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3.隼人

 とぼとぼと十六夜通りにやってきたものの、私はその入り口付近で立ち尽くしてしまった。


 名も知らぬ猫を通じて誰かさんが私に教えてくれたわけだが、それにしても思っていた以上に十六夜通りは異様に人が多かった。

 混沌という言葉がよく似合う。耳を澄ませば罵詈雑言の一つや二つが飛び交っているのが聞こえてくるし、人の波があちらこちらと動きまわっている様子は、十五夜通りにただよう提灯お化けよりもアヤカシみたいで気色悪い。とにかく、夜人の数も昼人の数も異様なほど多かった。


 どちらを見ても影鬼の気配がないのは、すでに狩り尽されているためか、夜人の多さに脅威を感じて影鬼達が自主的に避難してしまったためかもしれない。

 こうなると十五夜の店を離れられない萬屋の親父みたいな昼人連中が心配になるが、あちらは多分、この騒動に首を突っ込まないと心に決めている野良猫の先輩なんかがどうにかしてくれるだろう。


 それにしても野良犬が多い。

 罵詈雑言の正体は野良犬の下っ端が広場に居座る昼人や、他の夜人に難癖付けている声だったり、逆に難癖付けられている声のようだ。

 こうも騒いでいれば、女豹なんて現れなさそうだ。そう信じて昼人や弱っちい夜人なんかは此処に居るのだろうけれど。


「――明」


 急に声を掛けられ、私は驚いた。

 いつの間にか背後に誰かがいた。振り返りざまに転びそうになるところを、その誰かに支えられる。腕を掴むなり、眉をひそめるその人物。野良犬の下っ端、隼人だった。


「たった二日でやつれおったねえ。ちゃんと喰わんと死んじまうぞ」


 支えられるままに立ち上がり、小さく礼を告げる。

 しかし、素直に聞く気にはなれなかった。いくら説教されても、受け付けないものは受け付けないのだ。影鬼の魂を喰うと考えるだけで、満月の魂を食らった女豹の姿が頭を過ぎって吐き気が生まれる。

 おぞましいことだ。

 影鬼と満月は全く同じじゃないのに、心はそう簡単に納得してくれないのだから。


「でも出てこれたんならよかった。あのまま巣穴に引っ込んでちゃそれこそ病気になるからな」

「――もしかしてさ、猫に言伝頼んだのは隼人なの?」


 まさかとは思ったが、間違いなくこくりと隼人は肯き、苦笑してみせた。


「話も通じねえデブ猫に晩飯の残りやって独り言し続ける俺を想像出来るけえ? 結構精神的に来よったよ。でもまあ、その様子だとあいつもちゃんと仕事してくれたってことか」


 一人納得し、隼人は広場の中心方面を見つめる。無論、通りの入り口からだと見えない。普段なら中央に人が集まる程度だからよく見えるのに、今日は一体中央広場までどのくらいの距離があるかすらも分かりづらい。

 こんな中に飛び込んでいく気には到底なれそうにない。


「シャミセンっつったかね。見えないだろうが、あの向こうにお前の仲間がおる。俺の兄貴分らがお頭の命令で動いてるってわけよ。下っ端の俺ぁ蚊帳の外だ」

「あの子を餌にしてるんでしょう? 女豹を釣って戦うつもりなのかな」

「兄貴達はそのつもりだが、お頭はまず動きを見ろっつってたね。なんせ、静海姐さんがやられてるんだ。兄貴達は強えーけど、お頭が慎重になるのも仕方なかよ」


 隼人が鼻をこすりながら言う。

 仕方ない事なんだ。慎重になりすぎてシャミセンが誘拐されてもいいのだろうか。

 でも、隼人だって野良犬。野良猫の私を気遣うのが珍しいだけであって、普通、野良犬以外の夜人なんて心配一つしないだろう。

 でも、なんだか切なかった。

 私にとっては友達のシャミセンが、隼人にとってはまるで道具のように映っているような気がして。


「シャミセンはどうしているのかな? 月夜屋で連れてかれて以来、会ってなくて……」


 確かめる意味も込めてそう訊ねてみれば、隼人はやっと私の表情に気付きだした。


「暗い顔すんなって。心配せんでもちゃーんと飯食ってるしよ」

「シャミセンも狩りに行かせてもらえてるの?」

「んにゃ、そりゃ違うね。兄貴らが狩りに向かって弱らせた影鬼を持ち帰って喰わせとるんよ。あのねーちゃんは重要な参考人だからねって御上に言われてるからなあ」


 そう言って、こそっと声をひそめた。


「明も同じだぜ。静海姐さんが怪我しなかったら、お前にも迎えがいくはずだった。そうなりゃ、殆ど断れないまま飼い猫二号の出来上がりだ」

「そりゃ、おっかないね」


 でも、それでもしも野良犬達が動きやすくなって、御上の役にも立てて、結果的に女豹を捕える光が見えてくるのだったら、従ってもいいのではないだろうか。

 野良猫のくせにそう思わなくもなかったのは、多分、私が生きることに憔悴しているからだろう。何をする気も起きないのなら、別に利用されたっていい。そんな投げやりな気持ちがじわじわと私の表情を暗いものにしていっているのが自分でもわかる。


