7.小夜
十六夜の時計台。
そこは私にとってもっとも身近な我が庭の象徴でありながら、これまでもこれから先も全く関わることはないだろうと信じていた場所だった。
町が町らしくあるために、時計台では日々お偉方が顔を見合わせ言葉を交わす。だが、それは飽く迄も昼人目線のもの。もしくは、ミサゴ様のように天翔などよそから来た人間様がたのためのものだ。
私ら夜人にとっちゃ、この町で重要なのはせいぜい影鬼の生息だけであって、別に町が町らしくなくなったって困りやしない。
そりゃあ、月夜屋や萬屋がなくなったらと思うと不便だけれど、不便に思うのは最初だけ。影鬼が絶滅でもしない限り、私が生きるに困ることはないだろう。
そういうわけで、この時計台は私にとって身近で当たり前でありながら、あまりにも遠い世界を表すものであったのだ。
そんな時計台の扉が、目の前で開かれる。
昼の明るみが強くなりつつある中で導くのは黒鯱。余所者であるはずの彼が、どうしてこうも堂々とこの聖域の扉を開くことができるのか。私もだんだんと彼の大まかな正体を掴み始めていた。
緊張しているのか、黒鯱の眼は赤く輝いていた。だが、そんな事よりも、開かれた先で待っていた人物の顔の方が、私の注意をぐっと握った。
「小夜かい……?」
恐る恐る問うと、小夜は軽く頭を下げた。
「お待ちしておりました。明様」
仰々しい彼女の態度に、私は思わず怯んでしまった。
月夜屋ではあんなに親しげだった彼女が、どうしてこんなにも他人行儀なのだろう。寂しさがこみ上げてきたその刹那、背後で時を見計らうように吐き捨てる者がいた。
「女豹も来ないし後は任せた。私は行くよ」
牡丹だ。足元では百枝がまとわりついている。
踵を返して立ち去ろうとする二人。だが、そんな彼女の動きがぴたりと止まった。その向こうに見えたのは、おっかない形相の野良犬の男たち。牡丹の退路を塞ぐ形で立ちつくしている。
「……どういうつもりだ、クソ蛇」
ぎろりと振り返る牡丹に向かって、黒鯱は首を傾げる。
「さあ、僕は所詮、余所者です。彼らの意図は彼らにお聞きするしかないのでは」
のらりくらりとしたその態度に、牡丹は軽く舌打ちをした。
そこへ、小夜が口を挟む。
「牡丹様。あなたのこともご主人様はお呼びです。どうぞ、我々と共にお進みください」
なるほど、それもまた断る権利はないのだろう。
牡丹もまたそのことは重々理解できたのだろう。野良犬のおっさんたちよりも野性味あふれる表情で唸りながらも、大人しく此方へ向き直る。百枝は不安げに牡丹を見上げつつも、逃げることはなくぴったりとくっ付いて共に来た。
牡丹たちまで時計台の中へと入ると、重々しい扉が閉じられる。
暗くなったのは一瞬だけで、次第に灯が辺りを照らし始める。小夜の持つ火もまた、私たちを招くように揺らめいていた。
あとは時計を動かす大絡繰りの正確な物音ばかりが響いている。その場にいるだけで、なにものかに急き立てられているようで落ち着かなかった。
「こちらです」
小夜が唄うように呟く。
歌鳥はただの人間。人間たちによってケダモノの一種とか言われたこともあったらしいけれど、私らから見れば少し特殊な人間に過ぎない。対する私らはどいつもこいつもアヤカシだ。人の血が混じる私はまだしも、得体の知れない黒鯱もいるし、牡丹に至ってはケダモノのよう。
それなのに、小夜が一番人間離れした神秘さを宿しているのは何故だろう。
時計台の中はとても広かった。
十六夜町の時を刻む大時計の真下は絡繰りしかなかったけれど、端々では様々な部屋への扉が存在し、そのままお偉方の使用なさる豪勢な空間へとつながっているらしい。
小夜が案内するのは、入ってすぐの左端。とても小さくて古い木の扉の向こうであった。扉の向こうは螺旋階段になっていて、遥か上を目指して緩やかにどこまでも続いている。
その階段を小夜は昇り始めた。
疑問と共に導かれ、進み続けてしばらく。
やがて、小夜は一つの扉の前で立ち止まった。時計台の外側に面しているであろうその部屋。方角も高さももはや想像もつかなかった。
小夜が一声かけてから扉を開けたその先にまず見えたのは、太陽の眩い光。昼の明るさは私には不慣れなもの。だからこそ、窓硝子より差し込む光は眩しすぎた。目を奪われていると、すっと音がして明かりが弱まった。見れば、明かりはカーテンによって遮られていた。
