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2.余所者

 さて。影鬼狩りが終わったところで、冷静になってみよう。

 あの後、結局、月夜屋はいつもと同じくらいの客足を取り戻し、新月も満月も私の相手なんか出来ないくらい忙しくなってしまった。

 そして、ミサゴ様はその中でもまだまだ居座り、私が小魚焼きを食べ終え、水も飲み終わり、お代まで払ってもまだ居座って、小夜と大将と何やら話し込んでいた。

 結局、なんだったのだろう。

 最初よりも店内はざわついていて、会話の内容なんか聞けやしない。それに、どうせ自分には関係のない事。関係のない事なんて退屈しのぎ以外に興味はないもんね。

 というわけで、ろくに聞かずに出ていってしまったのだ。


 そして今。影鬼狩りも終わり、銭湯に行くか、月夜にもう一度行くか、家に帰るかの三つの道を選んでいる最中、私はとても大切な事を思い出していた。


 ――夜人が狙われているだって?


 すごく今更だったが、モズの言っていたことが頭を過ぎったのだ。

 その途端、今さっきまで平気な顔で通ってきた提灯お化けも出てこないような真っ暗闇の道が怖くなってしまったのだ。

 忠蔵が殺されたのは何でだったのだろう。遺体はどうなっていたというのだろう。ああ、なんであの時になってお客さん来ちゃうかなあ。満月の話を最後まで聞けなかった事、そして、ミサゴ様たちの話をもっと盗み聞けなかったことが今さら悔やまれて、腹いっぱいで満足していたはずの心が乱された。


 私には関係のない事。そう信じているのだけれど、その私だって一応夜人の端くれ。

 まさかとは思うけれど、私もその殺人鬼に目を付けられることがあるのだろうか。いや、全く予想出来ない。そもそも、因縁をつけられる覚えなんてないし、誰かが羨むくらい儲けられてもいない。

 野良犬ならばいざこざに巻き込まれる事はあるだろう。たとえば、隼人だってその危険は隣り合わせだ。静海さんたちの群れは有名な分、敵も多い。その中の子犬として少々危険な目に遭う事もあるだろう。しかし、私は違う。私を人質にしたところで誰も助けてはくれない。何の得にもならないはず。


 そうだ。私は忠蔵さんのような有名性もないし、お宝も持っていないのだ。

 だから、こんな暗闇道を歩いたところで誰にも襲われたりしないはず。大丈夫、大丈夫。


「こんばんは、明さん」

「ぎゃっ!」


 全身の毛が逆立った。

 木刀で殴りそうになったことは内緒にしておこう。声ですぐに分かったものの、顔を見るまでは落ち着かなかった。

 振り向けば、予想通り、其処に居たのは黒鯱だった。


「お、脅かすんじゃないよ! 心臓が止まるかとおもったじゃないか」

「おや、そりゃ失礼。なにかまずいことでもありましたか?」


 けろっとした様子の黒鯱に、溜め息が漏れだす。


 ……うん? それにしても、黒鯱がどうしてこんな真っ暗な場所にいるのだろう。此処は影鬼が何処から飛び出してきてもおかしくない場所だ。夜人ではない彼ならば襲われてしまうかもしれないじゃないか。

