2.昼人
よく勘違いされることなのだが、我々野良猫は別に昼人のことを見下しているわけではない。
野良犬に好感を持つ者たちの中には、私のような野良猫が常日頃いつなんときも夜人に分けられなかった同胞たちを見下しているのだと疑っている輩もいるが、その疑いは疑いのまま胸に秘めていて欲しいものだ。
我々夜人の犬っぽさ、猫っぽさというものは、しっかりと言葉で表せるような身体的特徴があるわけではないにも関わらず、昼人や時によっては余所者にまで見破られてしまうほどに顕著であるらしい。
特に生まれながらこの町で暮らす大人たちは、初対面であっても私が野良猫であることを見抜き、そのつもりで接してくる。
普段はそれでも別に不都合はないのだが、ぎらぎらとした提灯お化けの揺らめく繁華街では話が変わってしまう。あちらこちらに存在する酔っ払いという妖怪は、私にとって影鬼なんかよりも性質が悪い。
「夜人なんてお犬様だけで十分だぁ!」
もう何度目だろう。
背後よりそんな罵声を投げかけられ、ちらりと振り返ればべろんべろんに酔っぱらった昼人のおっさんが赤ら顔で私を見つめており、その隣では高確率で青ざめた顔をしてぺこぺこ謝る飲み仲間がいる。
青ざめた顔の者がいればまだいい方だが、時にはすべての人物が酔っぱらっているのか誰も謝ってこない時すらある。
だが、私はそのすべてを無視してすぐにまた前へと歩いた。
腹立たしいのは確かだが、いちいち相手をするのはただの馬鹿だ。面倒事に自ら首を突っ込むことはない。それが野良猫の美徳でもある。
それに、あまり気にすることはない。害された気分がどうなるかも決まらぬうちに、この光景を目撃していた無関係の昼人がおずおずと私の元にやってきて何か施しをくれるのだから問題はない。
きっと私が気分を損ねて町の外になんか行ってしまうことを恐れているのだろう。
昼人にとってみれば、夜人はいればいるだけ安心できるものである。問題行動の多い粗暴な夜人ならば話は別だが、私のようにただ淡々と影鬼を食らって生きているだけの者は、益獣や益虫のような存在なのだから当たり前だ。
心配せずとも、私に行くあてはないのだが、敢えて何も言わずに私はそのすべてを受け取った。
こうでもして金目のものをもらい、使うような習慣がなければ、私なんて本当に影鬼を食らって排泄して寝るだけの獣でしかない。昼人のように学問に触れる機会なんてほんの少ししかなかったし、これからはもっとないだろう。一生この町で影鬼を食って、何かしらの理由で死んでしまうまでに野良猫として生まれた楽しみをそこそこ味わうだけ。
分かりあえぬ者は分かりあえぬ者として放っておけばいいだけだ。
幸いにも、私がよく利用する店の亭主がたは、私と分かりあえないような者ではない。
萬商店の親父は昼人だけれど夜に店を構えて昼人だけではなく夜人や時には旅人までを客に取っている。自立したばかりの私を子供扱いもせず、他の夜人と同様に扱ってくれるのが却って心地よかった為、ずっと利用している。
木刀を買ったのもここだ。ここには何でもそろっている。衣料品だけではなく、木刀や竹刀などの武器が揃っているのだ。だから、私らのような夜人はここでしか買い物をしなくたって十分であるだろう。
また、真剣といった殺傷能力の高いものも取り扱っているらしいのだけれど、そればかりは私には売ってもらえない。なんでも、十六夜町の決まりで未成年に区分される私らには販売してはならないらしい。
成人といえば昔は女子ならば十五だったらしい。それより昔はさらに低い年齢だったのだが、最近はさらに十八に引き上げられた。何でも、近隣の大国の真似をして十六夜町のお偉方がそう決めたとか。
――でもまあ、真剣なんざいらないね。
真剣なんてなくても影鬼は狩れる。
殺傷能力が無駄に高い武器を欲するのは、主に敵を作る類の危険な輩くらいのものだ。
