1.一人目
目が覚めた時、またしても不快な臭いに鼻が曲がりそうになった。日に日に酷くなっていっているのは何の嫌がらせだろう。
真っ先に思い当たったのは女人狼の噂。私の豪邸のわりと近くに隠れ住んでいるとか言っていたっけな。そいつ、まさか身寄りのない人間でも食っているんじゃないだろうか。身寄りがないといったら私だって同じようなものだ。この傍から見たらまるでゴミ捨て場のような場所にたった一人で暮らしている。――私にとっては御屋敷なんだけれどもね。
それはともかくだ。もう我慢ならない。なんなんだこの臭気は。いったい何の罪でこんな臭い場所にいなきゃならんのだ。
起き上がり、新しい方の木刀を背負うと、私はさっさと屋敷から離れた。
十五夜の本通りまで行ってしまえば、臭いはほとんどしなくなる。やっぱり、私の家の近くがおかしいということだろう。ってことは、本当にご近所にお住まいなのだろうか、その人狼とやらは。
いやいや、まだ決めつけるのは早い。もしかしたら近所に昔っから住んでいる昼人連中の誰かんちの排水が残念なことになっているだけかもしれないじゃないか。
そういうことにしたい。そういうことにしちゃおうかな。
出来るだけ楽観的な方向へと思考を向けながら、日の暮れはじめる頃合い、私は十五夜の通りの通い慣れた路地裏へと向かった。
真っ直ぐ訪れたのは提灯お化けの揺らめきだす通り。その最中に居座る背の高い雪洞に包まれた店。私の新相棒である木刀を買った萬屋である。
「やあ、千代丸。元気そうだね」
千代丸は今日も店口で客を待ち構えている。
私の顔を見るとあおんと犬語で何やら呟き、こっちが何か言う前に手元のボタンをぽんと押した。なるほど、かしこい奴だ。……というよりも、親父に何処までも服従しているということだろう。そう思うと哀れなもんな犬ってやつは。
はいはいと、軽い返事をしながら店の奥の暖簾をくぐり丸眼鏡の親父は現れた。そして、私の顔を見るなり、おや、と不可思議そうな顔をした。
「どうしたー、明。まさか、もう折れたのかね?」
こないだ買った木刀の事だろう。どれだけ信用がないんだ銭二十の木刀の職人。
「違うよ、おっちゃん」
否定すると、親父は首を傾げた。
「おや、違うんか。じゃあ、何よ? 蚤取りの薬でも買いに来たんか?」
「うーん、それも一応欲しいところだけれど……いや、違うんだよ。おっちゃん、聞いてくれよ。なんかね、最近、私の家の周りがめっちゃくちゃ臭いんだよ」
「臭い? はあ、厠がおかしくなったけ?」
「違う違う、そういう臭さじゃなくてね、なんかもっと穢れを含んだような臭いさ。ネズミでも死んでるのかなあっていう感じの」
ひょっとしたら人でも死んでいるんじゃないかってくらいの、という言葉はぐっと飲み込んだ。この親父は昼人の一般町民なのだから、あまり物騒な話はよしておこう。
「ネズミの死骸かね。そいで、何が欲しい?」
「臭いを消すようなもんないかな? 広範囲じゃなくていいんだ。せめて私んちの寝間の空気だけでも快適なものにしたいんだ。お香とかない?」
「お香ねえ。明よう、火の始末はちゃんと出来るのけえ?」
「失礼だなあ! ちゃんとできるよー」
「冗談よ。いや、でも、お香なんかじゃなくたって、もっといいもんがちょうど昨日手に入ってね」
そう言って親父は足元に置いてあったらしき小瓶を窓口に置いた。
大海と大陸を隔てた向こうにあるという異世界風の装飾が施されている小瓶だった。少なくとも、我が十六夜町を含む火山大島の陸続きの国々で流行ってきたようなものではないし、大海を隔ててすぐそこにある大国で流行っていたようなものとも違う。もっと遠くのもの。最近になってようやく伝わってくるようになったようなものと言った方がいいか。
ともかく、私にとっちゃ初めて触れるような代物だった。
