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6.女人狼

 私の住んでいる十五夜の裏通りの近く。

 既に聞いていた数多の噂ではそういうことになっていた。

 確かに、黒鯱に連れられてふらふらと訪れたその場所は、私の住まいからそう離れてはいないような場所に違いなかった。

 けれど、私はほっとした。何故なら、此処から私の家までは、ネズミか何かでもなければ真っ直ぐ向かえないような場所だったからだ。


 路地裏の中でも一際忘れ去られていそうな場所。味気ない近代的な建物に囲まれ、下水にも繋がっているらしくて臭気の漂う淀んだその場所を、黒鯱は何も恐れずに進んでいく。

 きっと隼人が此処に居たら鼻を曲げて苦しんでいたことだろう。でも、こんな臭いの中でも女人狼を監視すべく忍んでいるのだろう複数の野良犬の気配を感じ取れるのだから感心してしまう。

 私のような野良猫だったら、こんな仕事投げ出して影鬼狩りにでも行くのに。


 しかし、進んでいくにつれ、そんな臭気を含んだ風も薄れ始めた。ある地点を境に、嫌な臭いのする中に、ほんのりと嗅ぎ覚えのある香りが含まれるようになったのだ。

 そうして黒鯱の後に続いて行くうちに、「あっ」と私は小さく声を漏らしてしまった。

 萬屋で買ったものと同じ香りだったのだ。

 その気付きに驚いていると、ついに黒鯱の歩みは止まった。よくよく見れば、薄暗い視界の先に一際淀んだ雰囲気の場所が広がっていた。どうやら突き当りに来たらしい。その手前はあらゆるゴミが集められていた。自然と溜まったのではないのだろうということは何となくわかった。それぞれが何を期待されてそこにあるのかなんて分からないけれど、そこは確かに「家」だった。萬屋の親父から買ったものと同じ小瓶が置かれているほか、傍には名も知らぬ花まで飾られている。

 そして、何よりも注目すべきは、廃れた布団の上に寝そべる一人の女。


 ――麦色の髪に、浅葱色の目。


 静海さんが言っていた通り。彼女こそが人狼なのだろう。

 異国どころか海を渡った先の異世界の血も引いていることを隠せない顔立ちのその女は、人間ではあり得ないほどに輝く目で、訪れた私たちを見比べていた。


「なんだい、夜人かよ。それも猫。喰えたもんじゃねえ」


 開口一番、彼女は唾を吐いた。


「お前以外の匂いがするからてっきり生きた貢物でもくれるのかと思ったのにさ、黒鯱よ」

「人狼のわりには鼻が悪いのですね」


 容赦ない黒鯱の斬り捨てに肝を冷やされる。相手は人狼のはずなのに、どうしてそんなに強気でいられるのだろう。その上、その人狼が苛立ちを隠さずに黒鯱を睨むものだから、恐ろしいったらありゃしない。

 顔が青ざめていくのを感じていると人狼はすぐに気付き、首を傾げて私を見つめた。


「なんだ? 夜人にしちゃ、気弱なお嬢さんだな。私が怖いのか?」

「恐いみたいですね。何しろ、明はただの一般市民ですから」


 黒鯱が代わりに応えると、人狼は不満そうに彼を見た。


「夜人に一般市民も糞もあるかよ。こう見えてお前も夜な夜な影鬼を喰い殺しているのだろう?」


 ぎらりと視線を向けられ、息が詰まりそうになりながらもなんとか頷いた。

 そんな私を見て、人狼は呆れたように息をついた。


「まあ、何にせよ、しつこく監視して来る野良犬どもよりはましかも知れないな。で、なんだい。逢引の自慢なら他所へ行け。あんまり夜人を連れてうろつかない方が身のためだよ」

「自慢でもないし、逢引でもありませんよ。今日来たのはこの子があなたに会いたいと言ったためです」


 急に押し出され、私は更に緊張してしまった。


「私に会いたい?」


 浅葱色の不思議な輝きの目に問われ汗をかきつつも、私は何とか口を開いた。


「――はい。あなたをこの目で見たくて」


 重要なその理由となるその続きに詰まってしまう。

 とにかく怒らせないようにと思うので必死だったせいかもしれない。


 しかし、人狼は私の顔をしばし見つめると、意地悪そうにほくそ笑んだ。


「なるほど、お前が気にしているのは巷を騒がせている女豹のことかな。その存在を目にしていないが為に、此処に隠れている私が犯人だと決めつけている野良犬連中と同じ疑惑を抱いている」

