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10.異国

 月夜屋を後にしてからというもの、隼人は始終ふくれっ面のままだった。

 そうとう無視されたのが腹立たしかったのだろう。だとしても、面倒臭い。それだから子犬扱いされるんだと思わず言ってしまいそうになったけれど、言ったら余計に面倒な事になるってよく分かっていたので口は慎んだ。

 それでも、隼人はやっぱり寂しがり屋だ。

 銭湯へと行くというと、ついてきた。どうやら銭湯で仲間のおっちゃんたちと落ち合う予定だったらしい。それなら、今日も静海さんの裸を見ることになるのだろうかと変に期待をしていたのだけれど、そんなことは全くなかった。

 どうやら同じ群れの野良犬でも行動は様々であるらしい。


 ところで昼人には意外に思われるのだけれど、私は毎日銭湯に通う。

 通うだけの銭を貰っているのだから昼人に感謝しなさいと言われそうだがそれはともかく、影人狩りといい、路地裏巡りといい、私は常に埃っぽい場所を行き来するものだ。よく分からない汚れ、よく分からない悪臭、よく分からない虫でもついていそうな猫、よく分からない雑菌でもいそうな夜人の先輩などなど、常日頃、私はよく分からない物々に曝されている。

 やっぱり清潔なのはいい。猫は水を嫌うだなんて思われているらしいが、さすがに風呂を嫌ってまで猫でいるつもりはない。それに、普通の猫と違って私は自分の舌で汚れを取ろうだなんて思えない。別に届かないわきゃないのだけれど、よく分からない身体をべろべろ舐めて清潔にするくらいならば、さっぱり湯で身体を洗い流す方がいい。その方が痒くないし。

 というわけで、私は今日も「鶴亀」にいったのだ。


 昨日まで全く気にも留めていなかった朝顔様を拝み、静海さんがやけに不審がっていた雌狼の勇者に思いを馳せてみた。

 人狼ってのはどんな生き物なのだろう。この伝説に出てくる人狼は朝顔様を操っていた悪鬼を倒してくれたのだった。つまりは、善良な人狼だったのだろう。

 花の国にまつわる話だが、あちらでは昔、山を支配しているのは人狼だったのだと聞いたことがある。けれど、花神と悪鬼の争いによって山は枯れ、多くの人狼が行き場を失って旅に出たのだとか。枯れた大地でネズミすら取れなかったとかいうその時代、雌狼の勇者が悪鬼を倒すまで、花の国に残ることが出来た人狼なんて殆どいなかっただろう。だから、流れ者の人狼は十六夜町に流れてきた。当時、此処は花の国の一部ではあったけれど、あちらよりも被害は少なかったらしい。殆ど聖地としては成り立っておらず、朝顔様もすでに支配されていた為だろう。

 しかし、流れてきた人狼がどうやって生きてきたのかまで、私は聞いていなかった。

 静海さんのあの様子じゃ、人狼は恐らく昼人や弱った夜人なんかを食べてしまったのだろう。だから、雌狼こそ讃えられども、同じ人狼の多くは不振がられている。


 ああ、やだやだ面倒臭い。

 そんな人狼の一匹が今も私の住まいの近くに隠れているなんて。

 女、といってたっけな。つまり、伝説の雌狼と同じ種族の女。

 沢山の野良犬に監視されながら、一体何が目的で十六夜町に入りこんできたのだろう。そして、どうやって生活しているというのだろう。

 なんだか帰りたくない気持ちで一杯ではあったが、いつまでも「鶴亀」に居られるわけではない。それに、熊手が言っていたように家が心配だった。

 渋々帰路につけば、家のある場所に近づいて行くごとに嫌な臭いが強まっていく。

 そうだ。この臭いが嫌で水さえも飲めなかったのだった。前よりもは薄まってきているけれど、相変わらず生き物の死んだ臭いにしか思えない。いや、そのものだ。もしかしてこれも人狼の仕業なのだろうか。だとしたら、一体何が死んだ臭いなのか……。

