9.脱兎
十五夜の通りも騒々しかった。
一方に向かって逃げている様子の昼人や夜人もいる。皆、十六夜から出来るだけ離れようとしているらしい。建物の中に逃げ込んだり、物影に隠れてじっとしている奴らもいる。昼人は勿論、夜人も誰もだって戦うなんてとうに諦めている。
そんな人の波に逆らって、私は先へと進んだ。
十六夜に続く道は真っ直ぐ。決して狭い道ではないけれど、十六夜に先程までいたらしき人たちが一斉に此方に来るものだから逆らうのも大変だった。
けれど、逆らっている内にそれも段々と治まり始め、今度は不気味なほどの静けさが広がり始めた。
満月に新月は何処に居るだろう。小夜もまだ一緒なのだろうか。
焦りつつとにかく十六夜広場へ向かって走っていると、ふと、真横から声が響いた。
「明ちゃん? ……明ちゃん!!」
何度も聞き覚えのあった声だった。
それでも、私は一瞬、それが誰なのか分からなかった。理由は簡単。彼女のそんな大声を今まで聞いたことがなかったからだ。
通り中に響く声で私の名前を叫んだ人物。
それは――新月だった。
「新月! 無事でよかった!」
走り寄れば、新月はぼろぼろ泣きだした。
怪我はしていないし、蒼の羽織も破れちゃいない。手に持っている竹刀も折れてはいない。だが、足元は土埃ですっかり汚れていたし、服だって着崩れしたままだ。髪もぼさぼさだし、その上、愛らしい顔立ちは涙でぐちゃぐちゃになっている。
此処まで死ぬ思いで走ってきたのだろうことは、一目瞭然だった。
「明ちゃん……明ちゃん……」
「満月は何処に居るの? 小夜はもう時計台?」
「どうしよう、明ちゃん……大変、大変なの……」
「何があったの? 教えて」
「殺人鬼……赤みがかった長髪の、夜人に襲われたの……」
赤みがかった長髪。女豹の特徴と一緒だ。
不安が的中してしまったらしい。
「満月と小夜が危ないの……逃げ出せたのはあたしだけ。どうしよう、明ちゃん、あたしじゃ助けられないよう……」
泣きだす彼女の背をさすりながら、私は周囲を見つめた。
誰もいない。頼れそうな大人は何処にも。昼人も夜人も、皆、すっかり逃げてしまっている。つまり、頼れるのは自分だけ。私と、この安物の木刀だけだ。
しかし、逃げてはいけない。逃げてしまったら、満月はどうなってしまうんだ。
「場所を教えて、お願い!」
すると、新月はすっと自分の来た路地裏を指差した。
昼間にしては随分と薄暗い。しかし、私の猫の目があれば恐らく大丈夫だろう。
「分かれ道はある?」
「ううん、一本道だった。行き止まりになってしまっているの。そこで――」
「新月は大将のところに行って! お店を閉めて大将と一緒に来るの、分かった!?」
新月が肯くか肯かないかで、私は走り出した。後は大将のもとまで逃げ帰ってくれたらそれでいい。振り返らずに、私はとにかく満月達の元へと急いだ。
真っ暗な路地裏。建物と建物の間というだけで、本当は道ですらないのだろう。
女人狼の牡丹がねぐらにしていた場所よりも狭い……が、大人三人ほどが横に進んだとしても困らないだろうという程度の広さはあった。
とっさに逃げ込んでしまったのだろうか。一本道で行き止まりになっているというこの場所。新月だけでも掻い潜って戻って来れたのは、奇跡に近かったのかもしれない。
或いは、殺人鬼――恐らく女豹が満月のみに狙いを絞っているのか。
どちらかは分からない。
それでも、どんどん進んで背後の通りの明るみがかなり遠ざかってきた頃に、ようやく物音が聞こえ始めた。悲鳴、だろうか。何を言っているかは分からないが、必死に何かを訴えている。近づけば近づくほど、段々とはっきりしてきた。
――小夜の声だ。
「……願い……めて……を……して!」
それ以外の声――満月の声が聞こえない。
泣き出しそうな状況の中で、私は走った。間に合って欲しい。間に合って。間に合え。
今までこんなに走ったことはなかったかもしれない。野良猫には持久力がないのだ。今だけは持久力のある野良犬に生まれたかった。或いは、馬や鹿か何かの血を引きたかった。
それでも、持久力の足らない私の目にも、その光景は見え始めた。
「お願い! やめて!」
小夜が叫んでいる。地面に座り込んでいるのが分かった。
問題はその更に前。突き当りとなっている壁の所で、一人の長身の人物が背を向けて立っている。よくよく近づいてみて、私は思わず声をあげそうになった。
満月だ。満月がいる。壁に抑えつけられて、動けなくなっている。手にはまだ竹刀が握られているけれど、動かす力はないだろう。呼吸が辛くて苦しんでいる満月だけを見つめ、その人物は小夜なんていないかのように振る舞っている。
奴だ。
赤みがかった髪。薄暗くてもなんとなく分かった。ゆらゆらとさざ波のように揺らしている。左手にはすらりと伸びた真剣。錆び一つない。何処からか光を得て冷たく反射しているのが怖かった。じっと獲物だけを見つめ、異様に白くて決して太くはない腕で抑えこみ、その吐息を感じながら今に真剣を打ち込もうとしている。