生憎、私のような野良猫がそういった界隈に身を置くことは殆どないと言える。そういう生活を送ることになってしまうのは、群れをつくり昼人と密接に生きている野良犬が殆どだろう。
先ほど別れ、今もきっと影鬼狩りに勤しんでいるだろう隼人もたぶんそういう身を守る武器というものが必要になってくることだろう。
――まあ、私には関係ないけれど。
背の高い雪洞の明かりに囲まれた店。
狭い窓口から外と接しているその小さな店の中には、あらゆる商品が溢れ、煩雑な空間を作り上げている。
繁華街の片隅にて開かれたその狭い店。決して広くはないその店の窓口はいつも空いているけれども、店内の御立ち台の上に立ちながら外を眺めて店番をしているのは人間ではない。
本物の犬だ。
私の根底にある化け猫の血のせいかよく吠える犬は苦手なのだが、この雄の雑種犬――千代丸は無駄吠えなんてしないし、いつ接しても友好的なのでとても有り難い。
「おっちゃん、いるかい?」
人間の言葉でそう訊ねてみれば、千代丸は私を見つめて生欠伸をしてから、手元にあったスイッチをポンと押した。途端に鈴の音が響き渡り、店の奥――おそらく茶の間で「はーい」という親父の声が響き、のれんから顔がぬっと覗いてきた。
痩せた壮年の男性。丸眼鏡はいつも同じ。彼こそが萬屋の亭主だ。昼人のくせに年々人間離れした雰囲気になってきている気がするのだが、きっと他の昼人とは違う生活を長くしてきたせいだろう。
「おお、明か。何を御入り用かね?」
「おっちゃん、ちょっとこれ見てよ」
そう言って真っ二つに折れた木刀を差し出すと、萬屋の親父は丸眼鏡の下で目を丸くした。
「おやまあ、こりゃ酷い。いったい何があったんだい、石壁でも叩いたのか?」
「影鬼に決まってんじゃん。すっげえ石頭の奴」
「はあ、そりゃおっかないことだね」
「新しい木刀おくれよ」
「すまんな、明ちゃん。それと同じ奴は品切れでね。こないだ静海さんが買ってったのが最後だったよ」
なんだと。つまり、隼人が持っていたあれか。
「しょうがないなあ。じゃあ、違う奴おくれよ。この額で足りるやつ」
そう言って萬屋の親父に銭を三十見せた。
今、手元にあるお金はくたびれた色の銭が五十。本当はもっと持っているのだが、あとは全て隠れ家の安全な場所に隠してある。手元の五十のうち二つは風呂屋に払いたいので、残りは四十八。ほかにも菓子とか飲み物とか買いたいところではあるので、三十だ。
親父は銭の枚数を指で数えると、ふむと顎をかき、店の奥へと引っ込んでいった。
代わりに私の相手をすべく窓口に立ったのは、雑種犬の千代丸だ。舌を出してまるで笑っているかのようにこちらを見ている。海を隔てた異世界からの舶来品のサングラスとか似合いそうだ。
「よお、千代丸。あんたも元気そうだね」
試しに声をかけてみると千代丸は小さな声でうおんと鳴いた。
相変わらず、なんて言っているかは分からない。そんなの当り前だと昼人は言うかもしれないが、夜人にとってはそうでもないのだ。
たとえば隼人。彼ならば今、千代丸がなんて言ったのかもはっきりと分かるはずだ。
それが夜人としての最低限の力であり、昼人とのもっとも薄い境界線でもある。
私もまた夜人であることから分かるように、猫の言葉なら分かる。
ここ十六夜町には猫も多い。野良だったり誰かの家の猫であったりと様々だが、そんな猫たちと挨拶を交わしてしょうもないゴシップを聞くのもまた野良猫としての日常だ。
「悪いね千代丸。世間話なら野良犬にしな」
そう言ってやると千代丸は残念そうに口を閉じた。
そんな顔をされると申し訳ない気持ちになるけれども、私に犬の気持ちを理解する耳がないものだから仕方ない。私にもわかる千代丸の言葉と言えば、異常があるか否か、快不快などの単純な情動くらいのものであり、私だけではなく動物好きな昼人にだって分かる程度のものだ。
