた」
頬杖を突きながら、彼女は言った。
目立った負傷はないけれど、傷を作らぬ代わりにそれだけ疲労をためているのだろう。
「私もね、黒鯱のようにこの大島にある各国を見てきた。十六夜町や花の国だけじゃない。いろんな場所に魂喰い獣はいたよ。だが、純血の奴らだって人狼から見れば格下だ。ましてや半妖だなんて。でもそれは、正常な奴らに限ったことなのかもしれないな」
「牡丹さん……」
「私の先祖の一人が暮らしていた所はね、先も見えぬような沖を船で進んだ先にある異世界。広大な大陸の果てにある魔に満ちた森林だったらしい。そこでも魂喰い獣はいて、この大島に暮らす者たちよりも大型で、力がある者ばかりらしい。たしかお前さんのような猫型の魂喰い獣ももとは異世界のものだったはずだ」
――異世界か……。
十六夜町のあるこの陸が、大島という複数の火山を持つ巨大な島なのだという話は、月夜で出会った知らない学者のおっちゃんが教えてくれたことがある。
陸で続く先に花の国や天翔、そしていつか黒鯱が言っていたような国々がある。
でも、島の外――海を隔てた先にも島はある。そこは昔から見えていて、ここと似たような国々が点々としていると聞いている。
更に沖へと船を出して進んでいけば、見たこともないような巨大な陸が見えてくるらしい。
入り口となる場所にある国に住まう人々は、言葉が通じない。見た目はこの島にいる人間たちと変わらないのに、言葉だけが通じない。だからそこは異世界と呼ばれている。
異世界の果てに行けばさらに異世界が待っている。牡丹のように不思議な色の目や髪を持ち、顔だちも風変わりな人たちが、全く分からぬ言語で暮らしているらしい。
それでも、言葉の魔術師を通せば会話をすることが出来るというのだから不思議なものだ。
昔から人間のお偉いさんたちはああいった場所の人たちと交流してきたらしい。
その交流で多くの新しいものがこの島に入り込んできた。だいたいは物品や無害なケダモノ、そしてそれらを取り扱う人間たちばかりだけれど、中にはその人間に紛れ込んだ厄介なものも入り込んできている。
そう、牡丹の先祖が異世界から来たと言ったように、女豹もその一人なのだろう。
とはいえ、私は異世界どころか海や湾すら見たことがない。せいぜい絵画を見た程度だから、あまり具体的には想像できないのだけれど。
「女豹。そう呼ばれている通り、あれは猫なんかじゃなくて豹だ。どういう経緯でこの島にいるのか知らないけれど、言葉づかいからして、二世か三世なのだろう。だが、問題はそこじゃない。強力な異世界の血だけじゃなく、奴はもうどうしようもないくらい暴力に傾倒してしまっている。理性が咎める無意識の制御の向こう側まで、妖力を解放させてしまったのだろう」
力なく唱えるように牡丹は言った。
唸りながらぼさぼさの髪を掻き上げる彼女を、百枝が心配そうに見上げている。その金目銀目に気づくと、やっと牡丹は力ない微笑みを浮かべてその小さな頭を撫でた。
その光景を横目に、私はますますふさぎ込んだ。
――牡丹でさえこんなに苦戦する相手だなんて。
こちらが黙っていると、牡丹は大きく溜息を吐いてから続けて言った。
「あいつを止めるには、神に近しい力が必要だ。だが、十六夜町には神がいないそうだね。昔は朝顔様がいたと聞いているが、今はそのお力を借りることはままならないのだとか。難しいことは私には分からんが、あまりにも被害が大きくなるようだったら、天翔や花の国……他国に支援を求めるしかないと御上は考えているらしい。けれどね、ただで支援を貰えるわけもない。ミサゴ様方は頭を抱えているらしいよ」
「十六夜町はどうなってしまうの……」
「さてね。あの女豹ならばこの町の夜人を狩り尽したとしても飢えから解放されないだろう。対処法はもはや分からない。黒鯱の奴が何か含みのある様子だが、その気のない蛇の口を割るのも面倒なことだ」
「黒鯱が……?」
「一応、教えてやると、黒鯱は頻繁に十四夜の慰霊碑を訪れている。錆び付いた妖刀を前に何をしようというのだろうね」
十四夜の慰霊碑。あの刀の突きささった祠のことだろう。
いつか黒鯱は教えてくれた。蛇穴という南の国を抜けだした神の子孫と人間の少女の話を。刀は彼女たちのもの。妖刀と牡丹が言っていた通りのものなのだろう。
妖刀。それがあれば、女豹を止められるのだろうか。
黒鯱なら何か教えてくれないだろうか。
ああ、でも奴の方から訪ねて来てくれなければ会うことだって出来ない。
情けなくて溜息ばかりが漏れ出していく。
そんな私を見つめ、牡丹もまた息を吐いた。
「とにかく、このくらい外は未熟な夜人には危険な場所になってしまったってわけだ」
今度はぽんと私の頭の上に手をのせて、犬でも撫でるように髪を乱していく。
「お前は子供らしくこの場で守られているがいいさ。長生きをしたいのなら、ね」
手を離したころには私の髪はぼさぼさになってしまっていた。
別に不満でも何でもないが、すぐに直す気にもなれない。
「じゃあな、明。私が油売りに来たことはあんまり人に言うんじゃないぞ」
そんな言葉を残して、牡丹は百枝をひょいと抱え上げて私一人を置いて、牢から出ていき立ち去ってしまった。足音が遠ざかっていく音が聞こえてくる。
きっと百枝と共に疲れを癒しに行くのだろう。
この牢の扉の鍵を”閉め忘れた”状態で。




