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4.犯人探し

 痛めたのは腰だけではなかった。

 シャミセンが連れて行かれてから暫く、満月に言われて気付いてみれば私の右頬はいつの間にか真っ赤になっていた。

 きっとぶつけたのよ、と満月はすぐに冷やした手拭いを持って来て、私にくれた。好意に甘えて冷やしつつ店の端っこにて一人でじっとしていると、急にさきほど見た光景が甦って来て、切ない気持が込み上げてきた。


 ――トラトラ。


 どちらかと言えば、無口な方の少年だったかもしれない。

 いつもシャミセンの事を気にかけていて、何気なく一緒に居るという優しげな人。小太りで、そこまで整った顔立ちというわけではなかったけれど、人柄の良さがその目の輝きに出ていて、私にとっても安心して話せる野良猫仲間の一人だった。同年代というのも大きい。我々夜人にとっては、快く話せる同年代の者というのは、残りの寿命の長さよりも重要なものだった。


「よっこらしょっと」


 ふと、ぼんやりと故人の思い出に浸っている私の隣に、見知った顔のおっさんが座り込んだ。

 熊手だ。


「よお、明。通夜の最中か?」

「熊手……」


 何処か皮肉めいたその言葉に言い返しそうになったが、結局そんな元気もなかった。

 トラトラが死んで寂しい、というよりも、トラトラが死んだ悲しみに沈むシャミセンの姿が痛々しかったのが辛かったのかもしれない。

 その上、時計台の偉人たちは我々下界の庶民に容赦しないという当り前すぎる事実をよりによって今再確認させられたこともまた、心にずんと重たいものが圧し掛かって来る原因だった。


「そんな顔をしたって死んだ奴は戻ってこねえ」


 熊手はそう言いながら、手酌している。そういえば酒臭い。蛙の大将にいつも取っといて貰っている瓶のやつだろう。しかし、だとしても滅多にないことだ。熊手が飲むのは影鬼狩りが終わった後のこと。「鶴亀」で汗を流した後で、寝る前に一杯ひっかけに来るものなのだと噂に聞いている。

 何故、まだ夕暮れ時に飲んでいるのか。


 ――ああ、こいつもこいつで通夜の最中なんだ。


 そう気付いた途端、先程までの怒りのようなものがすっと引っ込んだ。

 酒臭い溜め息を交え、熊手は言った。


「夜人に生まれた時点で男も女も関係なく背負っている宿命だ。保護されて栄える昼人と俺達は違う。運の良さが足りねえなら、運と力で補うしかない」

「運と力かぁ……」

「それがトラトラの坊ちゃんには足りなかったってことなんだろうなあ。自分よりもせめて惚れた女に長生きして欲しかったってことかね。まだ成人でもねえのに大した男だったんだろうな」


 シャミセンは立ち直れるだろうか。

 トラトラがどうして身を呈してまで自分を守ってくれたのかに気付いたとして、立ち直れるだろうか。

 今まで、あの二人を見つめるのはちょっとした楽しみでもあった。他人の恋路に首を突っ込むのはよくないけれど、遠巻きに眺めているだけなら許されるはずとか言い訳して、何処かじれじれだけれど着実に近づいているような二人の関係が面白かった。

 まさかその結末がこんなものになってしまうなんて。


「ねえ、熊手」


 頬を冷やしながら、私は言った。


「トラトラを殺した奴の話、何か知ってる?」


 すると、熊手は酒を飲みながらじっと私を見つめてきた。

 目と目が合うと気まずさが生まれる。化け猫の血を引く私たちにとって、これは礼儀知らずの証でもある。見知らぬ者同士だったら敵意と酌んで取っ組み合いに発展することだってあるだろう。

 しかし、それでも私と熊手はしばし見つめあった。

 敵意ではない、探り合い。熊手は熊手で私の真意を探っているらしかった。

 やがて、ことん、と杯を置いて、熊手は唸るように言った。


「明よ。あんた、無理な向こう見ずは止した方がいい。仇討なんざ猫のやることじゃねえ。そういうのはな、群れなす者にとっての仁義ではあっても、俺らのような個人主義の猫にゃ独り善がりに過ぎん」

「そういうんじゃないよ。ただ知らなきゃ落ち着かないんだ。どうしてトラトラが殺されたのか、どうして夜人が襲われているのか、少しでも分からないとじっとしていられないんだよ」

