馬子の慟哭
東の空が白みはじめた。
草原の露が、夜の熱を逃しきれずに輝いていた。
倒れ伏した馬子は、ゆっくりと顔を上げる。
その頬に、ひとすじの線があった。血ではない。それは涙だった。
「……泣いている、のか?」
太子は思わず口にした。目の前の敵、いや、かつて敵と呼んでいた男の頬に、静かに涙が流れていたからだ。
馬子は口元に笑みを浮かべる。
笑みといっても、それは冷笑ではない。皮肉でもない。ただただ、疲れきった男の微かな微笑だった。
「ふっ……まさか……わしが……この歳になって泣くとはな……太子よ、おまえの拳が、わしの胸ではなく、もっと深いところに届いたらしい」
太子は黙って聞いていた。
「わしは……あのとき、諦めたんだよ。民も、国家も、信仰も。すべては権力に過ぎぬ、と。奪うか、奪われるかだ、と」
彼は右手で自らの胸を押さえた。太子の拳が当たった場所。
「だが、おまえは違った。守るために拳を振るう? 笑わせるな……いや、もう笑えんか……」
風が草を撫でる。ふたりの間に、沈黙が流れる。
遠くで、倒れていた秦河勝が呻き声を上げた。太子は振り向いたが、馬子は手を上げて言った。
「行け。あの男を助けてやれ。あれだけの信念を持つ男だ……殺すには惜しい。いや……おまえの拳は、もう殺しの拳ではなかったな」
太子は、そっと馬子に背を向けた。そして、倒れている河勝のもとへ向かう。
「太子」
背後から、馬子の声が呼び止める。
「その拳……いずれ、おまえ自身をも壊すかもしれんぞ」
太子は振り返らず、ただ答えた。
「それでも私は、拳を信じたい。言葉では届かぬ心を、拳で伝える道を——」
馬子は目を閉じた。涙は止まっていたが、その頬には、幾筋もの過去が刻まれていた。
「……立派になったな、うまやど」
初めて、馬子は太子を名で呼んだ。
やがて、馬子はそのまま静かに横たわり、動かなくなった。死ではない。ただ、戦いから退いた者のように。
太子は、意識を取り戻した秦河勝を背負い、草原をあとにした。
朝陽が、彼の背を照らしていた。