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5.待ち伏せ

 黒鯱に聞きたいことはまとまってきた。

 しかし、肝心の黒鯱が見つからないとあっては意味がない。


 「鶴亀」を出て暫く、私は思うままに黒鯱を探した。

 重たい足を叱咤して、月夜にだって向かってみた。夜とあって人で賑わっていたけれど、新月はすぐに私に気付いてくれた。

 元気そう、だなんて言わない方がいい。彼女の元気は多分、無理をしたものだろうから。それでも、おずおずと席につく私に、新月は以前以上に積極的に話しかけてくれた。


 きっと、失った満月の分まで頑張りたいのだろう。

 蛙の親父だって同じだ。我が子のように可愛がっていた満月のことを胸に秘めつつも、お客の前ではなんとか明るく振る舞おうとしていたもの。

 でも、夜人も、危険を顧みずに夜遊びしている昼人も、この町の者ならば誰もが事情を分かっているから、必要以上に二人に無理させるようなことはしないらしい。

 顔を見て、少し話して、様子が分かったら帰る。

 そんなお客ばかりだったらしい。

 私もそうだった。それが出来て、少しだけ満足出来た。

 でも、肝心の黒鯱の行方に関しては収穫なしだった。蛙の親父も新月も、何処かに出かけたとしか知らなかった。どうするべきかと考え、時計と相談し、私は結局、家に帰ることにしたのだった。


 昼人が起きるにはまだ早い時間であるし、夜人が寝るにもまだ早い時間であった。

 日も昇らず、影鬼もまだうろついているだろう。微かに賑わい通りの夜の喧騒が聞こえてくるのを背に、路地をドブネズミのように進みながら、孤独な我が城を頭に思い浮かべる。


 どうせ寝るだけなのだし、寂しくなんかないだろう。


 そう思いながら路地を進み続け、やっとこさ城が見えてくる。餌も喰ったし、風呂も入った。おまけに月夜ではちょっとしたいいものを喰えた。

 今日はもう寝て、明日また黒鯱は探そう。

 そう思いながら、寝床までてくてくと歩いていたその時だった。


 ふと、我が家を構成している品々を前に、私は立ち止まってしまった。


 変わったところなんて何もない。

 私が作った時のままで家はそこに存在している。周りだってそうだ。袋小路になった私有地は、今日もなんだか微かに臭う。萬屋の親父に売ってもらった香水がなかったら、鼻が馬鹿になっていただろうってくらいだ。


 変わったところなんて何もない。

 そう、私の正面に限っては。


 ――あっ……。


 急に振り返るのが怖くなった。

 でも、振り返らなくてはならなかった。

 だって、それまでにない気配が背後からするのだから。

 知らない奴の匂いでもなければ、知らない奴の視線でもなかった。勇気を出して振り返る私の視界に入るもの。それは、唯一の出入り口を塞ぐ形で突っ立っている一人の人物の姿だった。

 黒鯱なんかではない。隼人なんかでもない。

 女だ。髪の長い女。異世界風の赤い髪をゆらゆらと夜風に揺らしている女。真っ赤に光る眼がぎらぎらと私を見つめていた。

 そして、その手にすらりと伸びるのは、既に鞘から解き放たれた白く光る真剣の刃。

 その姿を見つめる私の脳裏に、一言だけ文字が浮かぶ。


 女豹。


「気づかれちゃったか」


 どこか茫然とした様子で彼女は言った。

 私が後退りをすると、彼女も一歩だけ踏み出す。


「久しぶりだね」


 更に一歩、彼女が踏み出す。

 その脅威を前に、私は必死に思考をめぐらしていた。

 何故、彼女が此処に居るのか。目的は何なのか。さすがに分かっていた。考えるべきはそれから先の事。どうやって生き延びるか。どうやって、此処から逃げ出すか、それだけだ。

