5.黒鯱
黒鯱とは別れたきりだ。
野良犬どもに連行された後はどうなったのだろう。半強制的に連れて行かれつつも、何処か落ち着いた様子が垣間見えるあの綺麗な横顔が想い起こされる。
何があったにせよ、そのまま行方不明というわけではない以上、穏便に事は済んだのだろう。
新月は何のためらいもなく小声でそっと教えてくれた。黒鯱がいるのは十四夜だと思うと。たぶん、野良猫たちが集会をするあの祠をもう一度見に行っているのだと。
そこで十四夜に辿り着いてみれば、新月の教えてくれた通り、祠に突き刺さった錆びた刀を見つめている何処か間の抜けた後ろ姿があった。
どうして誰も彼も、この男を警戒しているのだろう。そんな疑問と共に、私は彼を呼んだ。
「黒鯱」
振り返るまでに時間はあまりかからなかった。まるで、私が来ることを予想していたかのようだ。しかし、暗いからだろう。一瞬では私の姿を捉えられなかったようで、こちらをじっと見つめて目を凝らしはじめた。
それにしても、どうして彼の目は赤く見えることがあるのだろう。素朴な疑問と共に私は息を吐き、目を凝らす彼にもう一度声をかけた。
「私だよ。明」
すると、ようやく安心したように笑みを浮かべた。
「ああ、明か。びっくりした。また野良犬さんかと思ったよ」
「あれからどうだったの? なんだか物騒だったけれど――」
「ええ、お陰さまで疑いは晴れました。なんせ……彼らの元にいる時に次の犠牲者が現れましたからね」
「ああ……」
トラトラの顔が過ぎって俯いてしまった。
すると、黒鯱は首を傾げ、そんな私を見つめて小声で言った。
「やっぱり、同じ野良猫とあったら寂しいものなのかな?」
まるで他人事のような言葉に、私はふと顔を上げた。
黒鯱の顔は、いかにも不思議そうだ。異文化を前にして驚く天翔や花の国の連中みたいな顔をしている。だが、それが十六夜町特有のなにかではなく、友の死で憂鬱になっている私に対してなのが奇妙で、不気味なことだった。
「あんたは?」
私は黒鯱に訊ね返した。
「あんたは、こういうことがあっても寂しくないの?」
「生憎……想像出来ません。長旅で故郷の者たちとも久しく会っていませんし、同族に対する愛着があるのかどうかも忘れてしまった」
「――変なの。でも、忘れてるだけだろ? たぶん、あんただって寂しくなると思うよ」
そう言ってみると、黒鯱はそっと目を細めてから、ふと背後に佇む祠へと目をやった。
そっと隣へと近寄って見ても、黒鯱は拒まない。
共に立って一緒に祠を眺めてみたものの、私にとってはあまりにも当り前と化してしまっているこの光景の何処が黒鯱をこんなにも惹きつけているのか、いまいち分からなかった。
「この祠の歴史は……どのくらい知っているんだい?」
静かな声で黒鯱が訊ねてきた。
どのくらい? 少しだけ考えてから私は答えた。
「三百年くらい前に、遠い他国から少女が二人迷い込んできたっていう話かな。それから十何年か後にそのうちの一人が亡くなってしまって、慰霊の為に立ったんだって。何でも、彼女たちのお陰で影鬼が此処に現れるようになったらしいから、夜人にとっては食べ物の神様みたいなもんだって父ちゃんが言ってたのを覚えてる」
余計な話を付け加えてしまった気がした。
案の定、黒鯱にはくすくすと笑われてしまい、自分で話していながら急に恥ずかしくなってしまった。
「なるほど、食べ物の神様か。彼女たちもそんな風に崇拝されるなんて思ってもいなかっただろうね」
そう言われると尚、恥ずかしい。言ったのは父ちゃんなのに。
「……で? どうして黒鯱はこの祠が気になるのさ」
話を逸らす目的も兼ねて訊ねてみた。
純粋に気になったせいだということもある。彼は前も此処を見たのだと言っていた。蛇穴という場所の事も教えてくれたっけ。この祠の主達が生まれた蛇神の国。
「そうだねえ。なんと言えばいいのかなあ。墓参りのようなもんだよ。此処に眠る女性たちと深い繋がりのある御方から頼まれていてね。亡霊が暴れ出して十六夜町に迷惑をかけないようにって」
「ぼ、亡霊? なんだいそれ。初耳だよ」
