2.友人
読み書きを教えてくれた母には感謝する。
懐に忍ばせてた紙切れを一枚使って簡単に書き置きをして机の上に重石としてほんの気持ちばかりの銭と共に置くと、私はそのまま月夜屋を後にした。
蛙の親父も新月もいなかった。最後の別れといっていた通り、いるのは霊園なのだろう。
小夜も一緒なのかな。
いつか墓の場所を教えてもらったら、私もこっそりお参りしにいこう。
でも、それは今じゃない。
私は恐かった。
蛙の親父に、新月に会うのが恐かった。
満月を助けられなかった不甲斐ない私がどんな顔をして二人に会えばいいのか、誰かに教えてほしかった。
だから、逃げ出すように、私は家に帰ったのだ。
それから丸二日ほど。
狩りにも出ず、買い物にも銭湯にも行かず、私は家に引きこもり続けていた。
私を包み込むのは誰かの家でお役御免となった布団と、萬屋の親父から買い取った小瓶の香りだけ。
そこへ、引きこもる私を不審に思ったらしき本物の猫たちが訪ねてくるばかりだった。
『なんでえ、湿気た顔しやがって』
目の前にいる全身黒の雄猫もそんな冷やかし勢の一匹だった。
普段私と世間話をするような猫ではない。初めて接する見知らぬ猫だった。
『いつまでそうしている。あの双子の片割れはもう仕事を再開しているらしいぞ? 野良猫のくせに、いつまで正義感こじらせてうじうじとするつもりだ?』
「煩いな。猫のくせに。私の事なんて放っておけばいいじゃない」
『けっ、俺だって何が楽しくて見ず知らずの野良猫なんかの見舞いに来ていると思っているんだ。だが、そういうわけにも行かねえんだよ。飯と引き換えに頼まれちまったからねぇ』
「随分、律儀な猫だねえ」
軽い皮肉も聞き流し、雄猫は宝石のような目でぎろりと私の姿を見つめ、ため息交じりに言った。
『静海……といったかねえ、あの野良犬の女』
「静海さんがどうしたの?」
『やられちまったそうだよ。おそらく女豹だろう』
「えっ……」
頭の中が真っ白になった。
静海さんといえば、野良犬の女性の中でも上位の存在。夫であり、群れの頭でもある人物の代わりに動き回ることも多く、任されるだけの実力がある人のはずだ。
なのに、そんな彼女が?
『まあ、命に別状はないようだが、このことであの群れのお頭はかんかんだ。本格的に女豹狩りを行うと決めたそうだ。そのことでな、俺に飯をくれた奴は懸念しているらしい』
「懸念?」
『これまで以上に女豹が姿をくらますかもしれないってことさ。表では野良犬連中が堂々と巡回中だ。おかげで昼人連中は、物騒ながらもまあ安全という生活が約束されて不満はないそうだ。だが、お前さんのように人気のない場所で引きこもっている連中は訳が違うぞ』
雄猫の話に息を呑む。
何処か得意げにも見えるふてぶてしい顔が私をからかうように見つめている。
『此処にいちゃあ、女豹に見つかるのも時間の問題ってわけだ。生き延びたけりゃ、影鬼でも狩りとって逃げ足を貯めておけ。それが俺に飯をくれた奴からの助言だ』
そう言ってくるりと背を向ける。
『邪魔したな。こっちにゃもう来ることはないと思うが、どっかで見かけたら美味い施しを寄越してくれてもいいんだぜ』
にやりと笑いながら走り去っていく。
その背を見送りながら、私は一人考え込んだ。
彼に餌を与えた人物からの助言。
間違いなく、私が引きこもっていることを知っていて、私のためを思って伝えてくれたのだろう。誰だか知らないし、有難い話だけれど、私はやはりすぐには立ち上がれなかった。
静海さんがやられた。
その事実が恐かった。どうして、なんで。静海さんほどの実力のある人がやられるのだったら、夜人の年端もいかぬ女の私では、もっともっと見込みがないということにならないだろうか。
ああ、満月を救えると思ったのが間違いだったのだろうか。あの場で生き延びられたのは、今ここで震えていられるのはやっぱり、あの時、満月の命を吸い取って腹を満たした女豹のさじ加減に過ぎなかった。
それを裏付けられて、どうしてすぐに立ち上がることが出来るだろうか。
怖い。
そして、どうしようもないほど悔しかった。
せっかくの助言だけれど、食欲がない。
このまま飢えてしまうのだろうか。その方がましだ。あんな風に食い殺されるくらいなら、飢えて少しずつ死んでいった方がましだ。
――双子の片割れはもう仕事を再開しているらしいぞ?