 でも、それだけのことが、こんなにも難しいなんて。


 まずい。どうしよう。どうやって逃げよう。


 後退りする私の背中に家を構成している机の端が当たる。どうにかしてあの出入り口を突破しないと。周りは高い壁で囲まれてしまっているのだ。

 それとも、自分の身体能力を信じて壁を越えて、他人様の敷地を踏み荒らしてでも逃げるべきだろうか。


 そっちの方がいいに決まっている。

 だって、女豹は積極的に動かない。


「そう怖がらないでよ。私は猫同士、ただ君とお話したいだけさ」


 そんなわけがない。

 ただ、からかわれていると分かっても、怒りの断片すら浮かんでこなかった。


 怖い。ただ怖い。

 満月の悲鳴が今にも甦ってきそうだった。


「来ないで……」


 そう言って拒めば、女豹はいっそう笑みを深めてこう言った。


「なんて、さすがに騙されるわけないよね」


 震える足をどうにか落ち着かせて、私はやっと逃げ出した。

 眠気なんて吹き飛んだ。倦怠感なんて何処かいってしまった。ただ生きていたいという思いだけが私を動かしていた。

 家の背後に回り込み、周囲を見つめる。

 女豹が何処に居るのか。どう動いているのか。それを確かめつつ、どうにかしてこの場を逃げようと必死に考えていた。


 しかし、その思考さえも、一瞬にして凍らされてしまった。


 女豹の動きをこの目に捉える事が出来なかったのだ。

 野鼠を捕える猫のように、彼女は真横からいきなり現れて、いきなり私の手を掴んだ。思わず悲鳴を上げようとする私の口を塞いで、そのまま隣家と此方とを隔てる高い壁へと私を押し付ける。あまりの痛みに手に握る木刀で反撃するなんてことも出来ないくらいだった。

 身動きの取れない私と無理矢理目を合わせ、呟く。


「捕まえた」


 女豹が静かに微笑みを浮かべる。


 頭の中ではずっと満月の悲鳴がこだましている。

 苦しみながら彼女は死んでいった。絞り取るように、女豹は彼女を貪った。

 同じことがまた起きるというのだろうか。それも、私を当事者として。いやだ。死にたくない。殺されたくない。食べられたくない。痛い思いなんて嫌だ。


「悪いね、子猫ちゃん。腹が減って仕方ないんだ」


 涙を浮かべる私を見つめ、女豹はちっとも悪びれずにそう言った。


「じっとしていてくれるかな?」


 全身で全身を壁に力強く押されて息苦しい。その上、左手で口も塞がれているのだ。そこへ、右手に持つ真剣が私を脅している。嫌だ。こんなのは嫌だ。

 もがく私を軽々と支配して、女豹は私の耳元で囁いた。


「ああ、やっぱり美味しそうな匂いがする。誰にも知られず、邪魔されず、ゆっくりと味わえそうで嬉しいよ」


 笑っている。

 どこまでも冷静で、私に対する同情心など微塵もないようだ。


 でもこれはきっと、影鬼を狩る時の私と同じ表情なのだろう。私だってそうだった。そうじゃなかったなんて口が裂けても言えない。

 この女豹の姿はきっと影鬼から見た私の姿なのだろう。

 私が抱く嫌悪感は、影鬼たちが私に抱いている嫌悪感なのだろう。


 じゃあ、このまま影鬼のように消えていくしかないのだろうか。初めに発見された忠蔵のように殺されてしまうしかないのだろうか。

 トラトラや満月の待っている黄泉という場所はどういう所なのだろう。ああ、こんなことなら昼人連中が真面目に聞いているという坊や尼の説法でも聞いておけばよかった。


 ――いや、こんなんじゃだめだ。


 本当に死んでいいのか。これで諦めていいのか。

 殺されておしまいだなんて呆気なさすぎやしないだろうか。トラトラや満月の無念を晴らせないまま、彼らの後をただ追いかけるなんて情けないのではないだろうか。

 安物の木刀がなんだ。

 豹と猫の違いがなんだっていうんだ。

 最初から諦めていちゃ、覆るものも覆らないではないか。

 だから――抗えるだけ抗わないでどうするというのだ。


 ――喰われて、たまるかぁっ!


「痛っ!」


 女豹の短い悲鳴が耳に届くか届かないかで、私の口は解放された。

 塞がれていた手を想いっきり噛むことが出来たのは、死にたくないという思いのあまりのことだろうか。それとも、獲物としての私を完全に舐めていた女豹の怠慢のためだろうか。