「おや? そうですか? なんでもこの祠が出来たばかりの頃――片方の女性がまだ生きていらした頃は、亡霊が目撃されたそうですよ。妖刀と現世に遺した友を守るために、森に入る者たちを斬りつけていたのだとか」
「し……しーらない。だいたい、何年も此処を集会場にしてるけど、なーんも出てこないよ?」
不気味なのは確かだけれどね。
勿論、亡霊の存在を否定するわけではない。いても不思議ではないという意味でだ。そして、いたらいいのにという意味でもある。
もし本当にいるとしたら、今の私は迷わずにトラトラの亡霊にシャミセンを慰めるようにと頼むわけなのだけれど、どうやら私は妖力はあっても霊感はないらしい。
「っていうか、此処に眠る人たちと深い関係の在る御方って何? 彼女たちの子孫とか?」
「子孫はいませんよ。二人の兄弟姉妹など近親の子孫なら存在しますけれど、直系の子孫はいません。その近親さえ殆ど故郷には残っていない血です。どちらかというと、天翔や花の国の方に流れているらしいけれどね……」
「へえ、なんでそんなの分かるの? 黒鯱ってもしかして、学者さんなのかい?」
もしかして、私なんかとは比べられないくらい相当頭のいい人だったりして。
不思議がる私を見て、黒鯱は笑みを漏らした。
「君は無邪気で面白い人だ。そうだねえ、まあ学者の真似事をしているとだけ言っておきましょうかね。他は何か知ってる?」
「うーん……ああ、『鶴亀』の朝顔様の銅像の所にも書いてあったのだけれどね、花の国と此処で起きた花神と悪鬼の戦争とも関わっているとか。でもそっちは雌狼の伝説の方がいっぱい残っているんだけれどね」
「うん、そのようですね。僕が知りたいのは其処から更に踏み込んだ先の話なのですが、なかなか手がかりも掴めません」
「踏み込んだ先って? 何を知りたいの?」
ひょっとして、万に一つもなさそうなことではあるけれど、私が役に立てることはないだろうか。
星が落ちてきて死ぬよりも低そうな確率と言われても仕方ないくらいだが、黒鯱は今度は笑う事もなく素直に教えてくれた。
「悪鬼が朝顔様を唆して悪事に加担させた事は知っていますね?」
こくりと頷くと、黒鯱もまた頷いた。
「でも、朝顔様も実体を持たない花神のなれの果て。唆されたからといって直接現世に手を下せません。そこで必要だったのが、憑代となる人形。その人形にされてしまったのが、此処に眠るアヤカシの女性の姪だったのですよ」
「――姪?」
「彼女の姉の子。独りきりで彷徨っているところを朝顔様に拾われた、という話が残っています。叔母にあたる彼女はその頃まだ生きていて、姉の訃報を聞くなりすぐに探しだして保護しようとしたのですが、遅かったらしい」
「ふーん、じゃあ、その姪っことやらのおかげ……――せいで、花神と悪鬼の戦争は起こったの?」
「そういうことです」
なるほど……三百年も前の事だからぴんとこない。
でも、複雑な話だと思った。もしもそこで姪とやらが保護されて、朝顔様の暴走が失敗していたら、花の戦いは起こらず、もしかしたら影鬼達も今のように夜人のご飯として居着くだけの存在ではなかったかもしれないのだ。そしたら、夜人は今のように昼人から感謝されるような存在でもなかっただろうし、もしかしたら私の主食は人間の魂だったかもしれないし、そもそも昼人の母を持っている混血の私なんて存在しなかったかも。
まあ、仮定の話なんてしていたらきりがないものだ。今は今なのだし、過去は変えられないのだから。
「それで、僕が知りたいのは、その憑代となってしまった少女の行方です」
「行方?」
「花神と鬼の戦争が終わった後、彼女は雌狼に連れられて罪を洗う為に花の国を出ました。僕の聞いた話では、蛇神様が使いを通して呼び寄せたそうです。悪鬼に悪用された身とあれば、清めが必要だからと。しかし、その旅の最中、彼女はこの十六夜町付近で行方知れずになってしまったそうなのです」
「ふーん、でも三百年も前の話でしょ?」
「ええ、ですが残っていることも多い。たとえば、その姪が殺されたわけではなかったこと。その姪の血を継いでいると主張する家系が花の国と天翔に一つずつ存在する事、などね」
「十六夜町にはないの?」