「申し訳ありません」
穏やかな女性の声。
異世界から流れてきたカーテンとかいうやつをそっと閉める優雅で雅なその人物。傍に小夜が控えている。小夜のその人物への態度、そして表情を見れば、この女性が何者なのか一瞬で想像がついた。
気付けば、その部屋には女性と小夜だけではなく、数名の昼人や余所から来た人間らしきものたちがいた。ついでに野良犬もいる。皆、彼女を監視しているのだろう。いや、監視されているのは私たちの方なのかもしれない。
「あなた方にとって日光は毒でしたね」
静かに言われ、私ははっとした。
慌てて首を振って、私は答える。
「大丈夫……です。気にしないでください」
うっかり砕けた口をききそうになって、慌てて敬語を思い出す。
どう見ても、この人もお偉いさんだ。
ミサゴ様までとはいかずとも、一夜から十六夜までを統括しているお偉方くらいの身分はあるのだろう。恐らく彼女も天翔の人。生粋の人間なのだろう。
緊張が露わになったのか、女性はふっと微笑み、さり気ない仕草で長椅子を示した。
「そこにお掛け下さい。しばらくお話に付き添ってもらわねばなりませんので」
黒鯱が言われるままに向かう。
こういう状況に慣れているのだろうか。ちっとも緊張を感じられなかった。本当にこの男は何者なのだろうと改めて思いつつ、私も恐る恐る彼に続いて椅子に座った。
ふわりとした椅子だ。
月夜屋で座れるような椅子とは全く違う。肌に触れる感触、匂い、色合い、すべてが初めて味わうもので、何もかも自分とは縁遠いものに思えて仕方ない。
やがて、それらの感覚は、私に一つの結論を与えた。
――ここは私のいるべき場所じゃない。
異様に感じるほどの座り心地の良さが、かえって鳥肌が立つような居心地の悪さを感じさせてくる。
隣に座る黒鯱、そしてまだ警戒して座りたがらず脇に立ったままの牡丹。彼らはこの部屋に何を想っていることだろう。
「改めて、初めまして」
向かいに座る女性が丁寧に頭を下げる。
その傍では小夜が椅子にも座らず控えていた。今更、牡丹を座らせるようなこともなく、小夜のご主人様は私と黒鯱を見つめ、微笑む。
「私はチュウヒと申します。ミサゴの傍に仕え、共に十六夜町を取り纏める役目を担う天翔の女です。そして、ここに居る歌鳥小夜の誓いを受け取った主人でもあります」
チュウヒ様。そう名乗る女性。年のころはいくつくらいだろうか。分からないが、たぶん静海さんよりも上だとは思う。
容姿の美しさのみならず、落ち着いた振る舞い、身のこなし。名乗っている以上にただならぬ権威を感じてしまい、私は居たたまれなさを更に感じていた。
「小夜――この子に色々をお話は聞きました。明さん、でしたね。この子を助けてくださり、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、きっとこの子はもう一人の神兎の子共々……」
言いかけ、そのままチュウヒ様は瞼を閉じた。
その眼に浮かんでいるのは、死んでしまった満月への哀悼なのだろう。しばし沈黙し、言葉を捜してから、ようやくチュウヒ様は再び目を開けた。
「小夜に話を聞いてからというもの、黒鯱さんにお願いしてずっとあなたを捜していました。間に合って本当によかった」
柔らかに、ゆっくりと言うチュウヒ様。
その緊張感に押し出されるように、私はそっと彼女に答えた。
「御礼を言われるほどのことではありません。小夜さんにはいつも癒しをいただいていました。友達だからこそ、当然のことをしたまでです。……むしろ、私がもっと強ければ――」
「あなたの勇気は十分伝わりましたよ、明さん。それに無謀さも」
ややチュウヒ様の声が強められたのを感じて、私ははっとした。
表情は変わらないが、その双眸には強い意志がこめられているようだった。
「狂った魂喰い獣は高位の純血妖怪でも苦戦するもの。女豹は恐らく半妖の魂喰い獣。とはいえ、まだ未成年の夜人であるあなたが一人で戦っていい相手ではありません」
「……す、すみません、でも」
「女豹はあなたに目を付けた。この塔に匿っている野良猫少女の代わりでしょうね。けれど、奪われるわけにはいきません。ミサゴに従う天翔人として、そして、何より小夜の主人として、あなたを自由野放しにさせておくわけにはいきません。あなたには今日よりこの塔の地下に――」
「ま、待ってくださいチュウヒ様!」
