後編
今回は後編です。
楽しんでいただけると幸いです。
郁乃が入ったその部屋は、誰が見ても一目瞭然な部屋で、誰も住んでいませんでした感が浮き彫りになっている部屋だった。
カーテンもレースもない窓。その窓からは太陽の光がダイレクトにフローリングを照らし、光の差し込みの中で舞う小さな糸くずがその部屋の汚れを物語る。
しかし、世の中で言うところの『汚部屋』ではなく、強いているのであれば最低限の家具――青い布団が敷かれたベッド、黒い箪笥と黒い椅子、鉄で作られたテーブルの上にある白いノートパソコン。ノートパソコンの横にある小さな長方形の写真立てには、郁乃と郁乃に話をしていた男が満面の笑顔でまだ太っていないムクスケを抱えている――幸せな写真が立てかけられていた。
それだけの部屋を見て、郁乃はすぅっと息を吸い、その部屋の空気を、匂いを鼻腔にいれ堪能すると、彼女はその匂いを懐かしく感じた後、彼女は歩みを進める。
小さく……、卓の匂いだ。そう言いながら……、彼女は写真立ての前に持ってきたコーヒーゼリーを、卓が好きだった大好物を『コトリ』と置く。
郁乃の言葉を聞いていた男は今もなお愕然とした面持ちで、俯きながら言葉を失っている。そんな彼のことを見ていたムクスケはむすくれた顔をしながら「にゃぁ」と一声上げると、部屋に入った郁乃が声を発した。
「ムクスケ。こっちにおいで」
主人でもある郁乃の声を聞いたムクスケは声がした方に首を動かし、太っている体を必死に『とてて』と走る音を出しながら郁乃のところに向かって行く。ムクスケの光景を見た男はそっと顔を上げ、郁乃とムクスケが向かった場所を見ながら、部屋の外で膝を付きながら彼女の声を耳に入れていく。
来ることは分かっていた。きっとこの時が来る。ずっとこんな時間が続くなど、ありえない。
そう思いながら、そう自分に言い聞かせながら、男は郁乃の言葉に、最後になるであろう郁乃の言葉に、耳を傾ける。
「ムクスケ、覚えている? 卓――私の彼氏で、結婚を前提に同棲していた人。いつもおしゃべりで、夢ばかり追いながら生きてきた。絵に描いたような夢見る少年のような男。覚えている? 見た目も格好いいのに純粋で、私に一目惚れしたとか言ってたくさんプロポーズしてきて、最終的に私が折れて、付き合って、彼から指輪をもらった。私が一番最初に好きになって、最後まで好きだった人」
覚えている? そう聞く郁乃の声は穏やかで、ムクスケの欠伸の声を聞いた郁乃は乾いた笑いを上げながら「覚えてないよね。あんた食っちゃ寝命の猫だもんね」と言うと、その笑いをやめた後、郁乃は続けて言う。
ドアの前にいる男を無視して……、ムクスケを抱え、その部屋の中心で体育座りをしながら、机の上にある写真立てを見つめながら、彼女は想いでを語る。
「出会ったのは今から五年前だけど、卓と過ごした日々は、おしゃべりの所為で五月蠅いとは思っていたけど……、だんだん面白くなって、次第に楽しくなって、流れるがままの人生だった、何の刺激もない人生を送っていた私に刺激と言う色を与えてくれていた。いろんな色が辺りに散らばって、花火のようにキラキラしてて、本当に心の底から楽しいって思っていた。でも……、それを私は」
壊してしまった。
その言葉を聞いた瞬間、男は顔を上げたまま茫然とし、ムクスケは郁乃の顔を見上げながら「なぁ?」と声を零す。
ムクスケの顔に降りかかる一つの水滴。それを受けたムクスケは嫌そうな顔をしながら前足で顔をごしごしとこするが、そんなムクスケのことを無視しながら、郁乃は言う。
震える声で、もう一度「私が壊してしまった」と呟いた後、彼女は続けて言ったのだ。
もう戻らない。後悔と悲しさが合わさったような顔で、無意識に流れる感情の表れを零しながら、彼女は震える声で言う。
