焔は心に宿る
ふたたび拳が交差する。
轟音はもはや聞こえない。
炸裂するはずの衝撃が、羅刹殿の中心にて、吸い込まれるように沈んでいく。
まるで魂と魂が等しい重さでぶつかったときだけに生じる、“無音の一撃”。
その余韻の中で、太子と煬帝は、拳を組み合ったまま、わずかに体を離さない。
互いの呼吸が、相手の胸を鳴らす。
「感じるか……?」
太子が静かに呟いた。
「おまえの拳の奥にある“炎”……それは、おまえだけのものではない。
王となった時から、おまえの焔は、民の痛みや、父への憎しみ、弟への嫉妬すらも呑み込んできた……」
「やめろ……やめろ太子……!」
煬帝の仮面の奥の声は、まるで幼子のようだった。
王でも帝でもない、一人の名もなき少年の呻き。
その声を覆い隠すように、煬帝は拳を抜き、もう一度、太子を打とうとする。
だが――拳は止まった。
太子の手が、その拳を包んでいた。
まるで、慈しむように、そっと、静かに。
「その拳には、まだ“温もり”が残っている。
そしてそれは、かつて“誰かを愛した記憶”だ」
煬帝の目が見開かれる。
*
――過去。
父の冷たい言葉に背を向け、ただ一人の兄として、弟・楊俊の寝床に忍び込んだ夜があった。
何か一つ、弟に与えられるものはないか。
楊広が差し出したものは、小さな木彫りの獣だった。
「兄上、これは……」
「虎だ。“王の象徴”だ。おまえにはこれが似合う。……俺には、似合わない」
弟は嬉しそうにそれを抱いて眠った。
兄は背を向け、闇の中で泣いた。
*
太子の声が届く。
「おまえが“王”を名乗るために捨てたものは……かつて、おまえが“王”ではなかった時に、持っていた宝物だ」
煬帝の拳が、震え、力を失う。
「その拳に……そんな言葉を重ねるなッ……!」
仮面が――砕けた。
ひとつの拳でなく、太子の“想い”が、煬帝の仮面を壊したのだ。
露わになった顔。
そこにあったのは――老いた支配者の威厳ではなく、父に愛されたかった一人の少年の顔だった。
「俺は……何を……守ってきた……?」
呆然と呟く煬帝に、太子はそっと手を伸ばした。
そして、拳を開く。
「その答えは、これから見つければいい。俺のようにな」
長き戦いの火種が、いま、ひとつの鎮火を迎えようとしていた。
だが――その瞬間、羅刹殿の奥から、異様な音が響いた。
ググググ……グワァアアン――!!
太子が顔を上げる。
煬帝も目を見開く。
「まさか……!」
「まだ、“誰か”がいるのか……?」
羅刹殿、最奥の扉が開く。
そこに待っていたのは、帝をも傀儡として操る、“真の黒幕”の影――!