 考えを深めている内に不安ばかりが広がっていく。真っ昼間だと言うのに、不気味な雰囲気になってしまったのも全部人狼のせいだ。


 かったるい気持ちで家に帰ってみてすぐに、私はハッと息を呑んでしまった。

 誰かいたのだ。


「誰だい! ここは――」


 叫びかけて、すぐに言葉を引っ込めた。

 振り返ったのはよく知っている男。眠気でだるいこの眼にもすんなりと入りこむ美しい青年の顔が見えたのだった。


「なんだ、黒鯱か――」


 ほっとしたのも束の間。

 すぐに疑問は浮かんだ。なんで此処に黒鯱が居るんだろう。熊手の忠告、蛙の親父の忠告、それらがすぐさま呼び起こされて、思わず私は眉をひそめてしまった。

 しかし、黒鯱はどうやら気付いていないらしく、実に人懐こい笑みを浮かべて近寄ってきた。


「やあ、明。待たせて貰っていたよ」


 その声からは不審は勿論、危険な様子すらも読みとれない。

 どう見ても何処か抜けている観光客だ。放っておくのが危なっかしい印象は全然変わらない。一体、熊手や蛙の親父はこいつの何にビビっているのだろう。


「町の観光をしていたのだけれどね。もう見るところもないし、せっかくだから誰かと話して時間を潰そうと思ったんだ。それで此処に」

「あーあー、こりゃまたずいぶんと図々しいね。あんたにゃ宿を紹介してやっただろう? 蛙の大将とでも話してきなよ」

「おや冷たい。君もちょっとくらい話をしてくれたっていいじゃないか」

「それなら明日にしようよ。私ゃもう眠くて眠くて――」

「じゃあ寝る前にちょっと聞きませんか、異国の話を」

「異国の話ぃ?」


 変に気になって黒鯱を見ると、にっこりと頷いた。

 話したくて仕方が無いのだろう。明日に回せば回したで同じ事。それなら寝る前にちょっとだけその話とやらを聞かせてもらってもいいかもしれない。

 仕方ない、と、その場に座り込むと黒鯱もまた嬉しそうにその場に座った。


「で、何処の国の話しだい? 言っておくが、天翔や花の国の話はもう聞き飽きてるんだからね」

「どちらでもないよ。明、君は細石さざれいしの国という場所を聞いたことはあるかい?」

「細石? 何処だいそれ?」

「天翔の御隣だよ。小石が連なるように村が点々とあって、その真ん中に巌のような都がある。そこには大鷲の神様がいてね、なんでも天翔を作った神様はその大鷲の息子だと信じられているらしい」

「ふーん、初めて聞いた」

「でしょう? 同じ大陸――火山大島の話でも、此処に居ては知らないことだらけだろうさ。細石の国のことだって知らないのなら、花の国の御隣の深海ふかみはどうだい?」

「名前だけ……かなあ。でもあんまり興味ないから知らない」


 実際、興味は露ほどもない。

 だって一生かかってもいかないだろう国の話だ。深海から来たという旅人を案内したことがあって名前を知っているだけで、そこがどんな場所でどんな人がどんな生活をしているかなんて想像もしなかった。

 けれど、黒鯱は容赦せずにべらべら話す。


「深海は海から陸にあがったという人魚の子孫たちの国ですよ。私の名前の黒鯱も、その国出身の友人の名前から連想して作ったものです」

「あーそういや、そう言ってたね。じゃあ、本当はなんて言う名前なのさ?」

「――世界は広い。陸の外に広がる海を越えれば、僕たちの知らない異世界がもっと広がっている。最近はとくに新しい言葉と新しい品物が入って来るだろう? 言葉も違って、住んでいる生き物も違うとは聞くけれど、そんな世界がいくつも広がっているというから驚きだ」


 海を渡った先の世界ねえ。たしかに船なんかを使って最近は色々なものが入って来るみたいだけれど……って、名前を教えてくれる気はないのかい。こんな反応されると逆に気になる。黒鯱の本名は一体何なのだろう。気に入らない名前なのだろうか。ひょっとして名付け親を憎んでしまうくらい紹介するのが恥ずかしい響きなのだとか。