「卓にはね……、夢があったの。漫画家になるっていう夢。なんかね、入院しなければいけないような病気で入院をしていた時に、友達から漫画を借りたらしいんだけど……、その漫画を見ていると不思議と勇気が湧いて来たんだって、それに影響してか、自分も勇気を与える漫画家になりたいって言って、いつもいつも漫画を描いて、それを編集者に持って行ったんだけど、なかなかできなくて、三年前にそのことを知った卓の両親が怒ったんだって。『そんな夢ばかり追っても生活なんてできないだろう』とか『夢で稼げるほど現実は甘くない。今すぐ諦めて就職しろ』とか言われて、私に泣きついてきたんだ。私自身卓の夢を応援したい気持ちはあった。でも私一人の稼ぎで二人分と、ムクスケを養えるわけがない。それに夢ばかり追っている卓に対して、苛立っちゃって、喧嘩になって……、そしたら……」
卓は――私の前に現れた。
帰らぬ人として。
「………………………」
「………………………」
「にゃぁ」
辺りに響くムクスケの声。
その声だけが無音と化していた部屋に嫌と言うほど響き、そしてその言葉を聞いた瞬間、男は愕然の顔が少しずつ苦しみ、わずかな怒り、そして多大な悲しみの歪みに変わり、彼はその場で勢いよく、床にその額を叩きつけるほどの勢いで突っ伏すると――
彼は……、卓は、叫んだ。
声にならないような叫びと共に、零れているにもかかわらず床を濡らさない微粒子の光となって彼の目から零れるそれを拭わない状態で、彼は叫んだ。叫び続ける。泣きながら、彼は叫ぶ。
そう――郁乃はずっと一人だった。
顔を洗う時も、ムクスケを抱えた時も、朝食を食べた時も食べ終わった時も、ずっとずっと、郁乃は一人だった。
ムクスケと言う一匹だけが彼女の同居人であり、男――卓の存在など、郁乃の目には映らなかった。
卓はもう、この世にいない――卓は今、郁乃に対して未練があるだけの存在なのだから、見えること自体あり得ないのだ。
つまり――卓は未練を持った状態で帰らぬ人になってしまった存在。
非現実的であり、非科学的かもしれないが、彼は彼女の傍にずっといたのだ――
幽霊として。
「郁乃……! いくのぉっ! ごめん……! ごめんな……! ごめん……っ! 長い間一人にさせて! 俺があの時出て行かなければ……! もっと冷静になっていれば……! 親父やお母さんの言うことをしっかり聞いていれば……! もっと郁乃のことを考えていれば……! 俺が、俺がもっと現実を見ていればぁ! こうならなかったのにぃ! ごめん……! ごめんっ! 郁乃ぉ……っ!」
卓は叫ぶ。荒げながら、目に溜まった光の粒子を雨のように零し、頭を抱え、フローリングに拳を叩きつけながら叫ぶ。
後悔と言う名の自責の念を声に表しながら、彼は郁乃に対し、自分のことを考えて、正論を言ってくれた郁乃に対して謝罪の言葉をかける。
己の愚かさのせいで、己の死の所為で色んな人を苦しめてしまった。心に傷を作ってしまった。そして……、大切な郁乃の心を壊してしまった。その後悔を責めながら、彼は何度も何度も謝る。
幽霊の声など聞こえない郁乃に対して、卓は謝り続ける。
卓の言葉ば度聞こえていない郁乃は、『にゃーにゃー』と泣きながら郁乃の顔に手を当てようとしているムクスケのことを見ながら「どうしたの? もしかして、私のこと心配しているの? ありがとう」と言った後、郁乃はムクスケの頭を撫でて再度写真立てに目を移すと、彼女は一度落ち着きを取り戻すための溜息を零す。
ふぅ――と、ゆっくりと深呼吸をするように。
その呼吸を終えた後で、郁乃は「最初はね」と言い、彼女はずずっと鼻をすすりながら話の続きを言葉にする。ドアの前で泣きながら謝罪している卓のことを見ずに……、いいや、気付きもしないまま、彼女は言う。
「卓の死を受け入れることができなかった。お義母さんやお義父さんが私のことを心配したりしてくれたけど、正直、参っていたんだ。私が卓を死に追いやったんじゃないのかとか。私が理解しなければいけなかったんじゃないのかとか。あの時もっと冷静に話せば、卓が出て行くことなんてなかったんじゃないのかとか、色々と考えて、精神的にも参って、心療科にも通っているけど、それでも思っちゃったんだ。私の所為で、卓が死んだんだって……」