 こいつめ、また自由気ままにうろつきおって。


「黒鯱。ここらは夜人と影鬼の縄張りだよ。いい加減、夜にうろつくのはやめなよ」

「おやおや、でも見た所、影鬼の姿は皆無。僕が特別注意をするような状況にないようですね」

「そうかもしれないけれどさ、用心はした方がいいって、ただでさえ今日は――」


 言いかけて、ふと、黒鯱との以前の会話を思い出した。


 ――女豹。殺人鬼。狂った魂喰い獣の子孫。


「ただでさえ、なんです?」


 ああ、もしかして……もしかして忠蔵は。


「なあ、黒鯱。昨日だったかな、女豹って奴の話をしてくれたじゃない?」

「ええ、そうでしたね。それがどうかしました?」

「今日、夜人の爺さんが死んだらしいんだ。殺されていて、それも物取りとは思えないって」

「ああ、それなら聞きましたよ。月夜屋はその話で持ちきりでしたからね」

「その犯人って、もしかして女豹なんじゃないのかい?」


 魂を喰う。その為ならば、金銭なんて関係ない。より濃い魂を。より深い味を。求め続けて同胞である夜人を襲っているのだとしたら。


「それは分かりません。証拠はありませんから。ただ、明、女豹という存在が忍びこんでいる事は本当です。どうか気を付けて」

「どう気をつけたらいいんだ? その女豹ってやつ、木刀で倒せるんだろうか」

「戦うという選択ですか? 確かに勇ましいものですが、あまりオススメ出来ません。何しろ彼女は大の大人。狂ったせいで妖力に目覚めている分、君よりもずっと体格も良くて力もあって俊敏だ。傷一つ与えられないまま囚われて、殺されちゃうのが落ちですよ」


 随分と言われてしまったのだが、彼に私の何が分かるというのだろう。

 だが、確かに私もまた自信はなかった。黒鯱の言う通りの未来が脳裏に浮かんでしまう。いやだ。まだ死にたくはない。戦うという選択は封印しよう。


「じゃあ、逃げるしかないんだね?」

「そういうことです。もしもそのお爺さんを殺したのが女豹であるのなら、腹も満たされているはずだし、明日、明後日は静かかもしれませんね」

「そうなの?」

「夜人――魂喰い獣の子孫の魂は、それだけ大きいらしいですよ。大人一人分を喰えば、二日は食べなくて済むと聞いたことがあります」


 けろりと彼はそう言った。


「……黒鯱」


 ふと、私は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。


「あんた……一体何者なんだ?」


 その途端、黒鯱の目が異様に冷たいもののように感じられた。

 どういうことだろう。これまでただの向こう見ずな旅人だとしか思えなかったというのに、今だけは夜人のような……いや、それ以上の何かのようにすら思えてしまう。

 怯えにも似たものをその目に感じていると、ふと、第三者の気配を感じ取った。


「明ちゃん、悪い事は言わないよ」


 静海さんだ。その声ですぐに分かった。姿はよく見えないが、街の灯りを背に複数の野良犬達とともにこちらに向かってきている。やや小柄なのは隼人かもしれない。目を凝らしてみたが、やっぱり見えるのは彼らの遥か後ろの町灯りだけだった。


「そいつから離れなさいな」


 やけに命令染みた声だ。今までこんな口調で話しかけられた事なんて一度もなかった。狼狽していると、野良犬達がどんどん近づいて来て、各々の雰囲気がはっきりと伝わってきた。皆、私と黒鯱を睨みつけるように見ている。

 はっきり言えば、物騒な顔だ。静海さんがいると分からなかったら、堪えられないくらい恐ろしかったことだろう。しかし、今も同じようなもの。今の静海さんは、私の知っているいつもの静海さんではなかった。


「で、でも、静海さん……黒鯱は――」

「聞こえなかったかい、明ちゃん」


 冷たい声に圧されてしまう。

 どうしたらいいか分からず戸惑う私に、ふと野良犬の一人が必死に声を送っているのに気付いた。


「おい、明! 聞こえただろ?」


 隼人の奴だ。

 やっぱりあの小柄な影は隼人だったらしい。その顔はやはりよく見えないけれど、こちらを見て咎めている。友達としての助言だろう。焦っている声が妙に生々しくて、私はそれ以上何も言えないまま黒鯱から一歩、二歩と離れた。


「よし、素直ないい子ね」


 静海さんは軽くそう言うと、一人だけでゆっくりと黒鯱の方へと歩みだした。

 他の野良犬達は見守っているだけ。だんだんと近づいて来て分かったけれど、木刀ではなく真剣をすでに抜いている。それも、ただの刃ではなく、霊刀と噂されるものだ。

 どうして。

 私には分からなかった。だって、黒鯱は、どう見ても――。


「黒鯱、といったね。観光中悪いけれど、うちの人があんたに会って詳しく話を聞きたいらしくてねえ」

「――殺人事件の事かな?」


 黒鯱は間も置かずにそう返答した。

 その思い切りの良さに、静海さんの目が少しだけ細められる。


「なるほど、話が早そうだ。ついでに、あの件の申し開きもして貰うと言っていた」


 ――あの件?


