九尾の狐
籠城戦から掃討戦へと移った柳川の情勢は安定したように見えていた。
事実、援軍到着から約一日で周辺に押し寄せた魔物の半数以上を討伐していた。
しかし、立花家からの情報共有を受けた救援軍の大将である長野業盛は片眉をあげた。
「魔物どもが統制されているように見えたじゃと? それは確かか宗平殿」
「はっ、前線に出ていた息子を含め、真田家の忍びからも同様の報告が上がっております」
「ふむ…魔の森に関しては立花と真田の方が詳しい。信ぴょう性は高いとするべきじゃの」
「私自身も城壁の穴を塞ぐ際には前線におりましたが穴を開けた後、そのまま抜けた魔物と穴を維持するように陣取る魔物とに別れておりました。あのような動きは見たことがありませんでした」
「きな臭くなってきたのぉ…」
もしも魔物を指揮する存在があるとすれば安堵するには早いし事態の危険度は跳ね上がる。
指揮するものを探し出さねばまた同じような襲撃があるかもしれない。
知性あるものがいるならば今回の失敗を経て対策を講じてくるだろう。
その時、柳川と上田の地が今回のように死守できるとも限らないのだ。
「はてさてどうしたものか。幸い前線の状況は悪くない。その存在の探索も命じてみるかの」
「ではそのように伝令を…」
そのとき爆発音が響き渡った。
反射的に立ち上がった宗平と業盛が城壁へと登り、音の方角を見ると燃える大地と白い蒸気の中に伊達地竜隊がいた。
周りには溶けきらなかった氷壁の残骸が転がっている。
「助かりました。雹彩真君様」
「礼は良い。それよりも城壁まで下がれ。あれは汝らの手には余る」
「承りました」
伊達地竜隊が撤退を開始したのを確認した彩は先ほど攻撃を仕掛けてきた相手のいる空へと目を向ける。
黒を基調とした着物に身を包んだ幼い少女が宙を漂ってる。
和装を引き立たせる黒髪は腰元まで伸びており頭部には髪色と同じ三角型の耳がピンと立っている。
その尾骨のあたりからはゆらゆらと九本の尻尾が揺らしながら地面へと舞い降りた。
ほとんどの人間はその整った顔立ちと優雅な所作、美しい尾に目を奪われた。
「なんと……まさしくあれは…」
この場で一番の年長者である長野業盛だけは自分の幼少期に祖父から聞いた御伽話の一つが脳裏に浮かんでいた。
「久しい顔が出てきたものだな」
「てっきり隠居でもしたのかと思っていたよ。ねぇ、お狐さま?」
いつの間にか彩の横には焔正樂雲真君こと樂と岩散幽甲真君こと幽が控えている。
幽が語りかける口調は顔見知りに対するものだが声色は鋭い。
「妾とてうぬらのような老木に会いとうなどなかったわ。…ましてや憎き人族の顔など虫唾が走る」
「そんな引きこもりのお狐さまがどうしてここに?」
「決まっておろう。うぬらはまだしも、愚かな人族共は争いとこじつけて森を荒らし傷つけるであろうが。妾はそれを許さん。それだけじゃ」
九本の尾を揺らし口元を扇で隠しながら狐人は目を細めた。
視線の先には伊達地竜隊が戦いの最中に折ったであろう木々があった。
「それは申し訳なかったね。人の子たちも余裕がなかったんだよ。彼らも故郷を脅かす敵を退けようと必死だったから。それにしても…まさか魔の森の最深部にいらっしゃる森の女王様がこのような大侵攻をするなんて思わなかったね」
「相変わらず口が回るようじゃな、幽甲よ」
「君ほどじゃないよ、符葉」
符葉と呼ばれた狐人はふんっと鼻を鳴らし周辺に転がる魔物の亡骸を一望した。
「…確かに妾は人族を滅ぼしたいと思うほどには憎んでおるし恨んでおる。じゃが此度の乱は妾の意図したものではない。そもそも妾たちをこのような雑魚と一緒にするでない。第一、妾はこのような半端な魔物の群れ如きで人族が滅びるとも思っておらん。人族がしぶといことは妾が一番理解しておるわ」
