1.女豹
覚えている限りのことは話した。
断片的であっても、まとまりがなかったとしても、静海さんが気になるかどうか分からなくとも、とにかく思い出せる限りのことを私は言葉にして外に出した。
静海さんを始めとした野良犬達に協力する事が満月の仇をとることに繋がるのだとしたら、躊躇いなんて生まれなかった。
静海さんは静かに私の話を聞いていた。話す事一つ一つを漏らさずに覚えるつもりらしい。どんなに些細なことであっても、静海さんは捨てたりしなかった。
そうして、もはや私の口から少しも情報が漏れださなくなった頃合いになって、ようやく静海さんは口を開いたのだった。
「小夜ちゃんが覚えていた事とほぼ同じね」
その言葉に少しだけほっとした。
あらぬ疑いはかけられたくないものだ。たとえば、満月を殺したのが本当に女豹なのかということだ。ただでさえ友を助けられなかったことが苦しいと言うのに、これ以上の責め苦はいらない。
少しでも私が疑われているわけではないと思える事は、悲しいほどにほっとすることだった。
そんな私の様子を察してか、静海さんはそっと諭すように言ってくれた。
「安心しなさいな。あなたや小夜ちゃんを疑う者なんていないわ。私たちは目撃しているの。赤毛の夜人を――余所者だから正確には夜人じゃないわね、ともかく、女豹だとあなたが言っていたその女を目撃して、実際に戦ったのよ」
「女狐さんが飛び込んできたので知っています。その時はまだ私も月夜屋にいたので……」
「――そう。じゃあ、知っているわね。あなたが敵わなかったのは仕方のないことよ。むしろ、殺されなかったのが幸運だったくらい。満月ちゃんは……不運だったけれど、明ちゃんが自分を責めるようなことではないのよ」
そう、なのだろうか。
こうなってしまった今になっても、後悔は絶えることが無い。
本当に方法はなかったのだろうか。もっと早く大声で叫んで人を呼ぶとかしていたら、満月が喰い殺されることだってなかったのではないだろうか。
そんなことを思えば思うほど、きりがない。ただ延々と自分を責めてしまうのだ。
この重みは数日で消えるものではないだろう。
ひょっとしたら、何年経っても抱え続けてしまうかもしれない。
楽になる方法は何か。それは、満月の弔いにあの憎き女豹に復讐する事だけだ。
「奴は今、何処に居るんでしょうか」
真剣だろうがなんだろうが今度は負けない。
怯えてしまったのはあれでおしまいだ。
奴が魂食い獣ならば、私だって同じ。豹と猫では釣り合わないかもしれないけれど、そんなもの、本物のケモノだけの話だと信じている。
真正面から戦えば、私にだって勝機はあるはず。
だが、静海さんの表情は厳しいものだった。
「さあね。分かっていたとしても、あなたには教えられないわ、明ちゃん」
「どうして!」
「仇討しにいくんでしょう? それに、あなたは未成年だもの。危険な目に遭わせるようなことは、ミサゴ様に禁じられているの。私だけじゃない。野良犬の連中なら誰だって同じよ。仇討なんてさせられないわ」
「そんな、でも――でも、私だって夜人なんです! 《魂食い獣》の血を引いた野良猫なんですよ!」
「甘いことを言うんじゃないよ」
声を低めて静海さんは私をにらむ。
「死にたくないのなら、息を潜めていなさい。それが野良猫でしょう? 野良猫なら野良猫らしく、馬鹿馬鹿しい正義なんて捨てなさい」
――そんな。
しかし、それ以上反論することは出来なかった。
静海さんの目を見ていれば分かる。この人の心を動かせるようなセリフなんて私には吐けないだろう。私が何を言ったところで、世間知らずの未成年の少女の言葉としてしか受け止めないと思い知らされるほどの表情。それに、静海さんは野良犬なのだ。ミサゴ様以下の者たちの方針を破るなんてことは、滅多な事ではしないだろう。
俯きつつ、私は素直に謝った。
「……分かりました。ごめんなさい」
部屋の隅に寝かされている安物の木刀に目を向けながら、己の弱さを呪うことしか出来ないなんて。
けれど、そういうものなのだ。この世の中はそういうもの。
気力だけでは力関係なんて変えられない。持てる力を出し尽くしてやっと、覆ることもあるかもしれないという程度。
女豹と私の間には、それだけの差があるのだ。
だから、満月を助けてやれなかった。
「必要以上に落ち込んでは駄目よ、明ちゃん」
静海さんは声の調子を少し和らげて言った。
「満月ちゃんのことは、あなたのせいではないの。全ては女豹のせい。でも、これは、女豹という人物を此処に寄越した神様の所為だとでも思うしかないのよ」
――神様の所為。
この神様というのもは、実際に大地に巣食う神々と呼ばれる存在などではなく、神様と呼ぶしかない大きすぎる運命のことだろう。
私らのようなちっぽけなものには到底抗えないような運命。
