4.禊ぎ
――やっぱり腹は減っていたのだ。
安物の木刀の握り心地を確かめながら、私はふと今しがた戦った場所を振り返る。そこにはもう影も形もないけれど、三匹の影鬼の命が犠牲になっている。
一匹目を仕留めた直後は吐きそうになった。
満月の死を思い出したためだ。
喰うということがこんなにおぞましいものだと感じたのは初めてだろう。しかし、その一匹目の魂の味が私の体に染み込んできた途端、その感覚は消えていった。
やっぱり腹は減っていたのだ。
その事実に気づいてからは、もう自分を止められなかった。
二匹目、そして三匹目。
喰い終わる頃には得体のしれない罪悪感も、気持ち悪さも、すべて消えてしまっていた。
美味しかった。
悲しいくらい、美味しかった。
――君はどんな味がするんだろうね。
意識を定めていない、どこかふらふらとした声。
脳裏に染み込んで、どんなに洗おうとしても落ちそうにない。満月の事も、私の事も、夜人がいつも狩り殺している影鬼のようにしか見ていないということが分かる気味の悪い声だった。
これが弱肉強食という世界。
いつか、黒鯱が私に教えてくれた、本来の魂喰い獣の姿なのだというのだろうか。
――違う。奴と私は違う。
私は自分に言い聞かせた。
影鬼は昼人を襲う。だから影鬼狩りは昼人から感謝される。でも、奴が襲っているのはただそこで暮らしているだけの夜人ばかりだ。誰かを困らせているような凶暴なものでもなく、自分に狩れそうな存在だからというだけで殺している。
――奴と私は違う。
木刀を抱きしめ、言い聞かせ続けた。
三匹の影鬼の命で腹が膨れた今、もう狩りは必要ない。
野良犬ならばもう喰えないという所まで影鬼を減らしにいくだろう。そうしなければ昼人の生活を守れないと思っているからだ。
しかし、私は野良猫。野良猫はそこまでしない。自分が満足するまで影鬼を殺し、それ以上は殺さずに逃がしてやる。中には遊びでただ影鬼を殺す野良猫もいるかもしれないが、生憎、私はそういう遊びが好きではない。
木刀を持ちなおすと、仲間の死を見つめていた影鬼たちがざわざわと囁き合いながら距離を取り始めた。
そんな彼らに向かって、私はそっと呟く。
「邪魔したね。もうお腹いっぱいだから行くよ」
言葉が通じているかは分からないけれど。
「御馳走様。今度生まれてくるときは夜人にでもなりなよ」
お節介かもしれない一言を添えて、私はその場を立ち去った。
向かったのは行き慣れた銭湯「鶴亀」だった。
喰って腹を満たした後は、汗を流そう。隼人の奴に言われた一言がぐさりと来ている。何なんだあの男は。今思い出してもむかむかする。ばしゃっと湯で体を流し、石鹸で体を洗って垢を落とす。
――確かに薄汚れていたかもな。
なんでこんなにむかむかしているのかもよく分からなかった。
隼人は野良犬なのだから、臭いに敏感なのは理解しているつもりだ。対する私も野良猫。野良猫だって綺麗好きだし他人の臭いなんて大嫌いだ。
猫は水が嫌いだというが、野良猫はお風呂が大好きなものだ。
そういえば、シャミセンやトラトラともよく一緒に此処に来たものだったなあ。一緒に仕事をすることがあって、同年代だしということで、すごく楽しかったのを覚えている。
シャミセンと私は女湯。トラトラだけは男湯。上がってからは三人で涼みながら焼き鳥とか食べたっけ。
――ああ、あの頃はこんな未来予想もしなかった。
「明ちゃん?」
湯船に浸かってぼんやりしていると、後ろから声をかけられた。
振り返ってみて、はっとした。話しかけられるまで全然気づかなかったのは、たぶん、その人が此処に一人でいるところをあまり見たことがなかったかもしれない。
でも、決して知らない人ではなかった。
女狸さん。ややふっくらとした外見。夜人であるということと、女狐さんや静海さんの友人ってことくらいしか私は知らない。
心配そうな、妙に温かな笑みを浮かべながら、彼女は私をじっと見つめていた。
「やれやれ、無事で何よりだ。静海たちから色々と噂は聞いたよ。難儀なことだったね」
「いえ……私は……」
ちっとも難儀じゃない。満月を失っても、もう働いているという新月に比べたら。そして、トラトラを失って、野良犬や御上に心から協力しているシャミセンに比べたら……。
「私はちっとも難儀じゃなかった……だって、私……私……」
