3.二人目
黒鯱が野良犬連中に連れて行かれて数日後の夕方頃、物騒な雰囲気の絶えない私の家の中は異様なほど甘い香りに包まれていた。
ここ数日、安眠は出来た。
外へと出れば風向きによって相変わらず鼻が曲がりそうな悪臭に襲われたが、家の中に居る間は香りで誤魔化せた。開けっぱなしの小瓶の中身はまだまだ残っている。空になったら、瓶を持っておいでと言われているから安心だ。ちなみに、中身だけなら銭三つらしい。銭ならばまだ大丈夫。街をふらついていただけでそこそこの施しを貰える上、これまでの蓄えもまだまだ残っていた。
しかし、私は憂鬱だった。
出来れば今日は家に籠りたい。
あまり街へと出たくなかったのだ。
理由は、物騒な気配にあった。
十六夜の時計塔の下は今日もきっと寂しく空いているのだろう。
事件の噂を聞いた次の日、ためしにその場所へ行ってみれば、そこに昔あった忠蔵の私物はすでに殆どなくなっていた。残っているのはゴミとしか思われないようなものばかり。その他は、ちらほらと小さなネズミの姿が見えた。もしかしたら、何も知らずに忠蔵を訪ねにきた者たちだったのかもしれない。もしくは、もう既にその噂を聞いて、死を悼みに来たのか。
どうやら物騒な噂は獣たちの間にも流れているらしい。
猫というものは本来お節介なものじゃないのだけれど、今朝方、私が眠りにつく前に十六夜町のあちらこちらを歩く本物の猫の一匹――虎毛の牡猫が私を訪ねてきたのだ。
――生きてたか。お前も死んでんじゃないかって仲間が心配してたぞ。
まあ、どうせ、おこぼれを貰える宛が減るということだろう。
私も一応、彼らと同じようなものだから、その気持ちは少し分かる。けれど、そんな本心は微塵にも出さずに、虎毛の彼は私に言った。
――今朝、もう一人喰われたそうだ。それも、野良猫が。
喰われた。確かにそう言った。しかも、野良猫が。犠牲者は誰なのか、聞くべきか聞かぬべきか迷った挙句、私は聞いてしまったのだ。誰が喰われたのか、その相手を。
町に行きたくないのはその所為だ。
喰われた相手の名前を聞いた瞬間、別の人物の顔が過ぎって、一気に人の集まる場所に行きたくなくなってしまった。
特に、月夜屋に行きたくない。あの場所にはきっとお役人や野良犬どもの詰問から解放されたシャミセンがいるだろう。人恋しい彼女は、月夜からしばらく離れられないだろう。
彼女に会ってしまったらどうしたらいい。どう慰めたらいい。
「ああ、シャミセン……」
その姿を想い浮かべ、名を呟くと、心がずんと重たくなった。
犠牲者の名はトラトラ。
十六夜と十五夜の境ほどの路地裏で、シャミセンと共にいる時に何者かに襲われた。はじめ、その何者かはシャミセンを狙ったらしい。か弱い女子だからだろうか。それとも、全く違う理由だろうか。
大した得物は持っていなかったそうだ。いやにぎらついた目と、恐ろしく力のある手。そして、何物をも噛みちぎってしまいそうな歯で、怪しげな人物はシャミセンを喰い殺そうとした。
そこへ、トラトラが割り込んだのだ。そして――。
殺人鬼は女。異世界風の顔立ち。髪はぼさぼさでやや赤みがかっている。一見、野良猫のようだが、もっと強い獅子や豹の血を引いているかもしれない、と。
女豹。
やっぱり、黒鯱が言っていたのは本当なのか。
しかし、猫の持ってきた噂によれば、こうも言っていたらしい。
もしかしたら、女人狼かもしれない。牙で肉体を切り裂けるのなんて、そのくらいなんじゃないかと。
勿論、証言した相手は野良犬やお役人だけだっただろう。だが、猫や鳥、鼠などが耳にした噂はじわじわと漏れだし、こうやって私の耳にまで届いていた。