その前に、小夜が立ち上がった。
「やめて!」
渾身の体当たりだった。
武器一つ持たない彼女にとって、身を守れるものは何もない。唄という妖術のようなものが武器だと聞いたことはあるけれど、この状況下ではそれも効果を成さないのだろう。
そんな彼女が今できる事、それはこの体当たりだけだったのかもしれない。
恐れることなく殺人鬼と満月の間に割り込んで、力任せに叩きつけて殺人鬼を怯ませようとしている。けれど、夜人をこれまで二人も殺してきた彼女にとって、そんな小夜が脅威となるわけもなかった。
「邪魔だ」
冷たくて猛獣のように低い声だった。
真剣を持つ拳で小夜の身体を殴り、そのまま背後に向かって突き飛ばす。右手では満月の身体を離さないまま。そうして、小夜が私の足元に突き飛ばされた時になって、ようやく私の存在はその場に知られた。
痛みをこらえつつ、小夜がはっと私を見上げてきた。その視線を受けながらも、私はじっと振り返る赤みがかった髪の女を見つめていた。
目と目が合って、ぞっとした。
真っ赤な目。黒鯱がたまに見せるものにも似ているけれど、だいぶ違う。大きな瞳は暗闇にいるからか、もしくは興奮しているからなのか。そして、何よりも目に焼きついたのは、その目元にある痣。
――豹紋。
奴だ。黒鯱が言っていた、女豹。
「野良猫か」
口元に笑みを浮かべ、女豹は言う。
「あの小娘の代わりには丁度いい味かもしれない。だが、こちらの兎を逃すこともないか」
その眼差しに背筋が凍りついた。
この女。私の事を「人」だと思っていない。シャミセンのことも、満月のことも、飢えを満たすための食べ物だとしか思っていないのだ。
――逃す事もない。
その言葉にはっとして、私は木刀を構えた。
「満月を放して……!」
このままでは食べられてしまう。
忠蔵やトラトラのように殺されてしまう。
しかし、女豹は私の様子を見て不敵に笑うだけで何も言わなかった。
無論、満月を放すつもりもないだろう。
それならば、後はもう力で取り返すしかない。
木刀を握りしめて走り出す私を、女豹はやはり微動だにせず見つめていた。何か策があるのか、それだけ私を舐めているのか、どちらでもよかった。とにかく私は必死だった。必死に満月を取り返す事しか考えていなかった。
影鬼狩りと一緒だ。妙に力のある影鬼だってたまにはいる。此方が怪我をしてしまうことだって稀にならある。その稀にいる強い影鬼だと思えばいい。潜りこむように女豹の胴を狙って木刀を滑り込ませる。その間近まで迫り、自分の動きの軌道が見えた時、勝ったと思った。
しかし、相手は猫ではなく、豹なのだ。
すっと女豹の左手が動いたと思った直後、何が起こったか分からなかった。私の動きは止められ、鈍り、身体がそのまま地面へと崩れていく。
無様に地べたに転んでそのまま女豹を見上げるとその手に持たれている真剣に赤い液体が流れているのが見えた、どろどろとした液体が流れ出し、堪えがたいほどの激痛が生まれ始め、やっと私は理解した。
斬られた。
何処をどう、なんて分からない。ただ痛みは全身にあるような気がした。腕も脚も無事だ。斬り落とされたりはしていない。しかし、立てなかった。痛みが酷くて立つことが出来なかった。
小夜が近寄ろうとするのを、女豹は真剣で牽制する。
「お前もこうなりたいか?」
冷たい声が響き渡り、小夜の動きが止まるのが分かった。
痛みと汗、血の臭気に包まれて、意識は朦朧のまま。それでも闇に吸い込まれないように踏みとどまって、私は遥か上にも思える満月と女豹の顔を見上げた。
――やめて。
そう言おうとしたけれど、口から漏れだすのは咽かえりだけ。懇願すらも言葉にならず、混乱したまま私は女豹の足元に這いつくばっていた。
そんな情けない私を見下ろし、女豹は言った。
「悪いね。腹が減って仕方ないんだ」
もう止められる者なんていない。
この女を広場で捜しているという大人たちも近寄って来る気配が無い。小夜に全てを託すのは酷というものだろう。彼女まで剣で斬られてしまえば、それこそ絶望でしかない。
だからこそ、私が……私が――。
必死に女豹の脚に手を伸ばし、掴みかかっても、彼女は全く動じなかった。
私に掴まれつつも、それを無視する形で、女豹は満月だけを見つめた。満月は気を失ってもいない。恐怖したまま捕食者を見つめ、何かを言おうと口をぱくぱくさせている。
しかし、漏れだすのは悲痛な鳴き声ばかりだ。女豹がそれだけ強く締め上げているのかもしれない。
「さて、これ以上面倒な奴が来ない内に」
出せる限りの力で女豹の脚に爪を立ててみても、虚しいだけだった。
「いただくとするか」
真剣を持つ女豹の手がさり気なく動いた直後、一瞬だけ甲高い満月の悲鳴が響き渡る。
頭上で繰り広げられているその光景を目にしたまま、私は固まってしまっていた。