「へえ、なかなか粋なもんだね。で、これが何なの?」
「香りのする液体が入っているんだ。器は果しなく遠い場所にある異世界からのもんだが、中身は我が町の近辺、ちっちゃな海を挟んだ向こうに浮かぶ離島で作られたもんらしい」
「ふーん、香水ってやつかい?」
「ちょっと違うらしいんだがな。まあ、とにかくそれで臭さは誤魔化せると思うよ」
「で、幾らなのさ」
手っ取り早く訊ねてみれば、親父はこそっと私に耳打ちする。
「銭十だよ」
「なんで小声なのさ?」
「いやね、つい今しがた、とある昼人の奥さんが欲しいつって買いに来たのさ。でもよ、出来ればおっちゃんは明みてえな夜人に使って欲しくってねえ」
「依怙贔屓かい? やれやれ呆れられちまうよ」
とはいえ、贔屓にされていい気にならないわけもなく、私の思考はすっかり小瓶を買う方へと流れ始めていた。
これが萬屋の親父の作戦だとしても別にいい。大人しく屈服してやろう。そもそも、これであの悪臭が少しでも良くなるならば、大金叩いたっていいくらいだった。
「実はね、それだけじゃなくて、おっちゃん、その奥さんに銭三十って言っちまったのさ。だーかーら、もし聞かれたら尚更まずいのよ。明、買うとしても買わないとしても、よかったらこの事黙っていてくれんけ?」
なんだ。自業自得じゃないか。
でもまあいいや。別にどうだって。減るもんじゃないし。
「仕方ねえなあ、ほれ買うよ。銭三十!」
そう言って傍から見えぬように銭十だけ突き出すと、親父は盛大に笑ってみせた。傍では千代丸が首を傾げている。
「あいよ。さすがは明だね。さっそく使ってちょうだい」
「勿論。ついでにまた来た時は蚤取りの薬買うから取っといてちょうだいよ」
「あい、分かった。毎度あり」
「うん、じゃあね。おっちゃん、千代丸」
小瓶を受け取ると、私はさっそく家に戻る事とした。
まずは小瓶の効能を試してから飯にしよう。……と、その前に月夜屋で水を飲んだほうがいいかもしれない。やっぱり、銭がいるものだなあ。
溜め息と共に来た道をとぼとぼと戻り、私は月夜へと向かった。
いつまでも昼人からの施しだけで暮らすのも如何なものだろう。野良犬たちは大体、昼人の用心棒やらなんやらをして雇われて、日銭を稼いでいると聞いている。野良猫の殆どはそうではないのだけれど、一部はやっぱり野良犬たちのように暮らしているらしい。
どちらがいい暮らしが出来るかなんて比べるまでもない。
大金を稼げるようになれば、私の家だってあんなゴミ捨て場ではなく、きちんとした大工にきちんとした小屋の一つでも立てて貰えるだろう。
しかし、今の私にとっちゃ夢のまた夢。やっぱり、夜人に出来る仕事というものを探すべきか。隼人あたりに相談してみたら紹介してもらえるかなあ。
そんな事を考えている内に、月夜屋についてしまった。
「あれ?」
店を見れば、異様な人だかりが出来ている。ただ事ではないというのが一見して分かるくらいだ。昼人もいるし、夜人もいる。
なんだろう。嫌な感じだ。水を飲みに来たというのに。
人をかき分けて、店へと入ろうとすると、そこで人だかりの意味をやっと理解出来た。店の中に異様な客人がいたのだ。これまた一目で分かったのは、昼人でも夜人でもない輩がいるということだ。困惑気味の蛙の大将と、同じような表情の小夜が見える。満月と新月は店の隅でやや怯えながら様子を見ていた。そして、人だかりの原因。店に来ていた風変わりな客はたったの四人。
「なんだい、ありゃ」
やたらとがたいのいい男二人は夜人だった。そして残る男二人。一人はひょろりとした少年みたいな青年で、どことなく小夜に似ている。そして、印象的なのはもう一人の男。その小夜に似た青年の隣で澄ました表情をして、蛙の大将達と何やら話していたのだ。
「ミサゴ様がなんでここに」
ふと、人だかりの誰かがそう呟いた。
――ミサゴ様?