「無い……と思っていたのですが、そうでもないらしいですね。天翔や花の国の流れを汲む血筋がある以上、此処も関係ないわけじゃないみたいです」
「じゃあ、私にも流れていたりして、その血」
適当にからかうように言ってみたのだが、黒鯱はくそ真面目に顎に手を当てて考え込んだ。
「なるほど、そういう可能性は考えてなかったなあ。魂喰い獣と血が混じり合う……。ふむ、ないとは決して言えないことだ」
「ああ、もう、御免よ。適当な事言っただけだよ。生憎、私の父ちゃんも母ちゃんも先祖代々十六夜町生まれって聞いているからね。天翔や花の国の血なんて入ってないと思うよ」
高尚な奴を相手にするのは疲れてしまう。
そもそも彼を訪ねに来たのは、こんな三百年前の歴史の話をするためではないのだ。私が知りたいのは、今、此処で起こっていることについてなのだから。
考え込み続ける黒鯱に向かって、私は思い切って話を切り出した。
「ねえ、黒鯱。話を変えていいかな?」
無言のままだが特に拒絶はされなかったので甘えさせていただく。
「女豹の話をしていたよね。海を渡ってきた……狂ってしまった『魂食い獣』の子孫だって。あんたはそいつについてどのくらい知っているの? 奴はいま……どこに潜んでいるんだい?」
「――それは、私も聞きたいところですね」
ふと、こちらを見つめる黒鯱の眼差しに冷たさを感じた。
恐る恐る見上げてみれば、彼の目はやはり赤く輝いているように見えた。彼は一体、何の血を引いているのだろう。野良犬の連中が恐れているのも、蛙の大将が怯えているのも、普段は表に出てこないこの目の特徴の所為なのだろうか。
じわじわと湧き起ってくる恐怖心のようなものを振り払って、私は閉じかけていた口を再び開いた。
「シャミセンは殺人鬼は女だって言っていた。人狼が疑われているけれど、犬や狼なんかじゃないって。でも、野良犬たちはまだ人狼の方を疑っているんだ。だって、シャミセン以外は誰も――」
「女豹を見ていないから、ということかな?」
「――うん」
犠牲者以外は誰も見ていない。
忠蔵もトラトラも死んでしまった以上、犯人についての手掛かりとなるのはシャミセンだけ。そのシャミセンも時計台に連れて行かれていつ解放されるか分からない。
御上はきっと私らのような輩の不安なんて知ったこっちゃないのだろう。
生き延びるには私が私で身を守るしかないのだ。そこには悲しみに暮れている暇さえもない。だから、私は知りたかった。少しでも、脅威となる者の正体を。
黒鯱の証言が正しいのか、野良犬たちの推測が正しいのか、知りたかった。
私の抱く思いの全てを見透かしたように、黒鯱は赤く輝いた目を細める。
「女豹は用心深い。空腹を感じなければ姿を現さない。その姿を目にしたとき、それは、食われるときだけ。あのお嬢さんは運がよかったのだろうね。でも、安心はできない。あの女豹はね、とても執念深いんだ。一度欲しいと思った獲物は滅多に諦めない」
「またシャミセンを襲うってこと?」
「恐らく、ね。それに、この町はどうやら女豹に気に入られてしまったらしい。君たちのように濃い魂を持った獲物がうろちょろしているからね」
私たちが獲物だなんて。得たいの知れない恐怖に圧倒されてしまった。
これが、日頃、影鬼に怯えながら暮らす昼人の気持ちだろうか。恐怖を振り払いながら、私は黒鯱をじっと見上げた。
「シャミセンは大丈夫だよ。きっと野良犬の連中がしばらく保護するだろうし」
そう。シャミセンが解放されるのを待っていれば飢えてしまうだろう。もしくは、血も涙もない連中だ。シャミセンを囮に釣りあげるような真似をするかもしれない。
でも、だとしても、さすがにシャミセンを見殺しにするようなことはしないはず。そう思いたいところだった。
「その辺りに関しては、僕からは何も言えない。君の方が詳しいだろうしね。ただ、一つ言えるとすれば、あのお嬢さんが安全な場所にいるのなら、むしろ状況は良くないだろうということだよ」
「どういうこと?」
「欲しいと思った獲物が手に入らないとなれば、余計に飢えてしまう。飢えは彼女を更に狂わせる。ひょっとしたら、数日も経たない内に三人目の犠牲者が出るかもしれないよ」
「そんな――」
シャミセンが手に入らないから?