私は慌てて食い下がった。
このままだと私もシャミセンみたいにこの時計台に閉じ込められてしまうとすぐに分かったからだ。もともと、黒鯱に連れ出された時から想像はついていた。
ミサゴ様のもとで何かしらの協力を仰がれるのだろうとは思っていた。けれど、そうでもなくただ保護されるだけ――それも、自由を奪われるとなるとさすがに反抗心もわく。
私は野良猫。野良猫は束縛を嫌うもの。中には野良犬の一員に加われる風変わりな奴もいるが、それだって強制されたわけではなく、その猫が自分で考え、自分で決めた結果だ。
野良猫とはそういうもの。最低限の御上への敬意は払うし、必要以上に利己的にはふるまわない。それでも、無理やり自由を奪われるのは嫌だった。
「協力ならします。囮でもなんでもします。ですが、拘束だけは嫌です。危なくなったらちゃんと駆け込みますから、どうか、今日はいったんお家に帰してください」
頭を下げて訴えたものの、ちらりと窺ったチュウヒ様の表情は芳しくないものだった。
「いいえ、これは命令です。ミサゴの名において、あなたの身柄は十六夜の時計台が引き受けることになりました。これはあなたの為でもあります。もはやあなたの安全な場所は外にはない。ミサゴや十六人の重鎮と共にここを守らされている者として、明さん、あなたを帰すわけにはいきません」
強く言われ、私はうっと言葉に詰まった。
周りでは恐ろしい顔をした野良犬どもや天翔人などが見張っている。それに、小夜の視線もあった。友人であり、友好的な彼女だが、私を見つめているその眼は不安げで、願いが込められている。その願いとは、きっと私にここに居てほしいというものなのだろう。
悩ましい。野良猫としての尊厳と、周囲からの視線とがぶつかり合い、綱引き合っていて、胸が張り裂けそうだ。模範的な十六夜町の住人なら、大人しく従うのが正しいのだろう。
でも、この息苦しさは何だろう。
「随分と勝手な物言いだな、女王様」
そこへ、皮肉を交えた声がかかる。
椅子にも座らず立ち尽くしたままの牡丹であった。威圧的なその態度に、見張りの男たちの表情もきついものになる。それを受けて、足元ではやはり百枝が心配そうに見上げていた。だが、牡丹の視線はただ一人――チュウヒ様にしか向いていなかった。
「他人に心があることを忘れているかのようだ。この猫だってアヤカシの端くれ。お前たち人間と比べるのもおこがましいほどの妖力を持っている。我らの世界では権力など無意味。こいつは唄に守られなくては影鬼にすら食い殺される無力な人間に支配されるような存在じゃない」
あまりの強気の態度に、私の方が震えてしまった。
「狼めが、チュウヒ様になんて口を……」
周囲にいた野良犬たちがむっとした様子で一歩迫り出すが、それをチュウヒ様自らが手で制した。
「いい。この方の言葉も一理ある。私たちは所詮人間。小夜の唄がなければ、私はきっと十六夜町に足を踏み入み次第、すぐに影鬼か敵対する一味に殺されていたでしょう。けれどね、狼の御方、ここは人間の世界。人間の町なのです。ミサゴが統治するこの町の方針にどうしても従えぬのなら、全てを没収されてでも出ていくまで。ですが、それを決めるのは明さんであり、あなたではありません」
はっきりとした口調でチュウヒ様はそう言った。
ただの人間の女であるはずなのに、その目は人狼であるはずの牡丹さえも怯ませる。返す言葉も見つからず、不快そうに唸って目を逸らす牡丹に向かって、チュウヒ様はさらに続けた。
「あなたにも此処へ来ていただいた理由があります。狼の御方。かつてここが八花と呼ばれていた時代、人間たちは山よりきた狼――山神に助けられました。あなたの先祖かもしれない御方です。そうでなくても、女豹を止めるには強い力が欲しい。ミサゴも私たちも、あなたへの数々の無礼を承知でお願いいたします。どうか、私たちに力をお貸しくださいませ」
柔らかな口調で言われ、牡丹は苛立ちつつ周囲を窺った。
退路はない。何処に戦闘員が潜んでいるかもわからない。丁寧に頼まれてはいるが、いくら人狼であっても此処から無傷で逃げ出すことなんて不可能だろう。
牙を見せて唸りながら、牡丹は答えた。
「分かった。仕方ない。そのクソ蛇共々、頼りないお前たちのために一肌脱いでやるよ」
荒々しい眼に睨み付けられ、チュウヒ様は目を細めた。




