前編
家紋武範さま主催――『夢幻企画』に投稿した作品です。
お話の通り後編もあります。ご了承ください。楽しんでいただけると幸いです。
世界には色んな人生を歩む人々で溢れ、それぞれが己の行く末の未来に向かって、歩み、挫折し、そして立ち上がってまたその道に向かって……、未来に向かって歩みを進める。
その道が正しいのか、正しくないのかはわからない。
その道が本当に己が進みたかった道なのかなど、誰もわからない。
ただ――その道と言うものは簡単に変わり、崩れ去っていき、壊れたと思ったら元に戻ってその人を未来へと導く。
そう……、『人生』と言うものは、一つの行動次第で変わってしまい、一つ踏み外してしまえば道そのものが壊れ、終わってしまう儚い道でもあるのだ。
さて、前置きはこのあたりにしよう。
これから始まるであろう何の変哲もない者達の、新しい一日の物語の扉を開こう。
一日の始まりを描く、彼等にとっての世界を――
―――――――――― ――――――――――
都内某所。
その都内に佇んでいるとあるマンション――白を基準としている五階建ての建物なのだが、建築の年数が経っている所為なのか、ところどころが灰色になっており、白の色から醸し出される清楚な印象が薄れているようなマンション。
そのマンションの三〇六号室から、小さな音が薄黄緑色の鉄製のドアから漏れていた。
大きなベッドの片隅に置かれている携帯 (スマートフォン)のアラーム音が忙しなく耳をつんざくように、携帯の主を必死に起こすように響いていた。
目覚まし時計の『ジリリリリリッ!』と言う小さな鐘の音ではなく、『ピピピピピッ!』と言う音ではない。携帯のアプリに入っている曲が目覚まし代わりになってその空間の無音を音のある空間にしている。
携帯から奏でられるサビの歌。
力強く響く声量とは裏腹に、どことなく悲しさや儚さがある様な歌詞がドア越しから聞こえ、そしてその三〇六号室の室内をその音で満たしていく。
光ではない音が満たされていくその世界で、一人の人物が『もそり……』と、白い布団から顔を出す……、のではなく、布団からするちと細い手を出すと、音の根源でもある携帯を手探りで探そうとしているが、後少しと言うところで届かない。
携帯の端に指の先が当たるのだが、それでも取ることができない布団の中の人物。
どうやら寝ぼけているようだが、それでも布団の中の人物は未だになり続けている曲を止めるために、安眠を妨げるその曲を止めるために、布団の中の人物は布団と言う名の安息の洞穴から携帯があるところに視線を向け、そして伸ばしていたそのふらつきの手に力を入れると……。
――ぼふんっ!
というクッション特有のふわりとしている弾力が一瞬潰れる衝撃を与える。さながら右手でハエたたきのように。
その叩きと同時に画面に接触した指が丁度停止のボタンに当たったのか、今の今まで流れていた曲が一瞬のうちに止まり、音で満たされていた空間が一気に無音の世界に変わっていく。
「うぅ……、ん」
無音の空間とかしたその世界で、布団の中に入っていた人物は呻くような、それでいて寝ぼけているような声を出すと、もそりと布団の中で身じろぎをする。
もぞ、もそ……、もそり……。
起床時特有の低血圧のようなゆったりとした動き。いいや――朝日を浴びながらもまだ寝ていたい。まだ布団の中に入ってゆっくりしたいという己の本心がそうさせているのか、少しの間布団の中の人物は布団の中で体を動かす。
起きなければという使命と、まだ寝ていたいという本心と葛藤しながら……。
しかしそれができないのが人生。
「うー……。もう……、七時なんだよね……。今日は予定があるから、起きないと……とぉっ!」