新月。君は逞しい奴だ。
神兎なんて、人間や昼人よりもちっとばっかし強いくらいだとしか思っていなかったけれど、その精神力は私に比べたらまさに神と獣くらいの差があるのだろうか。
ならばせめて私は仇討ちしたい。
もっと強ければ、今頃、満月の無念を晴らしてやっているだろう。
でも、どうしても怖かった。
相手は静海さんにさえ勝ってしまったのだ。お頭がどのくらい強いかなんて分からないし、彼を本気にさせたことで女豹がどうなるかも分からない。
けれど、これだけは、はっきりとしている。
私は敵わない。私の実力では、到底敵わない。私は役立たずだ。
仇打ちどころか自殺しにいくだけになるだろう。無駄に栄養を与えて、他の夜人たちを更に恐怖させるだけだろう。
――御免、満月。
間に合ったはずだったのに。
あの場で彼女を助けられるのは、私だけだった。その私が弱かったせいで、助けてやれなかった。
シャミセン。あんたも同じような苦しみを抱えているのかな。
時計台に連れていかれたきり、戻ってきているのかも分からない。恐らく、本気になったお頭率いる野良犬連中によって、ぎりぎりまで利用されることになるだろう。
女豹はどうするつもりだろうか。
一度狙った獲物が罠となっていることぐらい、とっくに見抜いているだろう。問題は、その上でどうするのか。無視するのか、あえてその罠に立ち向かうのか。
何となく、後者に思えた。
普通の野良猫なら、つまらない意地で自分の命を危険にさらすことなんてしない。でも、悪賢さがあれば、その罠にかからずに餌を奪ってしまうことだってあるだろう。
きっと彼女はもうこの町の夜人たちが自分より格下だと判断しているだろう。
となると、今まで以上に好き勝手をやらかすかもしれない。
「シャミセン……あんたは大丈夫かな?」
塞ぎこむシャミセンの姿が頭をよぎる。
そして、野良犬連中に連れていかれたあの背中も。
奴ら、きっとシャミセンのことをきちんと守ったりはしないだろう。女豹に奪われて喰われたとしても、悲しんだりしないかもしれない。
この世界はそういうものなのだ。
私ら夜人の命なんて異様なくらい軽いのだから。
もう、顔馴染みが死ぬのは御免だ。
その思いがやっと力を与えてくれた。
木刀を片手にようやく立ち上がってみれば、途端にふらつきを感じた。それもそのはず。ここ二日ちょい、厠等以外でろくに歩いていないのだから。
体は鈍っているだろう。
それでも、私は安物の木刀と共に歩き出した。
頭に浮かぶのは、十六夜通りの景色。
野良犬連中がよく群れ同士の抗争をおこす時計台の広場の近くだ。同時に、ミサゴ様たちお役人が十六夜町を治めるために頭を悩ませているその場所。
もしかしたら、シャミセンがそこで生き餌をやらされてるかもしれない。
だとしたらどうするのか。
静海さんよりもずっと弱い私が力になれるようなことがあるのか。
本当は今すぐに行くべき場所は、十六夜通りではなく、狩場なのではないか。
女豹にまた出会ってしまったら、どうするつもりなのか。
それでも、あの名も知らぬ雄猫が言っていたようにここでいつまでも引きこもっているよりははるかにましだろう。
私はただシャミセンがいるかもしれないという可能性だけを胸に抱いて、歩き続けた。
行かなきゃ。頭のなかにあるのはその言葉ばかりだった。




