96.あの弟子の師匠
「あ…ウィル、ようこそ僕の部屋へ」
「あ、ああ、やぁテリー。…お邪魔するよ」
「「……………。」」
秘書官としてのテリーには、王城に専用の部屋がある。
シャロンはまだ正式な妃ではないため公務には携わらない。だから王太子宮から出ることも無いのだが、テリーは違う。彼には公の官吏としての仕事があるからだ。
「…あのさぁ、僕を見るたびに苦い水を飲んだような顔しないでくれる?僕だってかなり不本意なんだから」
「…お猿の君にはわからないだろうねぇ……。温かいものに包まれた幸せな夢から覚めた時に、自分が抱きしめていたものが全身毛だらけの生き物だった時の男の気持ちは……」
「あっそう。僕だって目覚めた瞬間に目にしたものが、かったい男の胸板だったわけなんだけど?」
「「……………。」」
「…まぁ冗談はさておき、グレゴリー殿は?」
「…冗談じゃ無いくせに。お師匠ね、さっきから呼びかけてるんだけど一向に返事がないんだよね」
「忙しい方だからね。こちらからの急な申し出だし…」
そう、僕が面会を申し込んだのはシャロンの師匠…今は名目上の父親である、グレゴリー殿だ。
ドレイクでの一件について、まずは話を聞いてみたかった。
「あ、水盆が動き出したよ。おーいお師匠!聞こえてるー?」
テリーが水が張られた平たい盆に向かって声をかける。
原理はシャロンがポポロを見張るために使った鏡に似ているらしいが、鏡が一方通行なのに対し、水盆は同じ水を使うことによって双方向のやり取りが可能な、いわば魔法使いの通信手段であるらしい。
「聞こえてますよ。静かになさい」
馴染みのある声が、水面から聞こえてくる。
「グレゴリー殿、ご無沙汰しております。お変わり……なぜ、裸?」
「おや、ウィル君、お久しぶりですね。何です?シャロンと喧嘩でもしましたか?」
「いや…怒らせはしましたけど、だから、何で裸」
「私も多忙な身なのでね、入浴中の私しか手が空かないのですよ」
「………………。」
この師匠にして、あの弟子あり。
「お師匠、ちょっと聞きたいことがあるんだ。…せめて上に何か羽織ってくれない?僕、男の胸板にはトラウマがあるんだよ」
「…嫌です。今日はフェザントの陛下から頂いた新しい入浴剤を試す日なのです。そのまま喋りなさい」
そうだった。この人は超のつくマイペースな人だった。
「…グレゴリー殿、入浴中失礼します。あなたに聞きたいことは、ドレイク村についてなのです」
目の前の異様な…気色悪い光景に気を取られている場合じゃない。…いやでも何だその大きなリボンのヘアキャップは。
「ドレイク?…聞いた事ありませんね。その村がどうしたのです」
…何なのだ、そのピンク色の湯は。
「…湖、フェザントとクレインの境目、フィシャール湖の側にある村です」
「…フィシャール湖」
「ええ。…実はその村で、クレインの民に遭遇しました。…魔力を持たない、魔法使いです」
「ほう」
グレゴリー殿がヘアキャップを取る。
そして一瞬消えたかと思うと、見慣れたローブ姿で水面に戻ってきた。
「何やら面白い事になっていますね。続けてください」
…最初からその姿で出てきて欲しいものだ。
「彼は、ドレイクに作物の種を求めて来ていました。…彼の村は飢え死に間近だと。そちらの国内情勢については今後学ばせて頂きます。重要なのは、どうやら彼…ポポロと名乗った男の魔法使いによると、はるか昔からドレイク村との交流があるようなんです。…それを許したフェザントの王の書状があると……」
グレゴリー殿の金色の瞳が、記憶を辿るようにどこか遠くを見ている。
「フィシャール湖の近くに住む魔力の無いものの村…おそらくホトリ村でしょうかね。残念ながら地方の農村がフェザントの国王と直接交渉をするような機会があったとは思えません。…いったいいつの時代の国王陛下でしょうか」
「いつの時代の……」
「ええ。あなたもご存知でしょう?我々クレインとフェザントに正式に国交が結ばれたのは、わずか150年前のことです。…それまでは、あくまでも、隣国としてお付き合いがある…という体を取っていた。…まぁ原因は我々側にあります。人間の国に合わせるという事は容易ではない」
人間の国…。
改めて聞くその響きは、僕の胸に少しだけ棘のように刺さった。