「ふん、どうかね。あんたの目には火が灯っている。どうも、影鬼狩りの火じゃねえな。仲間を殺した女が憎いという感情の炎だ」

「そりゃあ、憎いさ。当り前だろう? なんで、私たちが怯えなきゃなんない?」


 ――殺人鬼なんかに。


 そう言いかけて、ふと黒鯱の姿を思い出した。

 野良犬に連れて行かれてから姿を見ていない。彼はどうしているだろう。彼には妖しげな存在を教えられているのだ。女豹。魂喰い獣の血を引く狂人。

 一番よく知っているのは黒鯱なんだ。


「ねえ、熊手。トラトラを殺したのは女……なんだよね?」

「ああ、シャミセンが辛うじてそう答えられたのだと聞いた。先程連れて行かれたそうだから、またさらに尋問されるのだろうよ」

「それって、夜人なのかな? それとも――」

「人狼ではない、と聞いている。前々から監視されていた人狼が一番疑われているが、シャミセンは言ったんだ。相手は犬でも、狼でもないと」

「犬でも、狼でもない?」

「少なくとも、だ。だが、まだ分からない。人狼はなんせ、夜人とは違って純粋なアヤカシだからね。辿ればそう遠くない先に一山の神であったという場合も多い。そんな彼らにとっちゃ、自分が犬や狼である匂いを消すくらい朝飯前って奴もいるだろう」


 そうだとしたらものすごく厄介な事だ。人狼がうろついているとは聞いているけれど、私は未だにその姿を見ていない。

 もしかしたら、既にすれ違っているかもしれないということか。


「……仮に、人狼じゃないとしたら、なんだと思う?」

「さて、そればかりはさっぱり。ただ、当り前だが、ただの人間ではない何かとは言っていたそうだ」

「たとえば……豹とか」


 限定的に訊ねてみれば、熊手が不思議そうに私を見つめてきた。

 嫌な沈黙が流れ、背中に汗が浮かび始める。たらりと椅子へと流れ落ちるのと、頬を冷やす水が流れるのが同時だった。


「明、あんた――」


 何事かを言いかけ、一度ぐいっと酒で流し込む。飲みこんでから、改めて言葉を続けた。


「黒鯱、か?」


 真っ先に訊ねられ、身構えてしまった。

 熊手の目。猫の目特有のもの。瞳孔が開き、やや警戒しているのが分かる。私もきっと似たようなものだろうけれど、なるほど確かに、他人から見ればその異様さははっきりと分かる。

 すぐに目をそらして俯き、答えずにいると、熊手は大きく溜め息を吐いた。


「前も言っただろう。あの青年に深く関わるのは止めておいた方がいい」

「で、でも、熊手。黒鯱は――」

「言っただろう、明。あれは余所者なんだ。それも、近隣の花の国や天翔の連中ではない」

「知っているよ。その上、只者でもないんだろう?」

「ああ、だが、あんたは分かってないな。蛙の大将からも忠告されたんだろ? あれが何故此処に来たかは知らんが、関わってもろくなことは起きないぞ」

「だとしても……だとしても、彼は何か知っているんだよ!」


 犯人に関する情報を。もしくは――。


「そうじゃない」


 しかし、熊手は私を睨みつけたまま、声を低めて言った。


「俺が言っているのは、そう言う事じゃない。明。さっきも言っただろう。十六夜町の野良猫の美徳は無駄に関わらない、ということだ。真実がどうだと推察するのは勝手だが、それに伴って確かめに行くのは愚か者なんだ」


 そう言って熊手は杯を再び置く。その目にふと涙のようなものが滲んているのに気付いて、私は開きかけた口をそのまま閉じてしまった。

 

 泣いている?


「どうしたんだい、熊手」

「別に。酒が目に染みたのさ」


 両目をさっと袖で拭って、熊手はふうと息を吐いた。


「明よ、あんたは似ている。すごくよく似ている」

「誰にだい?」

「弟だよ。野良猫だった弟。数年前、野良犬同士の抗争に巻き込まれて、はらわた曝して死んじまった俺の実の弟だよ」


 そう言ってぐいと杯を飲み干すと、熊手はそのまま銭をじゃらりと言わせて、隅で働いていた新月に向かって声をかけた。

 もう、帰るらしい。


「明、肝に銘じておけ」


 呼ばれた新月がそそくさとこちらに来るまでの間に、熊手は小声で私に向かって言った。


「長生きしたけりゃ、身を守る事だけを考えて暮らせ」


 その言葉がぐるぐると頭を駆け廻っていく。


 そうしたいのは山々だし、熊手が心配するほど私は逸脱した猫ではない。

 私だって面倒事は必要最低限で済ませたいものだし、自分から揉め事には突っ込まない主義のはずだった。それでも、本当にこれでいいのだろうかという疑問はどうしても消えない。

 熊手の助言に従うのが猫として正しい姿勢かもしれない。いや、ひょっとしたら夜人全体としてもその方がいいのかもしれない。


 それでも、私はやっぱり、自分の好奇心をどうしても殺せなかった。


「新月、私もお勘定」


 そう言って呼び寄せ、来た所をそっと捕まえて引っ込み思案なその目に訊ねた。


「ねえ、黒鯱は何処?」

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