7.豹紋
萬屋の主人は留守のようだ。まあ、そういう時だってあるだろう。
ただ千代丸だけはその場所に居た。いつもの窓口で欠伸なんかしている。店が開いている事を示す「春夏冬中」の立て札は引っ込んでしまっているけれど、何処か不用心な気もする。
窓口に立って千代丸を見つめてみれば、彼もまた少し気だるそうに私を見上げてきた。そして、私の傍に居る黒鯱を見て、胡散臭そうに溜め息なんか吐いている。
「千代丸、おっちゃんは何処行ったの?」
私の問いに、千代丸はくうんと鼻を鳴らした。
参ったな。全然分からない。憂鬱そうだと言うことしか伝わって来ない。百枝とはあんなにお喋り出来たというのに、千代丸の言っている事は本当に少しも理解出来ないのだから不思議なものだ。
しかし、そんな私の困惑をさらに深めるように、背後に居た黒鯱は口を開いた。
「ふむ、銭湯ですか……」
驚いて振り返ると、黒鯱の澄まし顔が見えた。
ああ、やっぱり牡丹が言っていたのは正しかったんだ。こいつにはある程度の人語でない声を聞くことが出来る。恐らく、言葉を喋る力を持たない人間の心も汲み取ってしまうのだろう。野良犬が犬や狼の言葉を理解出来るのとは訳が違う。
しかし、今はつまらない劣等感や嫉妬なんて気にしている場合ではない。私は黒鯱に向かって思い切って訊ねてみた。
「何処の銭湯だって?」
「そこまでは分かりません。僕もなんとなく、ですからね」
苦笑気味にそう答えてきた。
なるほど。やっぱり私と百枝が会話できるようなものとも全く違う。ただの人間が獣の気持ちを察する事が出来るよりもまだましという程度なのだろう。
千代丸の知っている事を自由自在に聞きだすには、野良犬の誰かの力が必要なのだろう。たとえば、隼人なら円滑に千代丸と会話できるはず。
でも、探す気にはなれなかった。多分、隼人は他の野良犬連中と一緒だろう。この間つくづく思ったけれど、仕事中の野良犬なんかとは絶対に会いたくない。黒鯱が連行されてしまったあの日、いつもは優しげな静海さんでさえ、怖かった。
ならば、萬屋の親父が戻って来るまで待つべきか。
いや、それよりも、今可能な事を精一杯やってみるのもいいかもしれない。
「ねえ、千代丸」
言葉が通じない事を承知で、私は千代丸に話しかけた。
「最近さ、おっちゃん、猫を餌付けしていたりする?」
訊ねてみると、千代丸はふと顔を上げた。
私の顔をじっと見つめ、舌を出してまるで笑っているかのような表情を見せる。ただ座っていても何だか忙しないところが猫と正反対だ。尻尾を微かに揺らしているあたり、別に怒っていないのかもしれないけれど、何を考えているかはやっぱり掴みづらい。
「――している、らしいね」
黒鯱がどうにか伝えてくれた。いつもは鳶色をしているその目が微かに赤く光っているのは、妖力か何かを使っているからなのだろうか。
「カギシッポと呼ばれている猫だそうだよ。キジトラの雄。まだ一歳にも満たない小柄な体型。千代丸くんを兄と慕っているらしいが、時々本気で噛んで来るから困ることがあるとか」
「そこまで分かるのかい? 野良犬並みだね」
「いえ、さすがに彼らには及びません。彼らは『会話』出来るけれど、僕は『読みとれる』というだけだから」
「でも、役に立つのは確かだよ」
少なくとも、私の千倍はましだろう。
「ちなみに今日はまだ見てないらしいです。萬屋の主人が帰って来るくらいの頃合いに姿を見せることが多いのだとか」
「ふうん、そっか。じゃあ、それまで待つかな?」
「そうしようか」
よっこらしょっと、と黒鯱はそのまま店の傍の壁に寄りかかって座り込んだ。私はというと、その隣でなんとなく木刀を杖にして突っ立ったまま裏通りを眺めていた。
空はまだ日の光が微かに残っている。橙と紫が入り混じっている薄ら寂しい光景だった。表通りの方では、ぽつりぽつりと提灯お化けが命を宿し始めていて、今日もぎらぎらと欲望と誘惑の入り混じる明かりで通りを埋めつくそうとしている。
ここはまだ平穏だ。だけど、少しでも暗がりがあれば、影鬼が忍び込んで来るかもしれない。そんな可能性を願って、この通りに張り込んでいる夜人だっている。今も萬屋からそう離れていない場所で御座を引いて寝そべっている男性がいるけれど、きっとあれはそういう類の人だろう。ああいうのがいるから、おっちゃんは無事なんだ。
――それにしても、おっちゃん遅いなあ。