「どうしてそれを――」


 驚いて大声を出しそうになる私を、人狼は睨みで制した。


「舐めるんじゃないよ。私の鼻はただの狼の鼻じゃないんだ。このくらい容易いものだ」


 唸るような声でそう言ってから、ふと表情を緩めた。


「だが、野良犬連中とは違って確かめようとするその度胸は気に入ったよ。私を見て震えている点は目を瞑ってやるとしてね」


 その声と目を見て、ようやく緊張が解れてきた。

 どうやら、乱暴な人というわけではないらしい。


「明っていったかな。私の名前は牡丹だ。牝狼でもケダモノでもなく牡丹だから、そう覚えろ。私も覚えてやる。猫じゃなくて、明って呼んでやるからさ」

「えっと……はい、分かりました、牡丹……さん」


 これまで私は生意気にも大人相手でさえ「さん」付けってあまりしなかった気がするのだけれど、さすがに牡丹と名乗るこの人狼にはそうもいかなかった。

 静海さんのように地位や名誉があるわけでもないのに、この牡丹とかいう女人狼は覇気だけで私を怯えさせてくる。彼女を呼び捨てに出来るものなんて、黒鯱くらいだろう。

 ……と思ったけれど、よく思えば黒鯱さえも彼女には敬語じゃないか。人狼ってどれだけおっかないのだろう。


「で、疑いは晴れたのか、明とやら? 晴れちゃいないだろうなあ。お前はただ私を怖がっているだけだろう? 不名誉な事だよ。私が喰うのは人語も分からない獣だけだ。この町にはドブネズミが沢山いるからね。それを食って暮らしている」

「ドブネズミ?」

「ああ、此処らに居る本物の猫どもと競争だけれどね。まあ、心配せずとも奴らネズミ算式だから、猫たちともそれなりに仲良くしているよ。証拠を見せようか? お前も、私やそこの胡散臭い風来坊なんかよりも、猫から聞く方が安心するだろう?」


 ――猫から?


 戸惑っていると、牡丹はあまり響かない声で小さく唸った。

 すると、まるでずっと機会を窺っていたかのように、猫が一匹姿を現した。毛はやや長く、その色は恐らく白――なのだけれど、汚れて灰色がかってしまっている。だが、目は美しい金目銀目をしていて、びっくりするくらい整った顔をしている猫だった。

 あまり見たことはないが、特に変わったところはない。魔性でもなんでもない、ただの猫だろう。


「こいつの名前は百枝ももえ。此処らの下水の猫たちの一匹ひとりだ。話はそこそこしか通じ合えないのだけれど、それでも何となく上手くやっていてね。私の話が信用ならないのなら、彼女にも聞けばいい」


 牡丹がそう言うと、百枝もまた尾をゆらりと軽く振った。

 惑いつつも私が百枝に視線を送ると、察したように彼女はゆっくりとこちらに近づいてきた。


『まあ、だいたい牡丹が言った通りよ』


 やけに色っぽい声で私の頭には再生されるけれど、恐らく、傍に居る黒鯱や牡丹にはこうもはっきりとは聞こえないのだろう。

 その証拠に、百枝は私しか見つめていない。


『人狼が怖いのは分かるわ。猫って臆病だもの。臆病じゃないと駄目だってお母さんに言われるものね』

「私は別にそう言われて育ったわけじゃないけれど……」

『あらそう? でも、そんなことどうだっていいの。大切なのは、牡丹がどういう人か、でしょ?』


 静かに頷くと、百枝はくすりと笑った。

 まるで人間がするような表情に見えるけれど、たぶん、これも黒鯱や牡丹には分からない感覚だろう。猫の表情や声なんて、野良猫にしか分からないのだから。


『はっきりと言わせてもらうと、牡丹は白よ。この人はね、立派な淑女なのよ。私たち猫の文化やマナーをしっかり守ってくれるもの。独善的じゃない犬がいるなんて、目から鱗だったわ』

