悲しみの会見
風が止んでいた。
草原を後にし、太子と秦河勝は都へ戻ろうとしていた。途中、太子のもとに一通の文が届けられる。
それは、額田皇女からの会見の申し出だった。
――会って話したい。あの日、あなたが「拳とは何か」と語った続きを、聞かせてほしい。
その文に、不審を覚えながらも、太子は応じた。額田皇女はかつて、文と和歌をもって朝廷を支えた知性の象徴。だが、蘇我馬子が敗れた今、彼女がどう動くか、それは太子自身の拳に試される機会でもあった。
会見の場は、霞のような霧が立ちこめる庭園。
月が空に滲んでいる。
太子が静かに現れると、額田皇女は、かつてのままの美しさでそこにいた。
だが、その瞳には、鋭い光が宿っていた。
「ようこそ、太子」
そう言った次の瞬間――彼女は懐から細剣を抜き、太子へと疾駆した。
「!?」
紙一重で太子はかわし、地を滑るように距離をとる。
「なぜだ、額田皇女……!」
「貴様のような存在が、この国の芽を摘むのだ!」
声は烈火のごとく。
「理想を語る者が、一番厄介なのだ。誰よりも美しく、そして人の心をかき乱す……そう、お前は“誘惑”だ!」
剣を掲げる彼女の目には、狂気と、冷たい知性が宿っていた。
「馬子? ああ、あれは容易かった。お前ほどに心を護る術を持たなかったからな。だが……お前には効かなかった。あのときからわかっていた。お前には“私”が入っていけない!」
太子は静かに構える。
彼女の怒りは、政治の理でも、家の因縁でもない。もっと深いところ――国家という幻想を抱えた魂の、嘆きだ。
「私はこの国に秩序を築く。そのためには、“予測できぬ光”であるお前が、最も不要なのだ!」
「額田……!」
「私は、理性の神を信じる。沈黙でも、情でもない。数と統制と、形のある未来を!」
――斬!
額田の刃が太子の袖を裂いた。
その技量は、ただの歌人ではない。血塗られた政の裏で、何を積み重ねてきたのか。彼女の拳(あるいは剣)には、重みがあった。
だが――
太子はその剣を指二本で止める。
「だが、それは……“魂を数える”ということだ。額田皇女。あなたが望む未来に、人の心の揺らぎはあるのか」
しばしの沈黙。
額田の目が揺れる。剣を取り落とす。
「やはり……お前だけは……」
月が霧の中に沈むように、彼女の姿が朦朧となるが、今度は別の剣を手にしていた。
「この国を守る決意の程をお前の拳に聞きたい……うまやど」
太子は剣の傷を見つめながら、拳を握った。
心がまた一つ、深くなる音がした。