布団の中にいた人物は布団の中で小さく呟くと、自分のことを隠すように覆いかぶせていたその布団を、勢いよく天井に向けて持ち上げる。それはもう天井に向けて持ち上げ、吹き飛ばすように。
ばさり――とその人物のことを覆っていた布団が勢いよく宙を舞う……、ことはなく、逆に質量が多い布団は宙を舞うどころかばさりと布団が一人でに後ろに向かって揺らめくと、そのまま力なく床に向かってぱさりと落ちていく。
無造作に置かれた布団の光景を振り向きながら寝ぼけ眼で見ていた人物――寝ている間についてしまった方まである黒い髪の癖毛。赤とオレンジの線が交差しているチェック柄のパジャマを見につけている女性は、寝ぼけている目で背後の布団の有様、そしてカーテンのレース越しからでもわかる日の光を浴びながら、くぁっと一度欠伸をかく。
かいた後で無意識に右手を動かし、後頭部に手をやりながら女性はがりがりと無造作に頭を掻くと、ゆったりとした動きで、朝のスイッチが入っていない身体で女性はベッドから降り、ひたり、ひたりと日の光で温まっていたり、日の光がさしていないにもかかわらず、生暖かい温もりを残しているフローリングの床に足をつけて歩みを進める。
「あー、まだ眠い……、でも、これ以上寝てはいけないよね。だってこのままベッドにいたら二度寝ならぬ三度寝してしまいそうだもの……。それだけは避けないとね……」
今日は――大事な日なんだから。
そう言いながら女性は歩みを進め、支度をするためにマンションの一室の中心――つまりはリビングに足を踏み入れる。
見た限り広い空間。その空間を彩る質素な食卓テーブルに必要最低限の食器、調理器具、調味料、最近買ったばかりの真新しい除菌ジェルのボトルと円柱型のアルコールウェットティッシュ。大きくも小さくもない白の冷蔵庫が置かれているダイニングキッチン、そしてその部屋から外と言う名の世界が白いカーテン越しに大きな窓と観葉植物とエアコンの機材が置かれているベランダからかすかながら覗く。
寝室と同色で統一されたフローリングには白と灰色で彩られた絨毯が敷かれており、その絨毯の上に置かれた黒いレザーのソファと、その前に置かれた小さなテーブルに三十インチの液晶テレビと黒を基準としたテレビボード。ボードには収納スペースがあり、その中にはDVDレコーダーにテレビゲーム機が置かれており、テレビの前のテーブルに上に置かれているリモコンと黒いゲームコントローラーが無造作に置かれており、その近くに無造作に、封を開けた状態で置かれているスナック菓子が生活感を出している。
誰がどう見ても普通の生活の空間。
ごくごく普通の生活の空間を見て、何度も見るその空間を見ながら女性はもう一度くぁっと欠伸をかき、眠気がまだ残るゆったりとした足取りで洗面所へと向かう。
ゆっくりと、ゆっくりと歩みを進め、女性はようやく洗面所があるドアの前に立ち、そのドアノブに手をかけようとした。瞬間――
「郁乃――おはよう!」
「にゃぁ」
「!」
突然の声と鳴き声。それは朝と言う時間からすれば元気がある声と、対照的に気怠そうな鳴き声である。
その声を聞いた女性は眠気と言う敵と戦いながら行動していたが、その声を聞いた瞬間びくっとわずかだが肩を震わせ、声がした背後を溜息を零しながら振り向く。
はぁ――と、あからさまに声を出して吐いたかのような溜息をした後、女性……郁乃は背後にいる人物のことを先ほどとは違う視線で、なぜこいつはこんなに朝と言うものに強いのか。という視線を向けながら、郁乃は溜息交じりに、少しだけ朝と言うものに強い背後の同居人に向けて言った。
「おはよう……。早いね」