「! 郁乃……!」
郁乃の声を聞いた卓は大泣きしていたその行動を止めたが、大泣きの顔面を晒し、郁乃の言葉を聞いた瞬間その部屋に入り込もうと這うようにして歩みを進めていく。
ずる、ずるっとなぜか体の力が入らない状態で、彼は郁乃がいる部屋――己の部屋だったその部屋に向けて手を伸ばしながら、卓は首を振るって言う。
「違う……! あれは俺の所為なんだ……! 俺の所為で俺の自業自得なんだ! 郁乃が悔やむことじゃない! 俺の所為だから……、俺が勝手に事故に巻き込まれたんだ! ちゃんと周りを見なかった結果なんだ! だから郁乃……!」
卓はかぶりを振りながら手を伸ばし、郁乃に近付きながら彼女に触れようとする。
郁乃、自分を責めないで。あれは俺の所為だから。だから泣かないで。
そう言葉を乗せる想いを込めて……。
しかし――
「そう思いながら過ごしてきて、だんだん受け入れてきた時にさ……、現れたんだよ。卓が――夢に」
「!」
郁乃は言った。はっきりとした声で、夢で出会ったと。卓に会ったと――そう彼女は言ったのだ。
ムクスケに向けて。その言葉を聞いていた卓に向けて。
郁乃は続ける。卓の部屋だったその天井を見上げながら、彼女は言う。
「ムクスケってどんな夢見るの? まぁ聞いても分からないか。でも想像はできるけれど……。私はね、いつもは私の部屋に有名歌手が紅茶を啜っていたりとか、へんてこな夢ばかりなんだけどさ……、今日だけは違った。今でもはっきりと覚えている。草原なのかな? 湖がある草原で、風が舞うその草原の音を聞きながら私、わんわん泣いているんだよね。しかも卓の名前を呼びながら、『すぐるーっ! すぐるーっ!』って、子供のようにわんわん泣いていたらさ……、卓が私のことを後ろから抱きしめてきた……、気がしたの。それでこう言ったんだ。『笑って――郁乃。もう大丈夫だから』って」
「!」
「夢なのにね……。泣いたり抱きしめられた感覚があったり、言った言葉を覚えているし、すごく不思議な夢で、それで二度寝しちゃったの。でも、起きてからも涙があふれて、止まらなくて、起きられるかなーって思っていたんだけど、何とか引いてよかったよ。それでね……、決めたの」
「………………………郁乃……?」
「今日ね、卓の命日なの。三年目の命日で、今まで私、彼の死を受け入れたくなくて、ずっと行かなかったんだけど、今日行こうと思うの。卓のお墓参りに」
「!」
郁乃の言葉を聞いた卓は息が詰まる様な驚きを感じたが、その驚きに負の感情など存在せず、逆の感情が彼の声を詰まらせた。
苦しさなどない……、言葉の詰まりを感じながら、卓は郁乃の言葉に耳を傾ける。上げる顔から零れる粒子を拭わず、涙ではない不完全なそれを流しながら……、卓は耳を傾ける。
郁乃は言った。
「私はずっと卓の死を受け入れられなかった。あんなに元気だったのに、死んだことを受け入れたくなかった。受け入れてしまったら、彼のことを忘れてしまいそうで怖かった。受け入れて次の幸せに向かって歩むことができなかった。と言うか、そんなことできなかった。だって……、卓のことを殺して自分が幸せになる資格なんてないって思っていたから、できなかった。受け入れたら、だめだって思っていた」
でも――
郁乃はその言葉を言い終えると同時に、一度呼吸を整えるために深い深呼吸をすると、郁乃は己の腕の中で自分のことを見上げているムクスケのことを見下ろすと、郁乃は言った。
はにかむように、その目に溜まる涙をこらえながら、彼女は震える声で言う。
今度は悲しい音色ではない。温かい気持ちを声にするように、彼女は震える声で言った。