 どちらでもいい。

 女豹の血の味を確かめながら、私は思いっきり空に向かって吠えた。


「誰かぁっ! 女豹、女豹だよおっ! 女豹が出たんだよぉっ!」


 多分、今まで生きてきた中で一番でかい声を出したと思う。

 ごく親しい人物しか知らない私の住まいで発したとはいっても、どうせ野良犬連中はこの場所くらい把握しているだろう。

 それに隼人が知っている以上、この場所が分からないなんてことにはならないはずだ。

 ここは袋小路。

 いかに女豹といっても、高い壁を超えるのは困難なはずだし、他の抜け道も猫や小犬くらいの大きさの者にしか通れないだろう。

 唯一の出入り口から夜人たちが駆けつけてくれれば、女豹の逃げ道はなくなる。


「こいつ……!」


 そのことに気づいてだろう、女豹の表情は見る見るうちに変わっていった。

 まだ血の滴る手で私の胸ぐらをつかみ、いよいよ真剣を振りかぶった。


「よっぽど苦しみたいようだ。ご希望通りにしてやるよ!」


 おそらく本気で怒っているのだろう。

 だが、後悔なんてない。黙っていたってどうせ殺されるのだ。腹が減って仕方ないのなら、見逃してもらえる展開などありえないだろう。

 一体どれだけの命を吸ってきたか分からない刃。

 女豹にとっては獲物を食らう牙。

 やっすい木刀なんかじゃ当然、身を守れないだろう。それでも、窮鼠くらいは反撃したい。私の命を引き換えにしてでも、せめてこの女を御上に突き出してやりたい。

 そんな思いを胸に抱え、私は木刀を持つ右手に力を込めて、胸倉を掴んできている女豹の左手の肘を殴りつけた。ほぼ同時に、私の命を狙う刃が木刀にぶつかってきた。

 きんという音が響く。足元に落ちたのは、斬られてしまった木刀の先。

 けれど、その代わりに、刃の軌道は外れ、完全に私の体から逸れていった。


 ――しめた。


 間髪入れずに女豹の腹を蹴りつける。

 どんなに力強くたって、私だって夜人なのだ。私の中に流れる化け猫の血だって、豹に絶対に敵わないなんてことはないはず。勝負の世界に絶対なんてない。死ぬ気で抗えば、こんな拘束だって解けるはず。

 そう信じていたのだけれど。


「無駄だ」


 蹴りは思いっきり当たったけれど、女豹はそれを耐えて見せた。

 焦りが生まれつつ、慌てて斬られて短くなった木刀にすべてを託したものの、女豹は冷静にその右手すら、痛めつけたはずの左手で受け止めてしまった。

 所詮、鼠は鼠ということだろうか。ああ、私だってそうだった。影鬼に思わぬ怪我をさせられたことはあったけれど、だからと言って取り逃がしたことがあったかと言えば答えは違う。


「とんだじゃじゃ馬だね。でも、その元気の分、魂の量も多そうででわくわくするよ」


 女豹がそう言って、木刀を持つ私の右手を力強く握る。

 潰されそうなその力に喉から悲鳴が漏れ出していく。斬られた木刀でさえも落とさせようとしているらしい。短くなったといっても、今の私の身を守れるのはこれだけ。落としてはいけない。落としては――。


 しかし、駄目だった。

 何もかも、女豹は私よりも上なんだと思い知らされるだけだった。

 汗と共に手から滑り落ちる木刀を慌てて拾いなおそうとするも、女豹がそれを許してくれるはずもない。一瞬だけ解放された私の右手は地面へと届くこともなく、今度は首が女豹のその左手に囚われてしまった。


 ――駄目だ、こんなんじゃ……。


 暴れようとしたことすら遅く、女豹は容赦なく私の首を片手で絞める。


 視界が淀んでいく。

 血の気が失せていく。


 気持ち悪さが一気に増大し、吐き気がこみ上げてきた。

 このまま殺されてしまうのだろうか。それとも、気を失わせるつもりなのだろうか。もしも、気を失えばどうなるのか。もう二度と、この世界を感じることもできなくなってしまうのではないか。


 ――いやだ。いやだよう。


 誰か、助けて。


 万策尽きたその時、急に身体が楽になった。

 私の体を支える力もなくなって膝から崩れ落ちながら地面を見つめていることしばらく。呼吸を静かに整えながら、荒ぶる鼓動を手でそっと確かめながら、私は何が起こったのか分からないまま視線を上げた。

 目の前には人が立っている。けれども、それは、女豹なんかではなかった。

 

「はあ、随分と面倒臭い地形だねえ」


 頭を掻きながら脱力気味にそういう彼女。

 麦色の髪を風に揺らすその姿は、昼人や人間によく似ているけれど、その本質はそれらとは比べられないほど凶暴なもの。

 座り込む私をちらりと見つめる浅葱色の目。

 獣の心を感じるその眼は私の無事を確認するとすぐにまた、距離を取っている女豹へと向けなおされた。


「牡丹……さん……?」


 十六夜町に猫と共に隠れ住む女人狼。間違いなくその人だった。

 戸惑い、ぼんやりとする私に、牡丹は呆れも混じっているらしい笑みを浮かべた。

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