少しだけ不満に思っていると、千代丸が突然身体を起こした。
ばしばしと前足で窓口の渕を叩き、私と黒鯱が振り向くと「うおん」と小さな声で吠える。何かを伝えようとしている。真っ先に考えたのは親父の帰宅だが、周りを見てもその姿は何処にもない。
なんだ、一体。
「明、こっちですよ」
声をかけられて振り返ってみれば、黒鯱がいつの間にか移動して萬屋の向かって右側にある勝手口の方へと入り込んでいた。
恐る恐るそれについて行ってみて、やっと千代丸の伝えたかったことが分かった。
勝手口の傍にいたのは猫。暗闇で目を光らせて、こっちを驚いた顔で見つめていた。
小柄。キジトラ。小僧。そして、ひん曲がった尻尾。
「あんたがカギシッポかい?」
『ああ、なんだ、野良猫さんも一緒かあ。びっくりしたよ。ところで、姉さん、此処のおっちゃん知らない?』
「銭湯から戻ってきていないらしいよ? 待っていたら来ると思う」
『なんだ、そりゃよかった。腹がぺっこぺこでさあ。もうどうしようって感じだったのよ』
「――……ねえ、カギシッポ」
名前を呼ぶと、カギシッポは爛々と光る目をこちらに向けてきた。よくある金目だが、真丸なのが特徴的だ。見た感じだと八ヶ月か九ヶ月といった所だから小柄だけれどいいものを喰わされているのか、何処となく太って丸々としている。その体格は猫というよりも狸っぽい。
「あんたに聞きたいことがあるんだけれど」
『へ? 俺に? なになに? 俺、野良猫さんが知りたいような知識なんてなんもないと思うけど?』
「いやね、この近くに住んでいる百枝って白猫、知ってる?」
『百枝って白猫? ……ああ、百枝姉さんか。うん、知ってる。目付きの悪い姐さんと暮らしている猫でしょ?』
「牡丹さんのことね。うん、その猫から聞いたのだけれど、あんた、とんでもないものを目撃したんじゃない?」
『……ああ、もしかして――もしかして、野良猫の兄ちゃんが殺された事かい?』
カギシッポの表情が暗いものになった気がした。
「そう、それ。覚えていることを全部、話して」
そう言うと、彼は身を正し、曲がった尻尾をなんどかばしばしと揺らすと、溜め息を吐いた。頭の中で何やら考え事をして、やや慎重に口を開く。
『たまたまだったんだ。突き当りになっている路地裏でぼんやりしていたらさ、たまたまその場所に居たらしいあの野良猫の兄ちゃんと姉ちゃんの二人組に話しかけられたんだ。最近見たもののことを聞かれて、とりとめもない事を話していたんだ。そしたら突然風向きが変わって――』
「殺人鬼がきた?」
『――うん。なんかやばいもの持っていたんだ。それで、野良猫の兄ちゃんと姉ちゃんも驚いて俺を庇おうとした。二人とも武器を持っていたから少しは自信があったのかも。でも、奴は強かった。体格も、身体能力も、武器も、何もかもあの二人に勝っていたんだ』
「その相手はどんな人だった? 百枝と一緒に居る目付きの悪い女の人だった?」
『まさか! あの人じゃないよ。確かに女の人だったし、年齢とかはあの人くらいなのかなあって思うけれど、全然違う!』
嘘を言っているようには見えない。どう見ても善良な若猫だ。
といっても、私から見える、そして聞こえる、カギシッポの様子なんて、脳内で変換されているだけだったりするらしい。野良猫たちの猫との意思疎通はどうしても自身が持っている価値観に左右されてしまう。さすがに言っていることまでがぶれるなんてことはない。そこまで左右されるようなら精神的な病を疑うべきだ。しかし、そこまでいかずとも、表情やしぐさ、声の質などは、やっぱり正しいものとは言えない。
正しい、正しくないだと、それこそ隣で困惑気味に見守っている黒鯱の目が捉えているのだろうカギシッポの様子の方が正確なものかもしれない。生憎、私には一生分からないものだけれども。
ともあれ、カギシッポが嘘を言っていないかなんて分からないのだ。
しかし、あらぬ疑いを持ち続けて信じ込んでしまうか、その疑いを心の何処かにしまいこみつつカギシッポの証言を受け止めるか、どちらが賢いかと言われたら、後者に決まっている。
『百枝さんと一緒に居る人は俺たちとだって少しは意思疎通できるじゃない。でもね。奴は違ったんだ。俺たちの言葉も分かるみたいだし、会話も出来る。――でも、意思の疎通が出来なかった。何を考えているのだか、分からなかった』
会話できるのに、意思疎通が難しい。