 どんな名前がいいかな。なにか恥ずかしい名前……。


「さて、明。隣の隣の国も分からないなら、さらにその隣の国なんて分からないかな。たとえば、細石の国の南東に位置する蛇穴へびあなという国はどうだい?」

「分かんない……そこはなんなの?」

「そこは、夜中まで君が集会をしていた所に眠っている女性たちの故郷なんだ」


 錆びた刀の突き刺さる祠に眠る二人の故郷。蛇穴。

 興味のある話かどうかと聞かれると、まあ興味を引く話ではあるのだけれど、それよりも私は黒鯱が野良猫の集会場を把握しているという事態に驚いていた。

 この男、やっぱり熊手や蛙の親父がいうように只者ではないのだろうか。


「……で、その蛇穴がどうしたんだい?」

「いやね、蛇穴でも君のような魂喰い獣の血を引く者を見たことがあってね」

「へえ、異国にも夜人がいるんだ」


 そう反応して、ふと同じような話を聞いたのを思い出した。

 十六夜じゃなくたって私たちみたいなのはいる。これについては知識として知っていた。だが、影鬼の少ない地方なんかではどうやって暮らしているのだろうと想像しても、なかなか想像に及ばない。

 でもまあ、蛇穴という場所は違うだろう。なんたって、そこから影鬼は来るようになったのだから、うじゃうじゃいるはず。


「そこでは夜人なんて呼ばれていないけれどね」

「だろうね。その名前はこっちのものだもん」

「そうだね。此処に来て驚いた。君たち夜人は穏やかだし、何より、昼人や周辺国の人間にも尊敬されている。あっちの魂喰い獣は大変なんだ。なんたって餌になる影鬼は皆、蛇の女神様の愛玩的存在なのだからね。誰もが恐れて手を出せないよ」

「え? じゃあ、何を食べて暮らしているの?」

「なんだと思う、明。君なら何を食べると思う?」


 嫌な予感がした。

 同時に、この十六夜町の歴史にも通ずるものがある。

 魂喰い獣の血がこの町の人間たちの間に広まり始めたのは非常に昔のことだと聞いている。それこそ、十四夜に眠る女性たちが沢山の影鬼を引っ張って来るよりも昔のこと。

 それまで、恰好の獲物である影鬼は殆ど存在せず、手頃な魂を持っている生き物もそういなかったらしい。じゃあ、何を食べていたのか。私たちの祖先は一体、どうやって暮らしていたのだろう。


「もしかして……人間かい?」

「当たり……だけど、それだけじゃない。人間だけじゃお腹いっぱいになれないからね。もっと腹の膨れる魂を持っている者だよ」

「魔性の類のモノ?」

「うん、その通り。自分より弱いと見込んだ奴はどんな生き物でも狙う。かく言う僕も食べられそうになったことがあるんだ。怖かったよ」

「――信じらんない。だって、私と同類のやつでしょ? 自分と会話できる奴を食べるなんて」

「うん、どうやら十六夜町の夜人達はそんな価値観を持っているみたいだね。でも、他所の国の――少なくとも蛇穴にいた魂喰い獣の子孫は開き直っていた。生きるために仕方ないんだって」


 信じらんない。

 でも、私の知らない世界の話だ。そういう奴らもいるということなのだろう。

 やっぱり信じられないけれど。


「まあともかくね、蛇穴の魂喰い獣は本当に何でも食べる。相手がたとえ、自分と同じ血を引く兄弟姉妹であっても、だ」

「嘘……そんなまさか」

「嘘じゃないさ。魂喰い獣は本来そういう生き物だからね。強い者が弱い者を支配し、どんどん力をつけていく。狙った獲物は絶対に逃がさない。どんな形態のものであるにせよ、しつこさでは蛇に勝るとも劣らないのさ」