「夢の中の卓は、もう大丈夫って言っていた。その言葉が本当に卓が言っていたなんて言う保証はない。でも、卓の言う通りかもしれないって今日思ったの。いつまでも泣いてばかりで、うじうじなんてしていたら卓に笑われちゃうし、何より夢の中の卓は言っていた。『笑って』って。だから……、もう泣くのは今日でお終い。これからは、卓の分まで笑って生きていこうと思うの。卓の死を受け入れて、卓の分まで生きて、お祖母ちゃんになって寿命を全うして、そして天国にいる卓に会う。それまで、悔いのない人生を送ろうと思う。卓の分まで生きて、そして悔いのない人生のお話を卓に聞かせる。彩を与えてくれた卓への恩返しとしてね。だから、空から見ててね。私の永遠のパートナーさん」
郁乃は言う。涙を流しながら笑みを浮かべて言う。
彼の死を受け入れなかった三年間考え、そして今回見たという夢をきっかけに、彼女は決めたのだ。これから歩む道の先を。
郁乃の言葉を聞いていたこの世の存在ではない卓は、驚きのまま固まっていたが、彼の体の奥から湧き上がる何かに気付き、卓ははっとして己の手や体を見る。まるで――心の奥底から湧き上がる何かが卓に変化を与えたかのように。
彼の心を襲ったのは温かく、優しい光。
彼のことを取り囲むように、まとわりつくように卓の悲しみを嬉しさのそれに変えていき、今の今まで粒子になって零れ落ちていた涙が光の粒となって零れていく。
未練と言う名の感情を糧に、郁乃の傍にいた気持ちが零れていくような濁りなどない光。
それを見て、そして郁乃の言葉を聞いた卓は四つん這いになっていたその体制から立ち上がり、己の手の向こうに見えるフローリングの光景を驚きの眼絵で見つめながら、彼は己の身に起きていることを理解した。
自分は、消える。
今まで郁乃の受け入れたくない感情が自分のことを繋ぎ止めていたおかげでこの世に留まることができたが、郁乃が前を向いて歩む決心をつけたことで、卓はその繋ぎ止める物を失ったのだ。
「っ! あ、そんな」
「さて、そろそろ行こうか。ムクスケも行くんだからねー」
「! あ、郁乃、待って……! まって!」
どんどん身体中を纏う光が多くなり、己のことを覆い隠すように光が増殖していくその状況に驚きを隠せず、自分と言う存在が消えるという恐怖を抱えながら卓は、墓参りのために身支度をしようとしている郁乃と、彼女の腕の中にいるムクスケに視線を向け、自分の部屋だったその場所から出ようとした郁乃たちに向けて、卓は駆け出し、そして彼女達に向けて手を広げると……。
「――郁乃! 俺、俺も待っている! お前が来るのを待っているから! 郁乃……!」
「――!」
瞬間、己の周りを包むように何かが襲い掛かってきたと思った郁乃は、驚きながら足を止める。
少しの間足を止め、自分のことを包み込んだ何かが何なのかを確認するように辺りを見回した。が……、何もない。どころか、いつもの風景が視界に映っただけで、いつもの風景を見渡した郁乃は首を傾げながら小さな声で「何だったんだろう……?」と独り言を口ずさみながら歩みを進め――
「さて――卓に会おうか。ちゃんと綺麗にするために雑巾とかいろいろと持って行かないと。あと卓の大好きだった栗羊羹とコーヒーゼリー持ってってね」
「にゃ」
「ちょっと、さっさと降りろデブ猫っ。重いんだって! と言うかなんで卓の部屋の前をずっと見ているの?」
「にゃ」
「こんのふてぶてしい猫め……! もぉー! そんな態度取っていると、おやつなしにするからね」
と言いながら、腕の中に納まっているムクスケと会話をして、墓参りの身支度を整えるために自室に入り、そしてドアを『ガチャリ』と閉める。
これから長い長い人生の道を歩むためのけじめ――一歩を踏み込むために。
―――――――――― ――――――――――
これは、何の変哲もない者達の、新しい一日の物語。
人生を歩むことができなかった男の未練と、一度歩むことを諦めたが、再度歩む意思を固めた女の希望。そんな二人を見守っていた、唯一卓のことが見えていた――一匹の猫の物語。
ご閲覧ありがとうございます!