エバーグリーンハイツのオールグリーンじゃない住人たち
午前四時。
夏場の日差しを避けるために、早朝に起き出して植物に水をやっていた私は何気なく階下の音に目をやる。
背中の曲がったよれよれのTシャツを着た老人が、トボトボとゴミ袋を片手に歩いていく。
私の生活時間が変わって、最近ようやく目にするようになった住人、ひきこもり老人、103号室の鏡氏だ。
一度だけ正面から遭遇した時の、中途半端にざんばらに伸びた白髪の間から見上げて来るどよんと濁った目が、忘れられない。
隣の波佐間さんとは相性が悪いらしく、何度か隣の音楽の音が煩いと大家さんに怒鳴り込んでいるらしい。
しかし今度は、某大手機械メーカーのエンジニアだったらしい鏡氏が数日前から、とうとう波佐間さんの音楽に対抗して、怪しげな放送局を爆誕させたらしく、夜中から早朝まで何語か分からない音楽ラジオが館内BGMのように共有スペースに流れている。
途切れがちでノイズの多い館内放送のようなそれは、ビートの感じとか曲調とか、無駄に怪しげで何となく宗教染みていてちょっと不気味だ。
ちなみに102号室の波佐間さんは売れないミュージシャンらしく、伸ばしっぱなしの髪の毛を適当にくくって、いつもよれよれのジーンズに真冬でも半袖のネタTを着ている。
外出すれば職質まっしぐらの不審人物だ。
長身痩躯の上に猫背の波佐間さんと、背が曲がった小柄な老人の鏡氏の組み合わせは、意外にも鏡氏の方が圧倒的な迫力勝ちだ。
101号室の飯田さんは、どうやらゲームの実況とかで食べている人らしくて、時々波佐間さんと音問題で口論している。見た目の印象は、マシュマロマンとか猪八戒とか、そういう感じだ。ちょっと視覚的に優しくないサイズ感だと思う。
203号室の北島さんは、入居の挨拶に行った時と、今の同居人が違う。
しょっちゅう彼女と飼い犬が入れ替わる、女性関係の派手な自称Web関係の会社の社長らしい。やたらと若作りのチョイ悪系オヤジだ。
だけど、一番謎なのは3階のワンフロアを占有している西崎さんだ。
大家さん情報では大手化学メーカーの研究員で、実験マニアらしいけど時々異臭騒ぎを起こす。オンとオフの時、つまり出勤時と家でダラダラしている時の見た目のギャップが破壊的な人だ。
202号室は今のところ空き部屋らしくて、それ以外の濃すぎるメンツに、私は隣の住人がいなくて良かったと本気で思っていた。
この地域では、セキュリティがしっかりしている割に破格に安い物件じゃなければ、こんな変人の巣窟みたいな環境、すぐにでも引き払いたい、そう思うぐらいには隣人たちは誰もかれも突き抜けた個性の持ち主ばかりだった。
それが、私が住んでいるこのエバーグリーンハイツの住人たちだ。
「こんばんは」
ある日、帰宅した私に夕闇の中で声を掛ける紳士がいた。
そう、背広に、中折れ帽とかソフトとか呼ぶ昭和のお父さんたちが愛用していた帽子をかぶった紳士。
聞き覚えのある声に、思わずじっと相手を見つめた。
いつも色んな薬品の染みと異臭が染み込んだよれよれのTシャツと綿のパンツを履いている、風采の上がらない中年、西崎さんの声がする。
「こ、こんばんは」
思わずどもりながら挨拶を返した私に、彼はかすかに笑った気がした。
服装と夕闇マジックって凄い。
心なしか体格まで違って見えるから、凄い。
痩せ型で凡庸な雰囲気の普段の西崎さんとは、まるで別人に見える。
雰囲気までシュッとしていて、なんというか、身のこなしにまで隙がない感じに見える。
静かな足取りで共有部分の階段を上がっていく後ろ姿を見送って、私は妙に感心した。
人間、身なりって重要だと。
そしてその夜中も、相変わらず謎の館内放送が流れ、切れ切れに下手くそな歌が聞こえ、ドアを叩く音とやや興奮した様子の男の声、頭上では、ゴトゴトカチャカチャとかすかに器具を扱っているような音が聞こえる。
かなりカオスだ。
眠れない私は無言で音楽アプリを起動して、イヤホンを耳に押し込んだ。
いつにない叫び声と大きな物音に、飛び起きる。
上からも下からも横からも、怒鳴り声が聞こえる。
遮光カーテンを細く開けて外を見れば、白黒のペイントに赤いくるくる回る回転灯をつけたおなじみの車が止まっている。
「えー。なにコレ。今度は誰が何をしたのよー」
勘弁してと、布団をかぶろうとした私の耳にチャイムの音が飛び込んで来る。
「はぁ。ホント、勘弁してー」
のぞき穴から覗いた私は、観念してドアを開けた。
「すみません、夜分遅くに。申し訳ありませんが、事情を伺いたいのですが」
「ここの住人、煩いんでイヤホンして音楽聞いてたんで、多分私何も知らないですよ?」
思わず顔をしかめた私に、相手は明らかに仕事用の笑顔を向ける。
「や、形式的な質問だけなんで。あと、申し訳ありませんが家の中を見させてもらっても良いですか?」
瞬時に覚醒して、部屋の中を振り返り、まずいものが出ていないことを確認してしぶしぶ頷く。
「いやぁ、あなた運が良いですね。ここの住人、色々ヤバイ人たちなんだけど巻き込まれずに済んだとか、カモフラージュ要員だったからかえって安全だったのかねぇ」
「え?」
「あ、いやいや。こっちの話ですよ」
そう言って、刑事さんはニヤリと胡散臭い笑みを浮かべた。
「国際的な犯罪組織、……の構成員の……が本日、クアラルンプールで……」
テレビから流れて来たニュースに、何気なく目をやる。
そして私は、手に持っていた箸を取り落とした。
画面に大きく映し出された犯人の顔に、目が釘付けになる。
「西崎さん…?」
あの日、宵闇の中で見た顔によく似た輪郭の人が、画面にいて混乱する。
今もカタコトとかすかに音がする天井に、目が行く。
じっと画面を見つめて、考える。
西崎さんの顔が、だんだん曖昧になる。
彼は、どういう顔をしていただろうか。
眼鏡だとか、もっさりとした構わない雰囲気だとか、そういうものばかり印象に残っていて正確な姿かたちが今ひとつ曖昧だ。
妙な印象の薄さに、知らず知らず汗が流れる。
「まさか、ね」
小さく呟いて、私は窓を開ける。
窓からかすかに海の匂いがして、見慣れない街並みに、私は小さく笑みを浮かべた。
「なお、メンバーには自称Webコンテンツ制作会社社長の〇〇氏や、電子機器の構造に詳しい人物や、ミュージシャン、ゲーム実況で多数のフォロワーを抱える人物などの関与も……ネットによる情報操作や、音楽を利用した……」
ニュースの続きを流し続けるテレビの電源を切って、私は席を立つ。
隣人がどういう人かなんて、私たちは意外と分かっていない。
それでも、全ては過去なのだから問題などない。
「また、探さないとなぁ。良い感じのメンツ」
クスクスと、小さく含み笑いをこぼして私は家を後にした。