影の太子
玉座の間の空気が変わった。
冷たさでも、熱でもない――
**“存在の密度”**が濃くなっていく。
太子の目の前に、黒い霧が集まる。
それは人の形を成し、そしてゆっくりと顔を上げた。
「……誰だ、お前は」
そう問う太子に、影は答える。
「私は……お前だ」
影の太子――その姿は、太子と瓜二つだった。
いや、それ以上に、太子が持ち得なかったはずのもの――
怒り、憎しみ、欲望、悲哀、失望、傲慢――
そうした感情が**純粋な“負”の拳理**として、影を構成していた。
「お前が理想ばかり見ていた間に、
この影の中で、俺は拳を磨いていた。
人の救いなど幻想、拳にあるのは勝敗と支配だけだと――そう、教えられてな」
太子は目を伏せた。
胸の中に、確かに自らも抱えていたはずの闇を感じていた。
そのとき、背後から煬帝の声が響いた。
「太子……これは、お前が乗り越えるべきもんだ。
拳で語るなら、まずは己の闇と話してこい」
太子は頷き、一歩前へ出た。
「なら、話そう。拳で、語ろう」
影の太子が動いた。
足音もなく、一瞬で接近し、拳を突き出す――
太子が受け止める。
衝撃が、羅刹殿の石床を割った。
ゴゴゴゴ……!!
影は低く囁く。
「お前は、無数の声に応えようとしすぎた。
誰もが救われるなんて、傲慢な幻想だ。
お前が救えなかった者たちは、俺の中で今も叫んでいる」
太子の脳裏に、かつて倒れていった民の顔がよぎる。
飢え、戦、病、裏切り――
それらの悲鳴が、拳に宿って襲いかかってくる。
太子は耐える。
拳を食いしばり、言葉を吐いた。
「それでも……僕は拳を握る。
絶望のためじゃない。
たった一人でも、笑ってくれる者のために……握る!」
叫びとともに、太子の拳が輝く。
それは“正義”でも“勝利”でもなく――
希望の拳。
太子の拳が影を打ち抜く。
光と闇がせめぎ合い、玉座の間に渦を巻いた。
影の太子は、崩れながら微笑んだ。
「……悪くない。
俺も……ずっと、救われたかったのかもしれないな……」
太子は、倒れゆく影に手を伸ばす。
「これからは……一緒に、生きてくれ」
影が微かに頷き、霧となって太子の中に還っていった。
煬帝が後ろからぼそりと呟いた。
「……乗り越えたな、己の拳」
太子はゆっくりと振り返る。
「これが……僕の拳。
綺麗ごとかもしれない。でも、僕は――この拳で、世界を繋げたいんだ」
その瞬間、玉座の間の天井が開き、
光が差し込んできた。
玉座に座っていた王たちの霊が、太子の拳に静かに頭を垂れる。
「拳の継承者よ。次なる試練を受けよ」