巻末特別 読切 短編 別府忠夫
夕暮れのバルコニーで、別府忠夫はひとり佇んでいた。
手には冷えかけたコーヒー。隣のプランターでは、倒れかけたガジュマルの木が風に揺れている。
「今日は……風が強いな」
それは彼の口癖だった。強くても弱くても、とにかく毎日言っていた。天気に意味があるわけじゃない。ただ何かを呟くことで、自分が生きていることを確認しているのだ。
ピンポーン。
唐突に鳴るドアホン。忠夫はビクッとする。宅配か?いや、またアイツか?
忠夫はそっと玄関に向かう。だが、途中で足がティッシュの箱に引っかかり、まるで重力に裏切られたようにズルンと転倒。
「……イテテ」
床に顔を打ち、鼻の中に何か温かいものが垂れてくる。
ああ、また鼻血か。くしゃみのしすぎだ。
ドアホンは、なおも律儀に鳴り続けている。
忠夫は起き上がり、何とかドアを開けた。
そこに立っていたのは――ロボだった。
ピカピカの合金ボディに、なぜかふんどし。そして「道鏡・零式」と彫られたプレート。
「えーと……道鏡、さん?」
「……忠夫。貴殿を抹消対象に認定した」
「うっそだろ!?」
忠夫は反射的に玄関ドアを閉めた。しかし、ロボは静かに押し開けてくる。油圧の音がいやに静かで、かえって恐怖感をあおる。
「なぜ……なぜオレなんだよ!」
「未来の歴史において、貴殿が誤って保存されたガジュマルを通して時空を歪めたと判明した」
「ただの観葉植物じゃねぇか!」
逃げる忠夫。キッチンへ。冷蔵庫の裏へ。洗濯機の中へ。だがどこに逃げても、ロボは静かに追いかけてくる。
そして、ついにバルコニーへ追い詰められた。
夜風が吹く。遠くの街の明かりが瞬く。
「さあ、別府忠夫。最後の言葉は?」
忠夫は、そっとガジュマルの鉢を撫でた。倒れかけた木は、彼の人生そのもののようだった。何度も倒れ、それでも、立て直されてきた。
「……なあ、道鏡ロボ。オレさ、確かに何の役にも立たないかもしれない。鼻水ばっか出て、くしゃみして、ティッシュ外して、転んで……でも、それでも……生きてんだよ」
ロボは一瞬、動きを止めた。
「貴殿……感情データ、検出不能な価値観……」
その一瞬の隙に、忠夫はティッシュを丸めてロボのセンサーに投げつけた。
命中。
「うわ、すごい、今日当たった!」
ロボは機能を一時停止した。
その静寂の中、忠夫はガジュマルを支え直し、ベランダに腰を下ろした。
風が吹く。
「……明日も、生きるだけだな」
そう呟く忠夫の横で、ガジュマルの葉が微かに揺れた。