郁乃はまだ眠気が冷めていない顰めた顔で背後に立っている同居人――眼を少しだけ隠すような地毛の茶髪、整った顔つきと耳朶に残るピアスの穴にグレーの寝間着を着た郁乃よりも少し背が高い男性と、その足元で可愛らしく『にゃーにゃー』と鳴いている少し小太りの三毛猫のことを見つめる。
男は頭を掻きながら困ったような渇いた笑みで――
「おいおい。朝弱いからってそんな怖い顔すんなよ。可愛い顔が台無しだぞ?」
と言い、そんな男の足元で小太りの三毛猫も頷きの声を発するように『にゃー。にゃぁ』と鳴き声を零す。郁乃のことを見上げて、後ろ脚だけでなんとか立ち上がり、丸くなった前足を空中でばたつかせながら……。
そんな光景を見ていた郁乃は再度溜息を零すと、その場でしゃがみ、後ろ脚だけで立とうとしていたが太っている所為なのか、それとも慣れていないのかわからないが、今にも後ろに向かって転びそうになっている三毛猫のこと両の手で包み込むように支え、そのまま己の胸に抱き込むと、郁乃は溜息交じりに言葉を零す。
「あーもう朝から元気あるね。その元気私にも分けてほしいよ。私昔っから朝弱いから知りたいくらいだわ」
「え? そんなに俺の元気の秘訣知りたい? それはなー……、郁乃に対しての無限のあ――ってちょっと郁乃待ってっ。ムクスケを連れて洗面所行かないでっ! 彼氏でもある俺の話を聞いてってっ!」
郁乃の言葉に対して胸を張りながら顎に人差し指と親指の間の隙間を差し入れる男性。
さながら名探偵の決めポーズ。
そんなポーズのまま自慢げに何かを言おうとしたが、そんな男性の言葉を無視していくのは小太り三毛猫――ムクスケを連れて洗面所へと向かってしまう。
すたすたと早足でもなければ競歩のような素早さでもない。普通に歩んで洗面所に向かうその姿を見た男性はショックを受けたかのような顔をして郁乃の背中に向けて手を伸ばして後を追う。
飼い猫ムクスケを抱いて洗面所へと向かう郁乃。そしてその後を追う男。
これは、この二人と一匹にとってすれば日常。
日常の光景。
顔を洗った後――朝食のバターが乗せられたトーストにサラダ付きの目玉焼きに牛乳を前にして『いただきます』と言う挨拶をする郁乃前で椅子に腰かけながら郁乃に対して先ほどの話の続きを延々と語る男。その傍らで今日のご飯でもあるキャットフードを焦っているかのように頬張るムクスケ。
食している郁乃の前で食事にも手を付けず、延々としゃべり続ける男のことを見上げながら小さく息を零すムクスケ。
食事が終わり、『ごちそうさま』の言葉を言い放った後で使った食器を重ねて、それらをキッチンの流しに持って行きながら歩んでいる郁乃の後ろでは、男が郁乃の後ろからついて行くようになおも舌を回す。先ほどの回しとは違い、今度は仕事のことで舌を回し、郁乃に対して熱弁をする男。
男の熱弁を一蹴するように無視をする郁乃に対して、男はむすっとした面持ちになり、彼女に顔を近付けて「何度も何度も聞いているからって、無視はないだろうが無視は! 聞いているのかーっ!?」と声を上げるが、それも郁乃は無視をする。
そんな二人のいつもの光景を見つつ、空になった餌入れに前足を『てしてし』と叩きつけ、むすくれた顔をしているムクスケは、男の話しよりもおかわりに気付いてほしい気持ちで郁乃の後頭部を見上げていた。『早く飯くれ』と言わんばかりの『にゃーにゃー』を発しながら……。
これも彼等にとってすれば日常の風景。
延々と話す男と、その話を聞き流しながらできる限りの家事を行う郁乃。そしてそんな二人の光景を見ながらふてぶてしく寝転がる三毛猫ムクスケ。
彼等にとってこれは普通の日常。なんの変わり映えも、何の変化も見られない――ゆったりとした、一般的な幸せの一枚絵。
だが……。
これは――日常ではない。
「さてと――」