「断ると厄介だよ。半分は人間かもしれないが、我々犬神の子孫を甘く見ない方がいい」


 はっきりと分かる脅しに、何故だか私の方が怯んでしまった。

 しかし、黒鯱は全く動じていない。無表情のままやや赤みがかった目を野良犬達に向けると、そのまま静かに息を吐いた。


「甘くなんて見ません。これでも私は故郷を離れて久しいのです。世間をそれなりに知っていますからね。あなた方と同じ始祖を持つ方々とも交流した事だってあります」

「そ。じゃあ、はっきりと答えてくれるかい? 来るのか、来ないのか」


 静海さんが妖刀をがちゃりと言わせると、黒鯱はそこでようやくいつものあの笑みを見せた。


「行きます、よ。あなたの旦那さんに、ゆっくり申し開きさせていただきます」


 あっさりと従う黒鯱に、静海さんはようやく敵意を薄めた。

 野良犬の仲間達がゆっくりと近づき、黒鯱を取り囲む。一見、丁重だが何処か荒々しい態度で、野良犬達は黒鯱に何かを呟いて、共に歩みだした。集団にくっついていた隼人は、何か言いたげに私の方をちらちらと振り返ったが、結局、何も言わずに大人たちと去っていってしまった。


「さて、脅かして悪かったね、明ちゃん」


 残った静海さんが急に話しかけてきて、びくりとしてしまった。

 だが、さっきまでの荒々しさは何処にも残っていない。

 それを確認してから、私は勇気を出して訊ねてみた。


「あの……黒鯱は、その……どうして?」


 上手くまとまりはしなかったが、それでも静海さんは軽く答えてくれた。


「簡単な事だよ。奴は只者じゃないのさ」

「只者じゃない……」


 不思議と驚きは半分だった。最初はただの人間としか思えなかったが、よく考えれば私は、ただの人間というものをきちんと知らずに育ってきたのだ。ミサゴ様のような人が普通の人間なのなら、黒鯱は何処か違う。小夜やモズといった歌鳥とも雰囲気が違う。昼人でも夜人でもない、普通の人間でもない。

 じゃあ、彼は一体何者なのだろう。只者ではないとはどういうことだろう。


「それにね、彼は目撃されていたのよ」

「目撃?」

「例の女人狼と一緒に居る所をね」


 ――女人狼と黒鯱が?


 よりによってその組み合わせ。熊手が、蛙の大将が、私にわざわざ伝えてきた忠告を思い出し、ぞっとした。黒鯱と女人狼が何故一緒に居たのだろう。


「所詮、彼らは余所者。あまり関わるもんじゃないよ。明ちゃん、特にあなたは群れを持たぬ野良猫。たった一人で自分の命を守らなくてはならないとしっかり自覚しないと、来年まで生き延びられないかもしれないね」


 それは、野良猫や野良犬など関係なく、夜人の先輩としての助言に違いなかった。

 好奇心からもっと詳しく話を聞きたくなったところだったが、頃合いを見計らったかのように、やや離れた場所から野良犬達が静海さんを呼んだ。


「悪いわね、明ちゃん。もう行かなきゃ。後は噂好きの猫にでも聞くといいかもね」


 そう言って静海さんもまた去っていってしまった。

 木刀を手にしたまま独り取り残された私は、しばらく茫然としてしまった。

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