さて、そんな千代丸とのコミュニケーションで気になることと言えば、この萬屋の丸眼鏡親父のことだ。
気のせいかもしれないけれど、親父はよく千代丸の言葉が分かっているかのような素振りをする。もしかして先祖に野良犬の血の濃いものがいるのかと思ったのだが、どうもぴんと来ない。
商人ならば犬ではなく狐か狸。そのほかであってもそれこそ猫だろう。夜人になれるほどの素質を受け継がぬとも、そう遠くない先祖に野狐狸の類がいる者は、そう簡単に商売で転んだりしないらしい。先祖より受け継ぎし霊的な商才がそうさせるのだとか。
きっとあの親父だって狐か狸に違いない。どっちかというと狸だな。体形的に。
「待たせたね、明。ほれ、その値段ならこの中の内だ」
そう言いながら再び現れた萬屋の親父。
差し出されるのは五種類の得物だった。どれもこれも真剣ではない。御上の決めた範囲で未成年に区分される私にも売ることが出来るものばかりだ。
私が使っていたものとは違う類の木刀、そして竹刀、更には十手と杖、そして微塵である。
「どれも同じ値なのかい?」
「うんにゃ、違うねえ。これとこれがちょうど三十。これとこれは二十八。そしてこれが二十だ」
そう言って親父は武器を分ける。
三十は十手と微塵だ。柄の装飾と重石の素材の所為だろうか。ついで二十八が丈と竹刀。驚いたことに木刀は一番安い二十だった。
「やっす。私が買ったときゃ、もっと高かったのによ。四十くらいは取ってったじゃないか」
「そら、素材が違うからね。安いのはいいが、その程度の代物さ」
「ふうん」
銭二十の値のつけられた新品と、私のもっている銭四十はした真っ二つのお古。
素人目にはどこが違うかさっぱりだ。だが、きっと職人や商売人には見落とせない何かがあるのかもしれない。とはいえ――。
「どうする明よ。これを機に木刀以外の得物の味も試してみんかね?」
「私にゃまだ早いよ。いいんだ。これを買ってく」
結局、安い木刀に落ち着いた。
今まで使っていた奴よりも半額だ。銭二十の木刀がどの程度のものなのか、体感してみようじゃないか。どうせ、貯金はあるわけだしね。
「おやま、いいのかい? 銭二十を溝に捨てるようなもんじゃないか」
「おっちゃん、そんなこと言ったらこれ作った職人たちが泣くよ。いいのさ、どうせ相手は影鬼だけなんだしよ。どのくらいのもんか試してみようじゃないか」
「本当にいいのかい? 影鬼つったってそれぽっきりと折ったくらいの石頭持ちなんだろう?」
「皆が皆、石頭なわけじゃないさ。また折れたら買いにくるしよ」
「そうかい? まあ、おっちゃんにゃ影鬼のことなんざ分かんねえし。明がいいんならそれでいいか」
こうして孤独な私の生活のお供に新しい木刀が加わった。
今までのお古の木刀は後でちゃんと供養しよう。何かに使えそうだったら別の武器として活用するのもいいかもしれない。親父が見せてくれた十手ほどではないが、それに近い動きをしてくれたら御の字だ。それで棒術の練習でもして、自分にも扱えそうだったら、今度は親父の言ったように新しい武器として十手でも買おう。
しかしまあ、そんなのは明日明後日の話ではない。
まずは新しく買ったこの木刀。銭二十という安値のつけられたこの木刀との親睦を高めるのが先であろう。四十と二十の差が如何ほどのものなのかは知らないけれど、まさか明日明後日で折れちまうなんてことはあるまい。
少し嫌な予感がした気がするが、気のせいということにしておこう。
さて、何はともあれ目的は済んだ。
今日やりたいことの三分の二が終わった。あとは銭湯に向かうだけだが、その前に余った金と新調した木刀は置いていこう。
萬屋のある寂れた路地裏から提灯お化けの蠢く煌びやかな繁華街――十五夜と呼ばれる大通りへと抜け出して、私は真っ直ぐ家へと向かった。