「それを信じろと?」
「本気で滅ぼすのなら妾や他の者が先陣を切って蹂躙しておる。その方が手っ取り早い」
「…それはそうだね」
符葉の力をよく知っている幽には嘘をついていないとわかっていた。
何故ならかつて、四大仙公は符葉の支配領域である魔の森の最深部、那須山に乗り込んだことがありそこで彼女や彼女の仲間と戦った経験がある。
なんと符葉は仙人である幽たちと戦い、彼女らを退けているのだ。
「つまり君はこの戦いを止めてくれると考えて良いかな? 符葉」
「人族を助けることになるのは癪じゃが此度に関しては妾にも責の一端がある。故に」
符葉が言葉を切ったタイミングで彼女の後ろに少女と青年が現れた。
一人は猫の耳を生やした少女。
その尾には二本の尻尾が忙しなく揺れている。
もう一人は肌の露出がほとんどない服を着た背の高い青年で一見すれば人間にしか見えない。
しかし、手の甲には鱗状の皮膚が見える。
「符葉さまー、西側のお掃除おわりましたー」
「同じく東側の掃討、完了しましてございます」
「ということじゃ。これでしばらく魔物が群れを成して襲うことはないじゃろう。これで満足か?」
「うん。やっぱ符葉はいい子だね」
「や、やめよ! 引っ付くな! こら、妾の頭を撫でようとするでない!」
先ほどまでの一触即発の空気が霧散し幽が符葉を抱きしめ逃れようとしている。
突然現れた二人はというとそれぞれ彩と樂と話し始めた。
「ひょーさいちゃんお久ー。元気だった?」
「うむ。汝も息災だったようで何よりだ」
「えーありがとー。今度お山においでよ、ひょーさいちゃんほど楽しく戦える相手がいなくて困ってるんだよねー」
「機会があればお邪魔しよう」
「わーい! その時は美味しい果実も出すよー」
「樂雲殿、百年ぶりといったところですかな」
「そうだな。我は一度しかあの山へ足を運んでいないゆえそれくらいか」
「あの時、樂雲殿に負けたおかげでさらに強くなれました。感謝します」
「ほう。再戦を希望するか?」
「機会があれば是非に」
「そちらが良ければ喜んで相手になろう」
「きっと符葉様もお許しになられるかと」
「楽しみだ」
「私もです」
かつて戦った戦友と語らっていると不意に空に光り輝く膜のようなものが浮かび上がった。
「いったいなんだあれは…?」
「あれは結界…なんて膨大な力じゃ…しかもこれは…精霊様の気配じゃと…?」
柳川周辺で戦っていた兵達も、仙人と狐人の語らいを見守っていた将達も、仙人や狐人でさえ空を見上げて目を剥いた。
困惑していると空が突然眩い光を放ち世界から色が消えた。
閃光がおさまると何事もなかったような空が広がっている。
「符葉、何が起こったかわかる?」
「いや、妾も見たことがないものじゃった。じゃがあれの直後から人間共から魔力を感じれるようになった」
「わからないけど…魔封じの大結界が消えたのかも…」
「スオウの人間たちの争いを見かねた六柱の精霊王様が施されたという魔力を封じる大結界のことか。じゃが何故じゃ? 何故今あの大結界を解き放ったのだ。うぬらもわからぬのか?」
「私たちは何も聞いていない。何が起こってるの…?」
「お話のところ失礼致す!」
未だ混乱している仙人達の元に業盛が馬に跨り走り込んできた。
「何事だ、業盛」
「一大事でございます! 先ほど河越から狼煙と伝令が参り文には…京都へ超大型魔獣と魔物が多数襲来、至急戻られたしとのこと! 既に第一級警鐘が鳴ったとの報告も上がっております」
