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6.助太刀

 牡丹。

 この町で野良犬たちに睨まれながら隠れ住んでいた彼女がどうしてここにいるのだろう。麦色の頭を気怠そうに掻きながら、くまの酷い浅葱色の目を女豹へと向けている。

 ちなみに武器なんて持っていない。

 それでも、女豹は分かっているようだった。牡丹がたとえ素手であっても、決して舐めていいような存在ではないということに。

 女豹の視線は牡丹から動かなかった。喋りもせず、その動きに集中している。その姿はまさに、警戒心の強い野生動物だ。

 そんな女豹をからかうように牡丹は声をかけた。


「やあ、君が女豹だね。一度お目にかかりたかったんだ。同じ余所者の血を引くものとしてね」


 何処からどう見ても裏のある親しげな態度を見せる牡丹。

 わざと苛立たせているのだろう。それでも、女豹の心は氷のように冷たく、石壁のように丈夫なようだった。無言のまま刀をすっと地面に向けて下げる。静かに、さり気なく、それでいてちっとも震えてはいないその動作に、牡丹は目を細める。


「なるほど、噂に聞いていた通り野生動物のような人だ。魂喰い獣なんかよりずっと強いアヤカシに見えるくらいだ。そうだなあ、たとえば人狼に匹敵するくらいかな」


 牡丹がそう言った直後、私の視界から急に彼女の姿が消えた。

 目立つ麦色の髪をそう簡単に見失ってしまうはずなんてない。人狼として怪しげな妖術を使えるのだとしても、私だってアヤカシの血を引いているのだ。そのくらい化け猫の血で視ることだって出来るはずだ。

 だが、見えたのは黄金の大きな獣。風のように女豹へと迫る。それを華麗に避けつつ、女豹は私の傍へと逃れてきた。刀はまだ下に向けたまま。いつ反撃するのか、その反撃に牡丹は勝てるのか、ろくに動けぬまま不安になる私を絶望させるかのように、女豹は笑みを浮かべた。


「そういうお前はすっかり落ちぶれているな。この町でドブネズミや猫なんかと野良犬のように暮らして、とても人狼には思えない」


 女豹が一言だけ投げかけると、黄金の大狼の姿をした牡丹は振り返った。

 猛獣のように牙を見せ、不快な思いを露わにしながら彼女は吠えた。


「そう思うのならその刀で私を傷つけて見てはどうだ? お前にそれが出来るというのなら」


 大した自信のようだ。

 でも、私は不安だった。ここでもしも牡丹が負けてしまったら、私はもう逃げられなくなる。牡丹は人狼。人狼は私みたいな駆け出しの野良猫から見れば神様のように遥か上の力を持つ存在。そんな人狼をもしも女豹が倒してしまったならば……。

 ああ、考えるだけで滅入ってしまう。満月の苦しそうな顔が浮かんで、落ち着かなくなってしまう。


 けれど、そんな中、新たな訪問者は現れた。

 此処から唯一大通りに出られる路地より、とても小さな白っぽい生き物が駆け込んできたのだ。その存在に気づいて、女豹がやや気を取られた。しかし、すぐに興味を失って再び牡丹へと注意を向けていた。

 私の方は気を取られっぱなしだった。その白っぽい生き物。彼女は、よくよく考えてみれば此処に駆け付けてきても当然のような存在だった。なぜなら、牡丹と仲がいいのだから。


『まだ生きているわね? 私も牡丹も間に合っているわよね?』


 その声に、女豹が再び注意を向ける。

 ああ、やはり女豹にも分かるのだ。彼女――百枝の言葉がはっきりと理解できるのだ。


「間に合った? さてどうかな」


 冷たく言い放つ女豹を百枝は睨み付けた。


『名もなき野良猫さん、力に頼ってこれ以上身を滅ぼすようなことをしても意味ないわ。今なら黙っていてあげる。明を諦めてさっさとこの町を出ていきなさい!』


 強い百枝の言葉に、女豹は失笑した。


「ただの猫に説教されるとは思わなかった」


 真剣を振りかざし、血走った眼で百枝を見つめる。

 相手が同族であろうが、力の弱いただの猫であろうが、同情するような心も手加減をしてやろうという気持ちも宿してはいないだろう。

 その眼に浮かぶのはただ、捕食という行為を邪魔された野生動物の怒りのみ。

 けれど――。


「だが、これ以上押しても無駄な気もしてきた」


 そう言って、飛びかかる牡丹をさらりとかわす。女豹がその強い眼差しのままで見つめているのは百枝の後ろに遅れるように現れた二つの人影だった。

 野良犬の少年隼人。そして、彼に引っ張られるようにしてやってきた黒鯱。彼らの姿が見えた途端、女豹の眼差しが揺らいだ気がした。


「こっちだ糞蛇。のろのろすんな!」


 牡丹が猛獣のように吠える。


 ――蛇?


