10.保護
真っ暗だ。真っ暗闇の中に置き去りにされているかのよう。
独り立ちしたばかりの頃、寂しげな提灯お化けの明かりの下で、怯えながら木刀を抱えて夜道を歩いた時のように心細い。
父も母も私を守ってくれない。だから、自分の身は自分で守らなければ。まずは自分の身を守るのだ。その力がなければ、守りたいものは何一つ守れない。そして強くなるのだ。強くさえなれば、私はやっと思い通りに守りたいものを守れるようになる。
じゃあ、今の私は強くなったのか。
あの頃よりは強いだろう。父の遺した予備の木刀を抱え、遠く離れた家族を心の何処かで懐かしみながら恐怖を必死に誤魔化そうとしたあの頃よりはずっと強いだろう。
でも、果たしてどのくらい強いのか。
飢えることは、もうない。どんな影鬼相手でも負けない自信はある。野良猫同士の争いだって、同い年くらいならばたとえ男子であっても、勝ち負けはともかく全力で立ち向かう精神力は身についた。けれどそれは、相手が正常な夜人である時だけの話だ。
異常な者が相手の時――それも、大人の中でも厄介な強さを持った者が相手の時、果たして私は何処まで戦えるのか。
冷静にそれを判断する余裕なんて、私にはなかった。
慣れ親しんだ満月の――哀れな少女の悲鳴を聞かされて、そんなに冷静でいられるはずもなかった。笑顔が当たり前だった美少女が苦しむさまを目の当たりにして、余裕でいられるわけもなかった。
「この……」
動こうとすれば、眩暈がする。腹の痛みはもはや殆ど分からない。ぼたぼたと落ちているのはきっと私の血なのだろう。
それでも、わが身を労わることなんて出来なかった。
食事に没頭する女豹の足に爪を立て、全身全霊を込めて私は叫んだ。
「ケダモノ!」
その瞬間、力が沸き起こった。木刀を掴んで立ち上がった時から、その切れ味のない矛先を汚らわしい殺人鬼にぶち込むまでにかかった時間は殆どなかっただろう。それでも、私には異常なほど遅いものに思えた。もっと早く。もっと強く。その思いが自分を焦らせる。
この女から満月を取り返さなくては。彼女を救わなければ。
そんな信念を込めた一撃で、私は女豹の体を狙った。何処でもいい。当たればいい。今出せる力のすべてを使い果たしてでも、この女豹に一矢報いなければ気が済まない。
しかし――弱肉強食というこの世界は、あまりにも非情なものだった。
聞こえたのは女豹の声。私をどこまでも嘲るような声。ちらりと私を振り返るそれは、まさに強者が弱者を小馬鹿にしている眼差しだった。
「食事の邪魔をしないでくれるかな」
冷たく吐き捨てるように言うと、目にもとまらぬ速さで殴りかかってきた。その動きは殆ど見えなかった。渾身の突撃は拳一つで払いのけられてしまったのだ。
地面に情けなく倒れる私の遥か頭上で、女豹の冷たげな視線は何の惜しみもなく背けられる。直後、まだ生きている満月が暴れるような物音と、それを抑え込む強い殺意を感じた。
非常に長い時間だった。長い時間に思えたのだろうか。いや、実際に、長い時間をかけて満月は命を落としたのだろう。悲鳴一つ漏れださないのは、口を塞がれている為だ。薄れゆく視界の中で、恐怖に引きつった満月の顔と、それを冷たい眼差しで見つめる女豹の横顔が見えたから分かった。
波打つような恐怖と絶望。そんな光景を見ている内に、段々と暗闇は広がっていった。
――このまま気を失ったら、自分はどうなってしまうのだろう。
長い間、暗闇の中をただ見つめながら自分の流した血の感触をひたすら味わっていると、やがて私の頭を押さえる感触と、耳元で囁くような声を感じた。
「友達の味は美味しかったよ」
――君はどんな味がするんだろうね。
その声が聞こえて暫く。何も覚えていない。完全なる沈黙は訪れたのだ。
再び目が覚めたのはどのくらい後なのだろうか。
瞼を開いてしばらく。私は何もかも把握出来ないまま茫然と畳を見つめていた。
寝かされているのはふわふわとした布団の上。いい香りが漂い、びっくりするくらい清潔な室内が私を取り囲んでいた。起きあがろうとしたが、腹部が痛んで叶わない。
――此処は。
月夜屋だ。
宿の客室として存在する一間。ちょっとした理由であがったことがあるから知っていた。そうでなければ此処が何処なんて知らないままだっただろう。