「! 郁乃?」
「にゃぁ」
今回の日常はいつもの日常ではなかった。いいや、いつも通りの日常でも違う行動と言うものがあり、年がら年中同じ行動で終わることなどまずありえない。しかし今回だけは違っていたのだ。
男の目に写り込む驚きの眼が、服に着替え、片手にコーヒーゼリーを持った状態でいつもと違う行動をする郁乃の行動を捉える。
それはムクスケも同じであり、小太りの体を『とすとす』と動かし、郁乃の歩みを追うように歩みを進める。その背後を追うように男も歩みを進めようとしたが、男は歩みを止めて、郁乃が歩むのと並行して距離が少しずつ、少しずつ離れていくが、男は歩もうとしない。
いいや、歩めない。歩めない状態の中、男は郁乃の背中に向けて言う。彼女がいつもと違う行動をする原因――彼女が歩む先にある一つの部屋に向けて、彼はなぜか震えてしまう声で、こう言ったのだ。
「あ、えっと……、郁乃……? どうしたんだよ。なんでそっちに向かうんだ? 今までそんなことなかったじゃん。そんなことここ最近しなかったじゃん。なんで今日に限ってそんなことを? あ、もしかして――俺に内緒でサプライズ的なことをしようとしているとか? あはは。そんなことないか、あ、でも郁乃のことだから」
震える声が言葉と言う想いを発すると同時に、喉の奥が詰まる様な息苦しさを感じてしまう男は、正常のはずなのに、何の傷もないはずの喉元に右手を伸ばし、その右手で喉を覆い掴みながら言葉を零す。
口腔内の渇きを無視し、体の異変を心の警報であることを無視して、郁乃にその先に行ってはいけないという警報を発しながら彼は郁乃の行動を、彼女の背中を見つめながら言葉を発する。
止められない自分に対して憤りと、安堵、そして、悲しさを感じながら……。
郁乃は淡々とした歩みで一つの部屋――彼女にとって開けたくなかった部屋のドアに向かって歩みながら、彼女は手に持っているコーヒーゼリーを片手にした手を片目で見降ろした後、郁乃はふっと小さく笑みを零し、そして目の前にあるドアのことを見つめながら、彼女は言う。
誰に対してでもない。自分に対してでもない。
ただの――独り言を呟きながら……。
「本当は、さ……。もっとこうしたかったんだ。でもできなかった。私、受け入れることができなかったみたいでさ……、なんて言えばいいのかな? この部屋さ、あれからずっと入っていないんだ。だって、入っちゃったら受け入れないといけないって、受け入れたくないけど、現実がそれを私に見せつけて来るから、入るに入れなかった」
「郁乃……?」
郁乃の言葉に、男がはっとして郁乃の背中を、小さく――今にも抱きしめたら壊れてしまいそうな小さな小さなを見ながら零すと、郁乃は大袈裟に大きな大きなため息を吐く。
「はぁぁぁーっ。でもさ、受け入れないと、だめなんだよね? だって、それって……、私が現実から目を背いているのと同じだもの。皆、皆が受け入れているっていうのに、こんなんじゃ……、卓に笑われちゃうものね!」
そう言い、自分の中の葛藤にけじめをつけるように、郁乃は目の前のドアを真っ直ぐ見つめ、すぐにドアノブに手をかけて『がちゃり』と捻る。
音が聞こえた瞬間男ははっとし手からすぐさま郁乃に向けて手を伸ばし、彼女の名を呼びながら止めに入ろうとしたが、彼女はドアが開くと同時に勢いをつけて、その部屋に入って行く。
男の静止を聞かず、郁乃の行動について行くようにムクスケもその部屋に入り、郁乃は部屋に入ったと同時に、その部屋の光景を焼き付ける。
これが最後。そう心に言い聞かせ……、背後で愕然として膝から崩れ落ちてしまった男のことを無視して、郁乃は見渡す。
生活感が感じられないその部屋を見渡しながら……。