 その言葉に疑問を抱いている間に、木刀を持った隼人と見慣れぬ刀を持った黒鯱が女豹に迫っていった。牡丹、隼人、黒鯱の三人に取り囲まれ、一気に追い詰められだした。

 特に女豹が気にしているのは、黒鯱のように見えた。


 どうしてだろう。誰もかれもどうして黒鯱を怖がっているのだろう。


 疑問に思う私の前で、四人が一斉に動き出した。

 私もいかなくちゃ。そう思いつつも頭がくらくらする。さっくり斬られてしまった木刀をどうにか拾ったものの、戦乱の中に飛び込む元気はもうなかった。


『しっかりおし。せっかく拾った命なんだから無駄にするんじゃないわよ』


 足元にぴったりと寄り添いながら百枝が私を見上げる。


『あなたが飛び込むまでもないわ。豹といっても基本は野良猫と同じ。牡丹が野良猫なんかに負けるわけがないもの。それに、あの若い余所の御方――』


 と、百枝が戦う四人へと眼差しを送った丁度その時、ついに女豹が観念しだした。

 降参したからといって取り逃す気なんてないのだろう。特に隼人は猟犬よろしく地の果てまでも追いかけんばかりだ。

 けれど、相手は猛獣。

 逃げると決めた彼女の動きはすばしっこくて、簡単には捕まらないらしい。それもそうだ。奴は十六夜町一の野良犬集団さえも振り切ってきたのだから。結局、誰もが女豹の動きを捕らえられないまま、路地へと逃してしまった。


「おい野良犬小僧、深追いはするな」


 さらに追跡しようとしていた隼人を牡丹が叱責した。

 不快そうに振り向くも、隼人は刃向わずに立ち止まった。人狼と自分との力差を冷静に見抜いていたのだろう。それに、牡丹が敵ではないとさすがにもう分かっているからかもしれない。

 大きく息を吐くと、隼人はすぐさまこちらに駆け寄ってきた。全く、あれだけ動いたのに元気な奴だ。その持久力が羨ましい。


「おい明、大丈夫か? 怪我は?」

「擦り傷くらいさ。大丈夫だよ……」


 答えつつも、声に力は入らない。

 どうやら私は震えているらしい。異様なくらい寒いし、異様なくらい汗が出てくる。でも、同時に全身から力が抜けていくようだった。

 私は生き延びた。私は運が良かった。

 隼人に支えられながら、そのことだけが理解できた。


「とにかくよかった。生きていて」

「……どうして隼人まで?」

「たまたまだよ。兄貴たちの言いつけで黒鯱の兄ちゃんから聞けるだけ話を聞こうとしていたんだ。そこへ、その……百枝だっけ? その白猫の嬢ちゃんが駆け込んできたってわけ」


 隼人の言葉が分かるのだろう。

 百枝がぴしっと胸を張って得意げにすまし顔をする。そうしていると、薄汚れていてもまるで金持ちの家の飼い猫かのようだ。隣に飼い主面をして立つのが薄汚れた人狼でなければそうとしか見えない。

 ……おっといけねえ。命の恩人たちを薄汚れただなんて。


「俺一人だったら何を伝えたいか聞き取れなかったかもしんないけどよ、黒鯱の兄ちゃんが辛うじて聞き取れて、事態を知ったってわけさ。それにしてもお前、いつの間に人狼と仲良くなったんだ? 俺、びっくりしたよ」

「成り行きってやつだよ。すごく運がいいことだけどさ」


 ぜえぜえ言いながらなんとか笑顔を返した。

 震えは止まらないけれど、だいぶ落ち着いてきた。女豹ももうとっくにどっかに行っただろう。今頃満たされなかった飢えを別の不運な誰かにぶつけている頃かもしれない。

 気の毒だが、勘弁してほしい。


「落ち着いたようだね、明」


 人の姿に戻った牡丹が薄らとした笑みを浮かべながら話しかけてきた。

 麦色の髪を風に揺らし、浅葱色の目を細めている。その表情からはあまり疲れの余韻を感じられない。それでも、多少なりとも疲労しているのは隠したりしなかった。

 躊躇いもなくその場にあぐらをかくと、頬杖をつきながら黒鯱を睨み付けた。


「――さて、めでたしめでたしと行きたいところだが、そうもいかないようだ。なあ、黒鯱?」


 どういうことだろう。

 不穏なその様子にどきりとしながら黒鯱をうかがうと、彼は彼であれだけの乱闘にもかかわらず澄まし顔のままその場に突っ立っていた。

 そういえば、戦っていた時に持っていた刀も見当たらない。

 