で、そんな月夜屋にどうしているのか。
記憶を辿ろうとしていた矢先、私の頭をそっと撫でる者があった。
「目が覚めたんだね、明ちゃん」
柔らかな感触。力のない声。
視線を動かせば、そこにいたのは静海さんだった。
「静海さん? どうして……なにが……」
やや疲れたような眼差しと暗い表情に、段々と記憶が甦る。
そして辿り着いたのは、残忍な女と悲運の少女の姿だった。
「満月……満月は――?」
起きあがろうとする私をそっと制し、静海さんは表情をあまり変えずに答えた。
「大将と小夜ちゃん、そして新月ちゃんが、最期の別れを告げているところよ」
「最期の――」
絶句してしまった。
やっぱり、駄目だった。私は助けられなかった。目の前で喰われていく満月を、救うことが出来なかっただなんて。
涙が溢れだし、零れていく。
助けられなかった私に泣く資格なんてあるのだろうか。なかったとしても、一度零れ落ちたものはどうしても止められない。ぼろぼろと泣き続ける私を、静海さんは落ち着いた様子で見守っていた。
「私たちも間に合わなかったの。野良犬のくせに不甲斐無いものね。私たちの嗅覚が役に立たないなんて。それにね、運も悪かったのよ。あの近くには人狼がいたから。そちらに気を取られてしまう野良犬も大勢いたの」
「犯人は……犯人は女豹です。……人狼じゃありません」
「ええ、小夜ちゃんが言っていたわ。目元に豹紋のある夜人。海を渡った異世界の血を引いているだろうと思われる変わった容姿の人物だって」
そう言って、そっと私の頭を撫でる。その感触が妙に温かくて、私の涙はますます止まらなかった。あの満月が、もう何処にもいないなんて信じられなかった。それも、私の目の前で。
私が無力だったから死んでしまったんだ。
本当は泣く資格もないのに。
その繰り返しだった。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいますか?」
ふとそんな時、襖の向こうから声が聞こえた。
黒鯱の声だ。この場にそぐわない気の抜けた声だった。けれど、何故だか私はほっとした。馴染みのある声が聞こえるというだけで、こんなにも安心するなんて思わなかった。
だが、静海さんはどうだろう。いつも私に見せるのとは違う、心の読めぬ表情ですっと立ち上がると、襖をほんの少しだけ開けて、冷えた声で廊下にいるらしき黒鯱に告げた。
「どうしたのです? ここは年頃の女子の寝間ですよ」
「ああ……すみません、明の様子はどうなのか気になって……」
「黒鯱」
そこでやっと私は声をかけた。
静海さんと襖で遮られているからその姿は見えないけれど、それでも向こうで黒鯱がほっとしたような吐息を漏らしたのを感じて、私は少しだけ嬉しくなった。
心配してくれていたんだ。
「よかった。せめて明が無事で――」
せめて。
その言葉にこもった意味に気づいて、すぐに嬉しさにも陰りが生まれた。
疑う気なんてないけれど、やっぱり静海さんの言う通りなのだ。
「悪いけど黒鯱さん、明ちゃんとはもう少しあとで話してくれるかしら? 私たちの方が優先なの。――まあ、あなたが件の女人狼を誘き出してくれるのなら話は別だけれど」
「おや、優先権があったとは知らなかった。それなら、素直に従いますよ。彼女を連れ出すよりも、その方がずっと楽だ」
「……そう。じゃあ、話が早いわね。表で待っていなさい」
言い捨てるようにして、静海さんは襖をぴしゃりと閉めてしまった。
そして私に背中を向けたまま、振り返りもしないで言った。
「――そういう事だから、少し話を聞かせてもらってもいいかしら」
おもむろに振り返るその姿には、黒鯱に見せていたような荒々しさはない。それでも、今まで街角で何気なく出くわした時のような穏やかさは無くなっていた。
俯き気味になりつつもどうにか肯いてみれば、静海さんは安堵したように息を吐いた。
「有難う、明ちゃん」
そう言って、その場に正座して私を見つめる。
「じゃあ、まずは何があったのか覚えている限り、あなたの言葉で話してみてくれるかしら」
野良猫にはない類の強い眼差しに引き寄せられながら、私はどうにか暗闇に遠ざけられた記憶を再びこちら側に引っ張り始めた。
苦しくて、それでいて、段々と復讐の闘志が生まれるような、そんな時間だった。




