夜の草原で
夜の草原に、風が吹いていた。
東の空には月もなく、ただ雲が流れ、星々が冷たく瞬いている。
その闇の中、血を流して倒れているのは——秦河勝だった。
太子はその傍らに膝をつき、震える手で彼の額に触れた。まだ息がある。だが、意識は戻らない。
戦ったのだ、この男は。自らの信じる拳で、蘇我馬子という怪物に。
「太子よ」
闇の中から、声がした。深く、低く、ひび割れた大地のような声。
蘇我馬子が立っていた。
黒い法衣に身を包み、数珠を手に絡ませながら。
その背には、地上の重力に抗うように、赤い光がめらめらと立ち昇っていた。
それは——「天聖心」。
だが、太子のそれとは異質だった。
まるで神ではなく、呪いのように、闇の力に支えられている。
「おまえのその拳……“慈しみ”などとぬかしたな」
馬子は笑う。
「この世に慈しむ者などおらぬ。民は愚かで、神は黙す。拳は——裁くためにあるのだ」
太子は立ち上がった。
冷たい風に髪をなびかせながら、ゆっくりと馬子に向き直る。
「拳は、言葉にならぬものの代弁だ。裁くためのものではない。魂の声だ」
馬子の瞳が細くなる。
「その答えが出るまで、何人倒れる?」
「それでも、私は拳を掲げる」
太子は言った。
「あなたが、力だけを信じるのなら——その信仰ごと、打ち砕く」
その瞬間、馬子の足元から大地が割れた。拳を打つ前に、「気」が天地を裂いたのだ。
馬子の拳は——重い。冷たい。まるで神の呪詛だ。
太子もまた、「天聖心」を燃やす。
静かに、だが確かに、胸の奥に「光」が立ち昇ってくる。
馬子の拳が唸る。太子はそれをかわす。拳が地を叩くたび、大地がひび割れる。
次の瞬間、太子の拳が放たれる。だが馬子は微動だにしない。逆に、一歩、近づいてきた。
「おまえは甘い」
馬子の拳が、太子の肩を撃つ。骨がきしむ。
「おまえは、なぜ“人”に期待できる?」
太子は耐えながら、静かに言った。
「私は、“人”を諦めない」
夜の草原に、拳と拳がぶつかりあう音が響いた。
風は止み、星は黙したまま、二人の戦いを見守っていた。