いいや、違う。シャミセンのせいになんかしたくない。……けれど、もしも今の黒鯱の言葉を十六夜町の他の大人達が聞いたりでもしたら、と思うとぞっとする。だって、奴らはきっと自分達が助かりたいがばかりに平気でシャミセンを女豹に差し出してしまうだろうから。
胃がむかむかとする。
私は俯きつつ、なんとかこの暗い気持ちを払拭する方法を考えた。女豹がこの町を気に入っている限り、成す術もないのだろうか。
しかし、そこでふと私は黒鯱に対する疑惑を抱いた。女豹なんて本当にいるのか、という野良犬達に近い疑問だ。
「女人狼」
そう呟く私を黒鯱がじっと見つめる。
「あんた、女人狼と会っていたって言ってたよね。あんたの疑いは晴れたけれど、その人狼の疑いは晴れちゃいないのだろう?」
「つまり……何が言いたいんだい?」
「あんた達がぐるで、人狼を庇うためにあんたが嘘を吐いているっていう可能性もあるだろう?」
真っ直ぐにそう訊ね、少し冷やりとした。
もしも今の疑惑がどんぴしゃりの答えだったなら、私はどうなってしまうのだろう。
黒鯱は得物となるようなものを持っていない。私は安い木刀を持っている。それでも、きっと数々の大人からこの青年を警戒するように刷り込まれたせいだろう。彼と戦うという可能性を少しでも考えるだけで、恐れのようなものが生まれた。
しかし、黒鯱は獣か何かのように目を細めただけだった。
「ふむ、なるほど。さすがは夜人さんなのだろうか。君も何処か用心深いところがあるみたいだね。まあ、その疑問を直接僕に話す度胸は恐れいるけれど」
何処か馬鹿にされているような気がしたけれど、カチンと来るよりも先に、この青年の得体の知れない余裕が引っかかった。
「そんな顔をしないでよ、明。僕はあの人の仲間というわけじゃないし、肩を持つつもりもない。会っていたのは事実だ。けれど、ここの野良犬さんたちが思っているような薄汚くて野蛮な狼というわけじゃない。彼女の名誉のためにも言っておくと、僕と特別親しいというわけでもないよ」
「……でも、人狼ってやつも人間を食うんだろう?」
夜人を食べるということはないのだろうか。
「ああ、そうだね。でも、人狼による。彼女は食べないよ。先祖代々人間を食う事を忌避してきたらしい。異世界から流れた血も引いてはいるが、辿れば花の国のお山の神の系譜に繋がるような人なんだ。だが、面倒事が嫌いなようでね、わざわざ自分から誤解を解くというのもする気はないらしい」
「でも、それも私にとっちゃ、あんたから聞いただけのことだよ。真実なのか、嘘なのか、何も分かりやしないさ」
だって、その女人狼だって私は見たことがないのだから。
そんな私の心を察したのか、黒鯱はふと私の様子をじっと見つめたまま、口を閉じてしまった。しばし何かを考えて溜め息混じりに顎をかくと、ゆっくりと祠を見上げて錆びついた刀を見つめたまま、非常に静かな声で私に向かって言った。
「それなら、直接会ってみるかい?」
それは、思わぬ誘いだった。
驚いてじっと見つめると、黒鯱もまた穏やかな表情で私を見ろし、付け加えた。
「その猫の目で何が真実か見極めてみるといいよ」