一瞬、その名前がぴんとこなかった。しかし、その名前を持つ者を思い出した瞬間、驚きのあまり大声を出してしまいそうになった。ぐっと口を手で覆って難を逃れたものの、驚きは治まりそうにない。
ミサゴ様。この町で一番偉い天翔の御方じゃないか。鳶色の髪に同じ色の目。勇ましい顔立ちは剣豪で時の活動家の一人でもあった祖母譲りだと聞いている。まあ、そんな事言われても私には分からないのだけれど。
店の中はがらんとしているが、入っていいのかどうかさえも躊躇われる。同じく迷っている夜人の大人が数名。顔見知りだが、話すような仲ではない。
それにしても、何を話しているのだろう。
店内を遠巻きに眺めていると、満月と目があった。会釈するべきか、どうするべきか迷っていると、満月は新月と共に音もなくそっと歩み出し、話に夢中なミサゴ様たちを邪魔しない場所から私に近づいてきた。私に? 面食らったが、逃げる隙などなく、あっという間に手を掴まれた。
「明ちゃん、ちょうどよかった。ご贔屓するからお店に入ってよ」
満月に小声で言われたが、それでもやっぱり私は狼狽してしまった。
「え、でも、入っていいの? なんかすごくまずい雰囲気じゃない」
「良いに決まってるでしょ? これじゃ商売あがったりよ。おやっさんと小夜ちゃんがお取り込みの間でも、私たちでどうにか稼がなきゃやってらんないのよ」
「あー……」
非常に気まずいけれど、気の毒なのは確かだ。
此処は白羽の矢が立った私が慎ましく身投げしようじゃないか。
そんな自己犠牲の精神に倣って、私は満月と新月に引っ張られるままに店へと入った。
人だかりにいる連中が、ちらほらと私を見つめている。入るか迷っていた夜人達が顔を見合わせていた。お前らも入れ。そんな事を想いながら、私は隅っこの席についた。
「とりあえず、水と小魚焼きちょうだい」
そっと告げると、新月が頷いてさっと厨房の奥へと引っ込んでいった。
満月はというと、他に入ろうとする客がいないかぐるりと店内を見渡していた。ちなみに、まだ大人の夜人達は頭を抱えている。こりゃ期待薄だ。
「ねえ、満月。ありゃ、なんなんだい?」
奴らの席に聞こえぬように訊ねてみれば、満月はすぐさま私の傍にしゃがみこみ、耳打ちしてきた。そういえば、内緒話は今日で二度目だが、満月の内緒話は先程よりもずっとずっと物騒なものだった。
「実はね……」
液体が染み込むように満月の囁きが入りこんで来る。
「月夜屋のすぐ傍の路地で、人が殺されたんだって……」
「――人が?」
さすがに驚いた……が、正直言うとそこまででもなかった。
十六夜町で殺人は確かに頻繁なわけではないが、全くないわけではない。人死にとなれば珍しくもなんともない。影鬼に喰い殺されただの、夜人同士の争いだの、こんなもの、あちらこちらで起こっていることだ。しかし、この異様な雰囲気、ただ事ではないらしい。
「殺されたのは夜人なんだけれど、誰ともいざこざがあったような人じゃないんだって」
「ちなみに、誰だい?」
「野鼠の忠蔵さんよ。時計台の広場の隅で何十年も暮らしていた」
「ああ……あの……」
知らない人ではなかった。十六夜の時計台の隅は長年の住人が暮らしている。野鼠という輩はコソ泥も多いそうだが、忠蔵と呼ばれるその老人はそんな悪事に手を染めずに来た。おかげで、彼は昼人からもよく思われていて、施しをたっぷり受けて暮らしていたらしい。
年を取って影鬼狩りもおぼつかなくなってきたと言われていたから、もうそろそろやばいんじゃないかとは思っていたのだけれど。
まさか殺されるなんて。
「どうしてなんだろう、やっぱり金銭目的?」
施しをそれなりに受けていたのなら、あり得なくもない。
しかし、満月は否定した。
「違うみたいなの。ミサゴ様たちの話をちらりと聞いちゃったのだけれど、忠蔵さんのご遺体はね――」