「明、ひとつ聞いていいでしょうか」


 黒鯱に問われ、私は恐る恐る頷いた。


「なんだい?」

「明はこの場所を気に入っていますか? ここをお城だと言っていたけれど、離れなくちゃならないとしたら、耐えられるだろうか」

「い……いきなり、なんだい?」

「前も言いましたが、明、君は別の場所――それも、一人にならないような場所にいた方がいい。たとえば『月夜屋』。あそこの大将と新月ちゃんは心配していましたよ。明ちゃんが書置きだけして消えてしまった時、すごく焦っていてすごく悲しそうでした。君が顔を出してくれて、僕を探しに来たと話す新月ちゃんは本当に嬉しそうでした。もしもお世話になりたいと申し出たならば、喜んで歓迎してくれるはずですよ」

「私は……あそこは……」


 答えに詰まってしまった。

 心配していた。歓迎してくれる。なんて甘い言葉だろう。でも、やっぱり私は怖かった。新月や蛙の親父と長時間顔を合わせる勇気がまだまだ私にはない。やっと月夜に短時間居られたばかりだというのに、お世話になるなんて厚かましい事出来るはずもない。

 満月の事を助けられなかったのは仕方のないこと。

 何百回、何千回と言い聞かされたとしても、それを納得しようとしても、やっぱり心のどこかに引っかかり続けてしまうのだ。


 俯く私から目もそらず、黒鯱は話を続けた。


「たとえば『隼人君の下宿先』。勇敢な名犬の皆さんも、君の事を保護することに前向きだ。特に君は明日を担う若手の隼人君の友達だからね。静海さんもその旦那様も、君を手元に置くことに何の不利益もないと仰っていたよ」

「そうだよ、明」


 黒鯱に同調するように、隣で支えてくれる隼人が私を覗き込んできた。


「お前がその気なら、群れの一員にだってなれるんだってお頭が言ってたよ。そんな事例もいくらでもあるんだから問題ないって。仕事なんていくらでもあるさ。俺らの群れは女手が少ないからね。怪我してる静海さんの看病だって明がしてくれたらどんなに助かるか……」

「隼人……私は……」


 隼人や静海さんの群れ。きっと夜人の世界の中ではもっとも安全な場所だろう。

 普段ならば野良犬同士の抗争はあるけれど、女豹が世を騒がせている今はそれどころじゃない。けれど、用心深い女豹がわざわざしぶとい野良犬が複数いるような群れを襲撃するはずもない。

 それに、静海さんのことは心配だった。怪我にとどまったといっていたけれど、看病が必要なくらいということなら、無理は出来ないのだろう。

 役に立てるというのなら、喜んでやるべきことだと思う。


 でも、それでも。


「御免、隼人。私はやっぱり……やっぱり野良猫なんだ」

「明……」


 俯く私を支えながら、隼人は口を閉ざした。

 言葉に迷っている、というところだろうか。無理もないだろう。

 でも、無理なのだ。野良猫の血を受け継いでしまった以上、野良犬と共に、野良犬に交じって暮らしていくなんて、やっぱり考えられない。

 そういう野良猫がいたとしても不思議じゃない。


 でも、私は、私には。


「もう一つ、選択肢があってね」


 と、そこへ心の中に忍び込むかのような怪しげな調子の黒鯱の声が響いた。

 見れば、彼はじっと私を見つめていた。彼の目はいつも通り鳶色であるはずなのに、時折見せる血走っているときのような妖しさを秘めているような気がした。

 不気味だ。

 少し前まで抱いていた黒鯱の印象とだいぶ違う。何らかのアヤカシの血を引いていると思しき彼。女豹と戦いつつも、息切れもしていないその人物を大人の夜人たちはもうかねがね怪しんできたのだ。

 その雰囲気に呑まれそうになる私に黒鯱は目を細める。


「明」


 手を伸ばし、彼は言った。


「僕と共に十六夜の時計台へ来てはくれませんか?」


 それは、断れそうにない、断る自由のなさそうな、問いかけだった。

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