「何だい、明ちゃん。こりゃまた変な具合に考えをこじらせちまって」
「……え?」
疑問を素直に顔に出す私を見て、女狸さんは苦く笑う。
「野良猫って奴は、もっともっと我がままに生きてるのだと思っていたけれどねえ。それとも、あんた、図太くなるにはちっと若過ぎるのかもしれないねえ」
「どういう事? 私が未熟ってことなの?」
「まあ、あんたもまだ未成年ってことさ。未成年らしく、まずは立派な成年になることだけを考えて生き延びなさい。それでいいんだよ、夜人なんて」
「でも私――」
「ほーら、これまでにさんざん言われたんだろう? 子供のくせに背負いこみ過ぎじゃあないのかい? あんたが無事ってだけで十分って人もいるはずだろうに」
うんと背伸びをしながら女狸さんはそう言って、ざぱんと湯を揺らしながら立ち上がった。
「はあこら、長湯しちまった。あたしは上がるとするよ。あんたも逆上せちまう前にあがるんだよ。前みたいにぶっ倒れる前に、お水もちゃんと飲むんだよ」
まるでお母さんのようだ。
女狐さんや静海さんと同じくらいの年のはずだけれど、体型による見た目の印象も手伝ってか妙に貫禄があるように見えてしまう。
のしのしと去っていくその真っ裸の後ろ姿を見送りながら、私はぶくぶくと湯に身を潜めていく。
女狸さんからの言葉は、あまり素直に馴染んでは来なかった。心配してくれているのは嬉しいけれど、どうしても、生温かな今の言葉に甘えてはいけないような気がしてしまうのだ。
――でも、温かいなあ。
今浸かっている湯船と一緒だった。
温かくて、涙が出てきそうだった。
満月。君を助けられなかったけれど、私は生きててもいいらしいよ。君はどう思っているのだろう。もしもあの世で暇をしていたら、私の夢の中にでも現れて、教えて欲しかったりもするんだ。私はどうしたらいい。どう過ごせばいいのか、助言して欲しいんだ。
新月。君に会いに行くのは正直なところ、ちょっとだけ怖かったりもするのだけれど、会いに行っても構わないのだろうか。双子ってのは半身のようなものだと満月は言っていたよ。君もそう思っていたんだろうに。会いに行ってもいいのだろうか。君に会うのは怖いけれど、君と一言二言話さないと、私はますます潰れてしまいそうなんだ。
そして、小夜。君はどうしているのだろう。御主人様の元で大人しくしているのだろうか。歌鳥は歌鳥らしく鳥かごに入れられてしまっているかもしれないね。その籠はちゃんと頑丈な鉄でできているのかな。私みたいな野良猫なんかがちょっかい出せないようになっているのかな。
ああ、立派な成年か。
女狸さんの言う通りかもしれない。
あれからずっと劣等感と恐怖に怯えながらも、それとは対照的な仇討への期待と焦燥感に駆られそうになるけれど、女豹と私じゃ悲しいくらいに実力差がある。
怒りだけでは勝てないものだっているのだ。勇気だけでは敵わないものだってあるのだ。
冷静にならないと、今のままではただ自殺しに行くだけになってしまうじゃないか。
それじゃあ、いけない。生き延びたいのなら生き延びる方法として、仇討したいのなら仇討する方法として、私はもっともっと強くあらないといけない。
そこまでは分かっているのだ。
それにはどうしたらいいか。
どうしたら、今より少しでも強くなれるのか。
――でも、君は少し自分の事をまだ分かっていないように見えるね。
はっと息を飲んだ。
無意識に沈みかけていた身体が自然と上がる。湯船をあがると私はそのままの足で脱衣所へと直行した。
思い出したのは今となっては随分前に思える記憶。あの頃はまだ平和だった。平和だったけれど、その影はもうすでに忍び寄っていたのだろう。
黒鯱。彼は確かに初めて会った時にあんなことを言った。どうしてあんなことを言ったのだろう。
私の何が分かって、何を想ってあんなことを言ったのだろう。
大人達が皆、彼を恐れているのは何故だろう。人狼の牡丹さんまで警戒しているか、或いは、対等に見ているらしいのはどうしてだろう。
そして、あの風来坊の得体の知れない自信は何処から来ているのだろう。
そうだ。私はまだ黒鯱にちゃんと聞いていない。
正体は何で、どんな力を持っているのか。
そして、女豹の事をどのくらい知っているのか。
幾らはぐらかされたとしても、絶対に、絶対に、聞きだしてやる。
そんな強い意気込みを胸に抱え直しながら、私はちゃっと服を着た。