「なんだって!? しかも…超大型魔獣…!?」
幽の頭に過ぎるのは先日語ったばかりの存在。
山のような巨躯を持つ漆黒の鯨。
三人の仙公は半ば確信に近い予感を感じていた。
「なるほど、合点がいったわ。少なくない魔物が妾の言うことを聞かなくなり、大規模な侵攻を始めたのは妾以外であの獣たちを率いることのできる者が現れたから。この地で魔物が侵攻を始めたのは主だった人間共の戦力を狙いから遠ざけるため。つまりは初めからうぬらの都を落とすための策だったということじゃな」
「それが狙い…! なら狙いには姫様も……」
「待て」
思い立った瞬間、三人の仙人が駆け出そうとしたのを符葉とその従者たちが立ち塞がり制止する。
いち早く守るべき存在のもとに駆けつけなければならない三人は濃密な殺気をぶつけた。
だが、向けられている符葉はどこ吹く風だ。
「いくらうぬらでもここから人間の都まで駆けたところで数日はかかる。ろくな戦力がいないであろう都はその間に蹂躙されるじゃろう」
「それでも早く行かなきゃならないんだっ! そこを退け符葉!」
「そう焦るでない。妾とて顔に泥を塗られておるのじゃから当然その報いを受けさせなければ気が収まらん。故に手を貸そう」
そういうと符葉は自身と三人の仙人にいくつかの魔術をかけた。
「妾がかつて力を借りた精霊様から教わった術じゃ。魔力、うぬらに合わせた言い方をするなら仙力を用いて身体能力を上げるというものと疲労遮断の魔術、それと風を纏うことのできる魔術をかけた。これで休まず走れば一日で辿り着けるじゃろうな」
「…さっきは取り乱してごめん符葉。ありがとう」
「よい。それよりも今は向かうところがあるのであろう」
「…そうだね。樂、彩、いけるよね?」
「愚問だ。いくぞ」
「…急ごう」
「うん。業盛、君たちも部隊を再編してキョウトへ向かってくれ」
「ははっ!」
業盛が長城へ戻るのを見送り三人の仙人と狐人がキョウトへ向かおうとした時、突然魔の森林から巨大な蟹の魔獣が十体以上現れた。
その大きさは城壁と同じかそれ以上。
「急いでいる時に…!」
「なんじゃあの魔物は。妾は知らぬぞあんなデカブツ! ちっ…玉、玖!」
「はーい」
「おまかせを!」
玉と呼ばれた少女と玖と呼ばれた青年が巨大蟹に肉薄する。
玉の数メートルまで伸びた爪と玖の刀を巨大蟹は両腕で受け止めた。
ガキィィィィン!!!!
鋼鉄同士が高速でぶつかったような音を響かせながら巨大蟹は二人の攻撃を捌いてみせた。
これには二人も符葉も驚愕していた。
「…何あの硬さ。符葉様の結界と同じくらい硬いかも」
「たった一太刀で刀が刃こぼれしましたか…」
「これは放ってはいけない相手のようじゃな」
「符葉達でどうにかなりそう?」
「…五体程度であれば抑えられたじゃろうが十を超えておる。全てを抑えるのは難しいやも知れぬ」
「そんな…!」
「あれは人間にどうにかできるものでもなかろう。放っておけばこの国の半分は容易く蹂躙されるであろう。妾たちが全力で片付ける方が現実的じゃ」
「…最速で倒そう」
「仕方ない本気でいくとしよう」
覚悟を決めた三人の仙人が力を解放し、那須山の女王が魔術を展開し始めると巨大蟹たちもそれを感じ取り距離を詰め始めた。
しかし、両者が激突する前に風が吹き抜けた。
一匹一匹がS級上位の力をもつであろう巨大蟹十数体が、先ほど信じられない硬さを見せた甲殻が、音もなく身体を両断され地に伏せた。
見間違いようのない確実の死であった。
「んっー…! やっぱり気兼ねなく力を振るえると気持ちがいいね」
両者の間にゆっくりと降りてきたのは若竹色の髪を翻す少女であった。