黒鯱の言うようにその犯人が狂った「魂喰い獣」であるというのなら、その言葉の意味もすんなりと納得出来るものだ。
『始めに狙われたのは姉ちゃんの方だった。兄ちゃんの方には目もくれずに襲いかかって、武器を身体に突きつけていたんだ。その目はまさに猛獣だった。姉ちゃんを喰い殺すことしか考えていない猛獣。同じ野良猫さんかなんかだと思ったけれど、違ったみたい。奴には姉ちゃんのことが食べ物にしか見えていなかったんだ』
日頃、私たちが影鬼に対してするように。
『奴の武器が姉ちゃんの身体に突き刺さりそうになった時、兄ちゃんの方が割って入った。雄たけびが耳に残っているよ。姉ちゃんはそれで難を逃れたのだけれど、奴は怒った。それで怒りに任せて武器を兄ちゃんの方に向けて――突き刺してしまって、それで――』
トラトラは殺されてしまった。
月夜屋で見たシャミセンの表情がふと頭の片隅に甦る。
『一回じゃ死ななかった。もがきながら逃げようとする兄ちゃんを捕まえて、何度も武器を突き刺して、ゆっくりと血を絞り出すように抑えつけていた。まさに、捕食されていた。その光景が恐ろしくて、茫然としてしまったんだ。俺も、野良猫の姉ちゃんも』
影鬼では満足できないほど狂ってしまっている犯人。
決して薄いわけではない魂を吸い取って、ゆっくりとトラトラを死に追いやった。
『兄ちゃんが死んでしまうと、奴は最初に狙った姉ちゃんの方を振り返った。怯える姉ちゃんに近づこうとしたから、俺はとっさに前に出たんだ。すると、立ち止まって、奴は妖しげに笑みを見せてきたんだ。夜人一人殺して、満足げに笑って、姉ちゃんに言ったんだ』
――もう腹は一杯だ。次こそは「お前」を貰うよ。
頭の中で聞いたこともない声が想像のまま再生された。
執念深い犯人。シャミセンのこともまだ諦めてはいないのだろう。その女が再び飢えを覚えた時、それがシャミセンの狙われる時ということだ。
野良犬達はもう知っているだろうか。
知っているとしたら、どうするのだろう。
まっさきに考えられるのは、シャミセンを囮にするということだ。奴らならやりかねない。協力を仰ぐとみせかけて、実際は断れないような雰囲気を作り出してしまうだろう。
そうなった時、シャミセンはきちんと守られるのか。
不安と恐れで背筋が凍りそうだった。
『それからしばらく経って、他の人たちが騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた。それから先は俺にはよく分かんない。ただ、あの姉ちゃんがどうしているのかだけ気になっているんだ』
「シャミセン――その女の子は無事だよ。強い人たちが保護しているから」
そう答えてやると、カギシッポはすぐにほっとしような表情を見せた。
『よかったあ。それを聞いてまだ安心した。……でも、君はなんでその話を?』
「――ねえ、カギシッポ。覚えている限りでいいんだ。その犯人は、どんな人だった?」
『どんな人……? どんな人……。そうだなあ、背は高そうだった。野良猫の兄ちゃんと同じくらいからそれより高い。赤みがかった長髪がゆらゆらと揺れていた。目は猫の目。鋭く光っていた。そしてその目元にあったのが……斑の痣だった』
――豹紋。
『持っていた武器はすらりと光る刃物。姉ちゃんたちが使っていた木や竹の棒なんかじゃない。しっかりした刃物だったよ』
女豹。やっぱり、黒鯱が言っていたその女なのだろうか。
闇より忍び寄って、狙った獲物は逃さない。夜人と同じような血を引いている魂喰い獣のなれの果て。
『そのくらいかも。ごめん、もう思い出せないや』
「十分だよ。ありがとう、カギシッポ」
そう言うと、カギシッポは穏やかに尻尾の先を動かして返事をした。
『いいってことよ』
その姿をしばし見届けてから、私は黒鯱をやや無視する形で通りへと戻った。
親父はまだ帰ってきていない。千代丸は不思議そうに私を見つめている。そして、空はすっかり暗くなっていて、路地裏も提灯お化けの力でなんとか輝いていた。
さきほどまでいた野良猫の男も姿が見えない。何処かで影鬼を狩りにいったのだろう。
それらを見渡して、黒鯱がなにも触れてこないのをいいことに、私はこの町の端々に思いをはせた。
この影の何処かで、此処をねぐらと決めた猛獣がうろついている。人狼よりも恐ろしく、厄介で、言葉が通じるのに通じない不気味な女。
豹紋。
その姿を薄っすらと想像して、恐怖した。