シャミセン。生き残り、命からがら逃げ出した彼女に対しても、根も葉もない酷い噂は流れ始めている。自分に惚れていた男を見捨てた悪女だという者もいたし、本当は痴話げんかの末に彼女が殺したんじゃないかと疑う者までいたらしい。
――野良犬やお役人に媚売って許して貰ったんだろうという昼人もいるらしいよ。
読みとった猫の声を思い出して、私は奥歯をぐっと噛みしめた。
そんな身勝手な噂をする奴なんて影鬼にでも喰われちまえばいいのに。
しかし、私も私だ。何と声をかければいいのか分からなくて怖い。シャミセンに出会うのが怖い。夜人を狙った殺人鬼よりもずっと、私は今のシャミセンをこの目で見てしまうのが怖いと思っていたのだ。
私の方が悪女だ。
香りに包まれる家の中で蹲りながら、私は一人そう思った。
いつまでもこうしていたいのは山々だったが、さすがにそうもいかない。
こんな日であってもお腹は空くし、飲み水だって欲しい。月夜屋以外に飲み水を貰える場所なんて限られている。銭湯に行くよりも、月夜屋の方が安上がりなときだってある。
でも、今日はやっぱり銭湯に行くべきか。ああ、でも、銭湯の方にシャミセンがいることだってあるだろう。
駄目だ。やっぱり、シャミセンを避けることなんて不可能だし薄情だ。
いくら他人に関わらない野良猫であるといっても、そこまで薄情であると言い訳も聞かなくなってしまう。野良猫には野良猫の仁義というものもあるのだ。
木刀を握りしめて立ち上がると、少しふらついた。起きてからずっと座っていたからだろう。
「行かなきゃ……」
自分に言い聞かせて、私はとぼとぼと歩きだす。
月夜屋に向かったのは飲み水のため。影鬼では補えない水分を補給するためだ。
けれど、それだけとは言えない。もしも店の隅で青ざめた顔のまま俯く友人を見つけてしまって、それを無視できる者がどれだけいるだろう。
「シャミセン……」
店内へ入るなり、私は彼女の元へと直行した。
手元には彼女の愛用している竹刀が空しく置かれている。そして隣にはもう一つ。トラトラが使っていたものだとすぐに分かった。
私が声をかけると、シャミセンはびくりと体を震わせた。
トラトラは死んだのだ。彼女を庇って。彼女を狙った殺人鬼に殺された。
「話は聞いたよ」
なんと言えばいいのか分からないまま、私はそう言った。
正直に言えば、トラトラがいないなんて実感はない。こうしてシャミセンと待っていれば、今に来るんじゃないかって思うくらいだ。でもそれはきっと、私が目撃していないからなのだろう。
「トラトラのことは……残念だ。……でも、あんたが無事で、まだ良かったよ。シャミセン、私は――」
「君、少しいいかな」
と、そこへ、私たちの間に割ってはいる者達が現れた。驚く私を余所に、二人組の夜人の男どもが返答も待たずにシャミセンの隣にずかずかと座り込んだ。
そのあまりの図々しさに呆気にとられたが、すぐに我に返った。その先に沸き起こるのは怒り。乱暴なそいつらが頭に来て、私は机を叩いた。
「なんだい、あんたたち。シャミセンに何の用だ!」
しかし、私の猛り声は完全に無視されてしまった。男たちは野良犬の一派。私のような子猫の威嚇なんて屁でもないのだろう。その上、隼人たちのお仲間でもなさそうだ。
「シャミセンさん、で間違いないね」
男の一人が訊ねると、シャミセンは黙ったまま静かに頷いた。その顔を見つめ、野良犬の男たちは落ち着いた様子で名乗りだした。
「私どもは時計台の番犬だ。ミサゴ様の名において、昨夜の事件のことでお訪ねしたいことがある」