「おい、満月! 油売ってねえでお客様の相手をせい!」
と、いいところで蛙の親父の声が響いた。
見れば、大将がミサゴ様たちのお相手をしている向こうで、先程まで迷っていた夜人が二人、ご来店していた。なんだい、来ないなら来ないでよかったのに。
「た、ただいま!」
満月が慌てて立ち上がり、私をちらりと見た。
「御免、明ちゃん。続きはまた後でね」
そう言ってまさに兎のように素早く、新手の客の元へと向かった。
ちっ、いいところだったのに。
私はその背を見送ってから、頭を掻いていた。
忠蔵の遺体がなんだってんだ? すごく気になる。気になって呻きそうになる。気を紛らわせるには水か小魚焼きが早く来てほしいのだけれど、どうやらまだ時間がかかりそうだ。
仕方なしに私は、店の中央辺りで話し込むミサゴ様たちを観察する事にした。
それにしても、有名人をこんなに近くで見られるとは。
「しかし、旦那……この子は家の看板娘で――」
蛙の親父が狼狽気味にそう言うのが聞こえた。
この子、それはきっと小夜の事だろう。うん、小夜がどうしたんだろう。もしかして、歌鳥だから何かまずいことでもあったのだろうか。
ミサゴ様ときたら、蛙の親父だけをじっと見つめている。
「看板娘なら可愛い兎がいるじゃないか。それとも大将、貴方はその子の貴重な唄の力を商売に使う気だろうか? それならまた別の話となるのだけれど……」
「い、いいえ、滅相もない。この子はそういうのじゃなく、うちの店で働いているだけなんでさあ。歌う歌たわないとか、誓うとか誓わないとか、あたしらが決められるもんじゃありません」
「ふん、その心意気は立派で素晴らしいのだけれどね……」
ミサゴ様は頭を抱え、ちらりと隣に居る青年を見つめた。
「ちょっとお前から説明してやってくれないかな、モズ」
モズ。そう呼ばれた青年は軽く頭を下げると、まっすぐ小夜を見つめた。
小夜も驚き気味にモズを見つめている。何だろうと思う前に、モズの方が口を開いた。
「小夜だったっけね。そう言うことだよ」
何がどういう事なのか、私にも説明して欲しい。
「ミサゴ様は別に君を悪用したいわけじゃないし、無責任に誰かに売り払いたいわけでもない。今までは確かにこのままでもよかったかもしれない。ただね、小夜、この事態は異常なんだ。夜人は確かに強いかもしれないけれど、その夜人が狙われている。此処に居たら君まで危険な目に遭ってしまう」
「……ですが」
「君は歌鳥。僕と同じ血を引く者。天翔では歌鳥の血はとても貴重なんだ。すでに狩り尽されてしまっているからね。僕の言っている意味が分かるかな?」
なるほど。やっぱりモズとかいう青年もまた歌鳥だったのか。
ミサゴ様の傍に歌鳥が控えているとは聞いていたけれど、思っていたよりも童顔でびっくりした。ともあれ、あれが俗に言う本物の”歌鳥様”ってやつか。夜人が二人控えているのは、自分でも身を守れるミサゴ様をお守りしているというよりも、モズの方に気をかけての事なのかもしれない。
まあ、この辺りにミサゴ様の歌鳥に手を出せるような心臓に毛の生えた奴がいるなんて思えないけれど。
っていうか、小夜は何を求められているのだろう。
なんだかとても寂しい予感がした。
「はい……ですが、モズ様、それにミサゴ様、実はわたし――」
と、小夜が浮かない顔のまま二人に何かを言おうとしたところで、私の目の前にぽんと皿とコップが置かれた。
「小魚焼きとお水……」
新月だった。
「あ、ああ、有難う、新月」
箸を手に取る頃には、もう新月は奥に引っ込んでしまった。
話しかけたいところだったのだけれど、少々客足が伸びてきたらしい。満月も他の客の相手に気を取られてしまっている。
仕方ない、喰うか。
ミサゴ様たちへの興味を消して、目の前の小魚焼きに集中した。