「牡丹は犬じゃないよ?」

『ええ、知っているわ。細かいわねえ、もう』


 くすくす笑う百枝。しかし、その笑いを感じ取れているのも私だけのようだ。

 隣に居る黒鯱はやや難しい顔をして私たちを見つめているし、牡丹なんかはすでに興味を失ってゴミ山の中にある拾い物らしき本を眺めていた。


『ともかく、牡丹は白なの。夜人殺しなんてするわけないじゃない。それにね、私、見たのよ。あなた達が恐れている女豹って奴』

「――え?」

『私だけじゃないわ。私たちの仲間なら幾らか見たことがあるはずよ。あなたも聞いたことはない?』

「何処で見たの? どんな人なの?」

「――明?」


 取り乱し気味だったためだろう。黒鯱にそっと窺われた。

 しかし、彼よりも今は、百枝の顔から離れられなかった。目と目を合わせるのは猫の世界では無礼にあたるというのに。でも、百枝は全く気にしない様子で得意げに笑ってみせた。


『彼女は決まった場所には留まっていないわ。用心深いのでしょうね。私たちのようにちっぽけな魂しか持たないものには目もくれないの。話しかけてみても、返ってくるのは素っ気ない返事ばかり。常に新しい獲物を求めて、この町を見つめているみたい』

「その人、野良猫も殺したんだ。飢えているからって、野良猫の男の子を――」

『運が無かったのよ、その子。その子の死に際を見たってひとを私知っているわ』

「本当? 誰? 何処に居るの?」

『なんて言う場所だったかしら……。たしかお店で、いろんな人たちが訪ねているの。それで、店番は犬がしていて、千代丸っていうのだったかしら』

「萬屋? 萬屋でしょ?」

『ああ、そうだったかも。そこで毎日ご飯を貰っているっていう猫だったわ。嘘だと思ったら、親父さんに聞いてみなさいな』

「その猫が見たんだね? 行けば会えるかな?」

『さあ? 確かな事は言えないわ。でも、可能性はあるけれど』


 そう言って、ふらりと百枝は牡丹の傍へと戻って行った。

 喋るのに飽きてしまったのだろう。後は追わずに視線で追うと、牡丹が本を閉じ、寝そべったまま此方をちらりと見つめた。


「話が済んだらしいね。さすがは野良猫。私よりもずっとこいつと滑らかに会話できるようでちょっと妬いたよ」


 正直にそう言われ、少し照れてしまった。

 本気で妬んでいるのではなくて、称賛の一種だとすぐに伝わってきたからだ。

 もじもじしている私を見て、牡丹は頬杖をついた。相変わらず、起きあがる気配はない。面倒くさがりだと聞いているが、本当なのだろう。その雰囲気は、この町の野良犬たちよりも私たちのような野良猫に似ている気がする。


「まあ、何を話していたかは大体分かったけれどね。おい、黒鯱、お前もどうせ少しは分かったのだろう? そろそろ明のことを舐め腐らずに、自分の話でもしてやったらどうだい?」


 ――自分の話?


 ふと、隣に立っている黒鯱を見上げてみた。しかし、その表情からは彼の考えている事なんて何も分からない。ただその目が少々牡丹を諌めるように赤く輝いていることくらいだろうか。


「あなたの鼻はいいのか悪いのか、よく分かりませんね。別に僕はこの子の事を舐め腐ったりはしてません。ただ――」

「はいはい、煩い奴だ。少しからかっただけだろう? おい、明。萬屋に行くなら黒鯱に連れてってもらいな。女豹に喰われたくなかったらね」

「あなたに言われなくたってそうします。僕も丁度、萬屋に行きたかったのでね」


 私が何か言うよりも先に、決まってしまった。たぶん、私が断ったとしてもこの青年はついて来るだろうと予想できる。

 そんな黒鯱を前に、牡丹は興味なさげに欠伸を殺す。その態度を見て、何となくだが野良犬達に不審がられている理由が分かったような気がした。根本的に野良犬連中とは種が違うのだろう。


「そうだ、明。萬屋に行くなら、親父に言っておいてくれ」


 黒鯱には目もくれずに、牡丹はその浅葱色の目を私に向ける。

 仄かに微笑みを浮かべつつ、彼女は手もとの小瓶を指差した。


「この小瓶でぼったくった分、今度何か負けてくれって」


 きっと、銭三十で買わされたのだろう。

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