 そんな私の様子を見てか、隼人が深く溜め息を吐いた。


「実はね、俺、明に対して説得を頼まれてるんだ」


 くそ真面目に白状するその顔を見上げる。

 いつの間に、私より背が高くなったのだろう。ちょっと見ない間に見下ろすようになりやがってと心の中だけで虚しく茶々を入れてみた。あまり元気にはならなかった。


「あの姉ちゃん――シャミセンは受け入れてるんよ。最初は流されるままに従っていただけらしいんだけどな、段々と恋人を殺した女豹に対する憎しみが沸いてきたらしくてさ」


 その目が再び見つめる先にある広場はやはり見えそうにない。


「今じゃ、進んで生餌役をやってる。万が一、喰い殺されたとしても悔いはないって言ってるらしい。野良猫にしちゃ立派だと兄貴達は褒めるんだけどよ……」


 どうも引っかかるという様子で隼人は頭を掻き始める。

 乗り気ではないらしい。それでも、私に声をかけるのは、兄貴分達の命令に逆らえないからだろう。分かっている。隼人は犬の血を引いているのだから、仕方ないのだ。

 それに、何が正しいのかなんて今のところ私にも分からない。


 言い淀んで口を結ぶ彼に対して、私は変わりに口を開いた。


「餌は多い方がいいってことだろうね」


 野良犬の大人、そして御上の透けた考えを言葉にしてみてから、茶化す。


「でも、あんなに賑やかだと女豹もほいほい来ないんじゃない?」


 からかい気味だけれど本心だ。

 執念深かったのは確かだし、今だって機会さえあればシャミセンを掻っ攫うだろう。でも、あんなに人がいて、野良犬達がぎらぎら目を光らせている状況に飛び込んでいくような事があるだろうか。

 それも、駄犬なんかじゃない。御上が協力を仰ぐほどの実力の持ち主たちだ。


 女豹だって馬鹿ではないだろうし、無謀でもないだろう。執念深いが、無理はしない。捕まえた獲物は誰にも邪魔されない場所で食す。

 そんな野獣相手にあんな挑発が通用するとは思えない。


「だから、お頭は動きを見ろってさ。ほいほい釣られてくれば全力で戦うし、そうじゃないようならこの町の何処かで絶対に異変がある。その動きを見て、どのように行動しがちなのか分析しろって言ってた」

「時間がかかりそーだね」

「といってもな、既にだいたいの動きは掴めているんだ。奴だって生き物だからよ、どっかで寝泊まりせんといかんし、ずっと動きまわるっちゅうのも無理な話よ」


 確かに、奴が此処にずっといる以上、何処かで必ず寝泊りしているのだ。

 いきなり現れていきなり消えるなんてことはないだろう。元々は私たちと同じ魂喰い獣なのだから。じゃあ、何処かにいるんだ。何処かで寝泊まりしている無防備な時間があるはずなんだ。


「お頭は多分、女豹の動きを把握してから改めて攻め込むつもりだと思う。まずはねぐらとなっていそうなとこを探すのさ。その為にならなぁ、人狼の女やあの余所者の男にも協力を仰ぐ可能性もあると言っちょったよ」

「あの二人に……?」


 意外だった。だが、可能性のまま終わりそうだとも思った。

 黒鯱は分からないけれど、はたして牡丹が協力をしてくれるかどうか。そもそも、長く野良犬達は牡丹を疑ってかかっていたし、そのせいで面白くない思いもしてきただろう。あの牡丹がそれを快く許して自前の面倒臭がりな性分を抑えてまで協力してくれるだろうか。

 いや、そんな姿は想像も出来なかった。

 疑いの心が顔に浮かんでいたのだろう、隼人もまた苦く笑って見せた。


「そりゃ、俺だって無理だって思うさ。まあ、そのくらいの気持ちでやるっちゅうことでしょ」

「……なるほど。本気で女豹対策を練っているってことなんだね」


 これ以上被害が広がらないために野良犬界でも優秀な群れのお頭が本気で動きだした。

 実害を身内が被ったことへの怒りが原動だとしても、十六夜町に住まう力弱い者たちにとっては待ちに待った事だろう……が、私の気持ちは晴れそうにない。

 覚めた目で十六夜の様子を見つめる私に、隼人はそっと打ち明けてきた。


「まあ、伝えろと言われたから伝えたけれどよ。俺個人の感想としては、まずお前に必要なのは選択じゃなくて飯だと思うけどな。何なら、狩りの助太刀でもしてやろうか?」


 本気で心配しているらしい。その眼差しを見て、くすぐったさを感じた。


「悪いが、いらんよ」


 即答でぶった斬る。


「心配すんなよ。私だってお子様じゃないんだし。猫は猫らしく狩りするよ。そうだね、世間話してるうちに腹も減ってきたような気がする」


 嘘ではない。

 こうして前みたいに隼人と触れていたからだろうか。引きこもっていた時のように食事を想像して吐き気が込み上げてくるようなことはなくなった気がする。

 いま狩りにでも行けば、ちゃんと食べられるかもしれない。


「ってことでさ、シャミセンは御強い兄さん方が守ってくれてるようだし、私は見つからない内にお暇するよ。たらふく喰って太って驚かしてやるさ」


 笑いかけてみれば、隼人もほっとしたように笑った。

 良い奴だが、やっぱり隼人は私とは違う。お節介さは犬だからだろうか。よく分からないけれど、あまり悪い気はしないと感じた。


 ――今まで思っていたより、良い顔してんなこいつ。


 同時に、前にはなかった何らかの感情が胸にぽっと灯ったような、そんな気がした。これはなんだろう。一瞬、疑問に感じて、ふと顔を背ける。

 何故だか分からないけれど、急に恥ずかしいような、怖いような、そんな気持ちが生まれた。


「じゃ、ね、隼人」

「あ、ちょい待ち、明」


 逃げ出すようにその場を離れようとする私を、隼人が呼びとめる。

 何だろう。変な期待と緊張と不安が入り混じりながら見つめる私を、隼人は大真面目に見つめている。心臓が高鳴る中で、彼は眉をひそめて言った。


「お前、ちょっと臭うぞ。風呂くらい入れよな」

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