「――はい」
慰めてくれる静海さんにどうにか答えて、私は俯いた。
もう話せることは何もない。
そう察したらしい静海さんは立ち上がり、特に何も言わずにそのままそっと退室していった。
後に残されるのは私と安物の木刀だけ。
その沈黙が少しだけ有難かったのだけれど、すぐに沈黙も掃われてしまった。
「明」
こちらに軽く声をかけてから現れたのは、黒鯱だった。静海さんに追い払われてからは、ずっと廊下で待っていたのだろう。
「明、本当に大丈夫かい?」
「……うん、私は」
「牡丹たちも心配していたよ。君がどうしているのか、不安そうだった」
「牡丹さんたちが?」
「うん、事件のあったあの辺りで百枝がちょうどドブネズミを追っていたらしくてね。たまたま一部始終を目撃して、そのまま走って牡丹のところに帰ってきたらしい。僕たちには彼女の言葉は断片的にしか分からないのだけれど、それでも、君が危ないっていうのだけは伝わってきたんだ」
「そっか、それで――」
それで、心配してくれたのか。
直に伝わる暖かみに涙がこぼれそうになる。満月を救えなかったこと、捕食者のような人物の殺気を間近で感じたこと、それらから解放された実感が、疲労感となって押し寄せてくる。
疲れた。でも、その疲れを感じられることが有難い。
堪えきれず溢した涙で濡れた自分の拳を見つめていると、黒鯱がタイミングを見計らったように切り出してきた。
「明、君はしばらく家に帰らない方がいいかもしれないよ」
「えっ?」
思わぬ忠告に顔をあげてみれば、今までになく真剣な顔をした黒鯱の目がじっと私を見つめていた。
そこには風来坊のような不真面目さは一切感じられない。そして、強すぎる根拠に基づいた自信のようなものさえ感じられた。
なんだろう。
初めて会った時には一切感じなかった気配が黒鯱から伝わってくる。これが、あらゆる夜人の大人たちを警戒させるものなのだろうか。
幸いにもその異様な気配は、私に敵意を持ってなんかいないようだ。その事だけが私に安心感をもたらしている。
「女豹は狩りやすい相手を見逃さない」
黒鯱が言った。
「一人で暮らす者、弱っている者、爪も牙も持たない者、狩るに適していると判断したら、諦めない。何故なら、諦めることが奴の死を意味するからだ。もはや奴は夜人のように大きな魂を持つものを食わねば生きていけない。死にたくないという思いは、きっと顔を覚えられた君にも危険を及ぼすだろう」
冗談も交えずに言うその忠告が恐かった。
この恐怖はなんだろう。頑丈な壁に囲まれていても、布団で体を覆っていても、落ち着く兆しすら見せてくれない。
心から安心することなんて一生出来ないのではという謎の悲観に囚われ、呼吸すら楽に出来ないほど。
これが狩られる者の恐怖なのだろうか。
私たちに狩られる影鬼たちが、そして、影鬼たちに狩られる昼人たちが、常日頃から感じている恐怖なのだろうか。
「明。脅かしてすまない。でも、これは蛙の大将も心配していることだ。それに、小夜のご主人様もね」
「小夜の……」
思わず問い返すと、やや穏やかな黒鯱の眼差しに触れた。恐怖にすくむ私の心には心地いいものだった。
「君が駆けつけなかったら、きっとあの子も喰われていたか、さらわれていただろうからね。神兎の子は残念だったけれど、小夜を守ってくれて本当に感謝すると言っていたそうだよ」
小夜を守れたのが私?
いいや、違う。私は守れてなんかいない。だって、女豹は自分から立ち去ったのだ。ゆっくりと満月の味を楽しんで、腹を満たして悠々と帰っていっただけなのだ。
だから、私のお陰なんかじゃない。
私は感謝されるべきことは何もしてないんだ。
ふらりと立ち上がると、黒鯱が怪訝そうにこちらを窺ってきた。だが、構うものか。無言のまま立て掛けてあった木刀となけなしの荷物を手にとって歩き出すと、ようやく黒鯱も立ち上がった。
「待って、明。言ったでしょう? しばらくは此処で世話になった方がいいって」
「いんや……」
ふと脳裏に満月の顔が浮かんだ。
新月はどうしているかな。いつだって二人一緒だった双子。もう寄り添うことも出来ないなんて。
「私は此処にいちゃいけないよ。自分の尻は自分で拭きたいんだ。それに、此所は落ち着かないんだ。ちゃんとした壁に囲まれた生活なんて、私の性に合わないよ」
「でも、明……」
まだ何か言いかける黒鯱を振り返って見つめれば、そのまま黙り混んでしまった。
いつか私がした忠告。忘れてやいないだろう。長生きしたければ、余計に首を突っ込んだりしない方がいいんだ。
だが、それにしても、この黒鯱という謎の風来坊はとにかくお人好しという弱点をかかえているようだ。
そんな顔をしていた。
「心配してくれて有り難うよ、黒鯱」
ただ一言だけ礼を告げ、私はそのまま部屋を出た。