 生きるために、他者を食らう。

 狩りの度に耳にして来た影鬼たちの悲鳴と怒声が甦る。

 あいつらだって生きているんだ。昼人を食って繁殖して、どうにか生き抜こうとしているんだ。

 そうは思っても、やっぱりしっくりこない。それと、同種食いとはやっぱり違う。

 隼人。野良猫仲間。蛙の親父に満月や新月。静海さんのような野良犬たち。誰を思い返しても、魂を狙おうだなんて思えない。


「いや、嘘だろう。仮に本当だとしても、そりゃあ私らと同じ生き物じゃねえ」

「まあ、そうだろうね。本来の魂喰い獣と違って君たちは全員が人間の血も継いでいるものだから。奴らよりはもっと理性的だろうさ」

「じゃあ、なんでそんな話すんのさ。特に意味ないんだったらそろそろ寝かせて貰うよ」

「――いやね」


 ふと、黒鯱の雰囲気が変わった。

 流し目。他国の人間とそう変わらない色をしていたはずの目が、薄っすらと赤くなったような気がしたのだ。きっと気のせいだろう。あまりにも眠たくてそう見えたのかもしれない。

 けれど、その姿は異質なものに違いなかった。


「旅先でよく聞くんだよ。魂喰い獣の血を引く半妖たちの暴走をね」

「暴走?」

「ああ……暴走だよ。昨日まで温厚であったはずの者たちが、急に暴れ出して他者を襲い始めるというものをね」

「魂喰い獣の血を引く者の暴走?」


 少なくとも、十六夜町では聞いたことがない。

 ――のだけれど、ふと思い出す。夜人の中には気が狂ってしまう奴らがいるものだ。影鬼ではなくて旅人や昼人を襲い、魂を喰ってしまうような危険人物。中には、同じ夜人を襲う者もいるそうだが、そういった者がどういう人物だったのかを知ろうとしたことはない。

 もしも、彼らも昨日まで普通の夜人だったとしたら……。いや、考えたって仕方ない。単なる妄想だし、黒鯱の噂話に過ぎない。

 そんな私の表情を見て、黒鯱は苦笑した。


「信じていないね。まあ仕方ないか。でも、明。親切にしてくれた君には教えておくよ。僕が此処に流れてきたのはね、実はしっかりとした理由があったんだ。十四夜にある祠に用があった為なのだけれど、それだけではなくて……この町に迷い込んでいる狂った魂喰い獣を追ってきてのことでもあったんだよ」

「狂った魂喰い獣?」

女豹めひょう、というらしい。左の目元に豹紋のような痣がある。君のような野良猫にも近いが、海を渡った近くの大陸から流れてきた魂喰い獣の血を引いている女だ。彼女は飢えのあまり蛇穴で罪のない人間を殺した殺人鬼だ。そしてその人間を守ろうとしたアヤカシや半妖たちも多数犠牲になっている」

「ま、待ってくれよ。つまり、あんたが言うのはあれかい? 影鬼以外の者を狙うような殺人鬼が紛れ込んでいるっていうことなのかい?」


 冗談じゃない。人狼騒ぎだって起こっているのに、さらには殺人鬼?

 にわかには信じられない。というか、信じたくない。この男、口から出まかせを言って私を騙そうとしているのではないだろうか。ああ、そうだ。熊手だって蛙の親父だって、ずっと黒鯱を怪しんでいた。もしかして、私を騙そうとしているんじゃないだろうか。


「信じていないね。でもまあ、仕方ないか」


 そう言って、黒鯱はすっと立ち上がった。


「まあ、君には伝えておいたから、よくよく気をつけるといい」


 その目が赤みがかかっているのはやはり見間違いではない。

 妖艶な女のような雰囲気の黒鯱は、そのまま私を残して立ち去ってしまった。狭い路地に消えていくその背を見送りながら、私はしばし彼から聞かされた話の余韻に浸っていた。


 ――殺人鬼。


 その響きが不協和音のように不快感をもたらしてくる。

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