「ちょっと、あんたら――」
「トラトラ、だったね。君の友人の男の子について聞きたい。共に時計台まで来てくれるかな?」
「おい、待っておくれよ、その子はまだ――」
割り込もうとしても、無駄だった。
まるで自分たちとシャミセン以外の者なんていないものかのように男たちは振る舞っているくせに、信じられないほどの力で意図も容易く私の身体を突き飛ばしてしまったのだ。
「あ……明ちゃん!」
掠れるようなシャミセンの声が聞こえてきたが、まともに反応できなかった。突き飛ばされたはずみで、隣の机に思いきり腰を打ってしまったせいだ。
「いってててて……」
あまりの痛さに蹲りながら呻いていると、物音を聞きつけてか厨房の奥から満月が慌てて顔をだし、駆け寄ってきた。
「どうしたの!? 明ちゃん、大丈夫?」
そこへ、店の端で目撃していたらしき新月がそっと耳打ちをする。それを聞くと、満月は思いきり野良犬の男たちを睨み付けた。
「あなた達、何のつもり!?」
木の棒を持って影鬼に向かっていく神兎そのもののように跳ね起き、そのままの勢いで凄味を聞かせようとする満月。だが、野良犬の男たちはちらりとこちらを振り返ると、すっと私たちに向かって何かを見せつけた。
――なめし皮の手帳だ。
ただの高級品というわけではなく、分かり易い位置に印が刻まれている。
ミサゴ様の使い――時計台の番犬だというのは本当なのだろう。手帳に刻まれているのは、天翔由来の十六夜町には馴染のない、それでいてあまりにも有名な翼の紋章だった。
「悪かったな、猫娘よ」
ふと、男の一人がじっと私を見つめてきた。
「どうやら力加減を誤ったようだな。もっとも、首を突っ込んでこなければそうならずに済んだとは言わせてもらいたいけれどね」
「何だと――!」
腰の痛さも忘れて思わず刃向いそうになったが、それを新月が必死に抑え込んだ。相手が町のお偉いさんの飼い犬とだけあって怯えているらしい。その震えた様子を見ていると、少しだけ冷静さが戻ってきた。
そうだ。シャミセンのことばかり気になっていたけれど、あまり面倒事を起こしたら「月夜屋」に迷惑がかかってしまうじゃないか。
それ以上暴言を吐くのをぐっとこらえると、私を見つめていた野良犬がふと笑みを漏らした。
「なるほど。猫のくせに少しは賢いらしい」
穏やかではあるが、鋭い牙が見え隠れする。
大人の野良犬――それも、何らかの任務で行動している者に突っかかるのは止した方がいい。それは、親元を離れて夜人として独り立ちし始めた私が初めて学んだ教訓でもある。
歯痒いところだが、私にはシャミセンを見守っていることしか出来なかった。
「シャミセン……」
シャミセンはというと、男たちに怯えを隠せないまま従うほかなかったらしい。
自分の得物と、そして、亡きトラトラの愛用していた木刀とを手にして、野良犬の大男共に連れられていってしまうシャミセン。
その赤いべべの背を見送ることしか出来ないのが、とても悲しくて、泣きだしてしまいそうになった。
「明ちゃん……大丈夫?」
満月にそっと訊ねられ、私は力無く頷いた。
泣き出しそうなのは、別に腰が痛いからじゃない。ただ、シャミセンのことを想うと、とてつもなく胸が苦しめられて、辛かった。
トラトラ。ずっとシャミセンに片想いをしていたんだっけな。最後の最期まで、恋の相手を庇って、そして死んでしまった。殺されてしまった。
――どうして、トラトラが……。
一体誰が。
この十六夜町で、何が起こっているというのか。
あらゆる疑問が浮かんでは消え、奇妙で恐ろしくて、気持ちが悪かった。




