表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夕焼けと死神

作者: 角巻ひつじ

 夕焼けは嫌いだ。


 赤橙に染まった病院の廊下から、窓の外を眺めた。今日の検査はそんなに長引かなかったのに、青空はすっかり姿を消している。


 秋が深まると共に、日が落ちる時間は確実に早まっていた。空調の力が僅かに及ばない空気が、ひやりと頬を撫でる。


 ずっと遠くに並んだ背の高いビル群の隙間から、夕日が顔を覗かせている。


 光が緩んで直視できるようになった太陽は、空にぽっかりと開いた穴みたいに見えた。そこから空の何もかもが吸い込まれた後に、夜の闇が取り残される。そんな場面を想像した。きっとそうして、今日という日をひとつ、連れて行ってしまうのだ。


 そっと胸に掌を当てた。とくん、とくん、と、一定の感覚で振動が伝わってくる。しかし、それも心做しか、前よりも遅くなったように思える。胸に当てた掌を、思わずギュッと握り締めた。

 窓から目を離して、自分の部屋へ足を急がせた。早く、こんな景色を忘れてしまいたかった。



 いつも病的な白を纏って佇む廊下にも、今は深い死の色が染みついている。病室へとつながる扉は、事務的なまでに全てが同じ見た目と同じ間隔で並んでいて、記された番号を一つ一つ眺めていかなければ、自分の帰る場所も分からない。病棟を移されて間もないこともあるけれど、ここで過ごす最後の時まで、きっと慣れることはないだろうなと思った。


 そうして二つ隣の部屋の番号を読み、自室の扉の方へ目を向けた時に初めて、その扉の前に人が立っていることに気付いた。


 思わず身体がびくりと震えた。真っすぐに続いた廊下で、この距離に近付くまで、存在に全く気付けなかった。確かに余計な思索に耽ってはいたが、それを差し引いても、何かがおかしいと感じた。


 ふと、この病院の患者の中で流れている噂話が頭をよぎった。


『第二病棟の奥には、死神がいる』


 その噂のことは、どこにでも一つは転がっているような話だと思っていた。けれど、こうして目の前に突然現れたその者の佇まいは、そんな現実にはあり得ないものを思わせる異質さに満ちていた。


 襟の詰まったブラウス、足を全て隠すほど丈の長いスカート、腰まで届きそうな長い髪、そのどれもが夕日の赤すら飲み込むような深い黒を宿していて、まるで喪服みたいに見える。


 窓に背を預けたまま顔を伏せるその姿は、大切な人を弔った後のようにも、何かを探し疲れた幽鬼のようにも見えた。


 ――死神。


 その時、思わず足を止めていた僕の存在に気付いたのか、ゆらりと、首を持ち上げようとする気配がした。すぐにその場を離れようとしたけれど、恐怖に染まった足は、影ごとそこに縫い付けられてしまったみたいに、ぴくりとも動かない。


 ゆっくりと向けられた顔は、だらんと垂れ下がった重たい黒髪にほとんどが隠されていて、その表情は伺えない。けれど、隙間からかろうじて見える口元が、動きだそうとするのが分かった。

 死神の言葉。それだけで、不吉な予感が頭を満たす。動き出そうとしない足に、ぐっと力を込めた。


「もしかして、私が見えるの?」


 聞こえてきたのは、予期していたものとは全く違う、少し幼さの残る女の子の声だった。小さくてもよく通る声は、浅い夏の窓際で揺れる風鈴のような、透明を思わせる響きを持っていた。


 見た目の異質さからは想像もつかない、自然な女の子の声に、僕は完全に拍子抜けしていた。ぼんやりと突っ立ったままでいる僕に、死神は足取り軽く近づいてくる。


「あ、怖がらせちゃったかな?ごめんね」


 そう言って、暗幕のように垂れ下がっていた髪を横へとかき分けると、僕の顔を覗き込むように少し身をかがめて、あどけない笑顔を見せた。長いのは横から後ろにかけてだったようで、前髪は細められた目の上で、綺麗に切りそろえられている。


「君は、誰なの?」


 ようやくの思いでそう尋ねると、彼女は柔らかな笑みを湛えたまま答える。


「多分、君が今考えていた通り。この病院に居ついている死神だよ」


 そう言った彼女の姿を眺める。一度見たら暫く忘れられないような、人懐っこい笑顔が印象的な女の子だ。身長は僕よりも少し低く、歳は僕と同じ、高校生くらいに見える。その身に纏った喪服のような服装だけが、かろうじて死神のイメージに沿っていた。


 たちの悪い冗談だと思った。死神なんてものが、実在するなんて思えない。噂を利用して、この病棟に来たばかりの人間をからかっているんだろう。


 僕の訝しげな視線に気づいたのか、彼女はぴんと立てた人差し指で、自分の足元を指した。目を向けると、ロングスカートに隠れていた黒いローファーが夕陽の光を宿して鈍く輝いている。そして、本来そこから伸びるはずの影がなかった。


 辺りに目を巡らせても、橙色に染まった廊下の壁に浮かぶのは、僕一人分の影だけだ。非現実的な状況を認識して、頭がくらりと揺れる。


「本当に、死神なの?」

「うん、そうだよ」


 あっさりとした回答に、思わずため息が漏れた。どうやら、受け入れるしかないみたいだ。


「まあ、普通はびっくりするよね、ごめんね、急な話で」


 急な話、だなんて、突然の用事を頼むようなトーンで話すから、なんだか少しおかしい。


「人が死ぬことなんて、いつだって急なものなんじゃないかな」

「確かに、それもそうだね」


 死神はくすりと笑って、僕の目を見つめる。


「こんな話をすると取り乱す人だっているんだけど、君は随分落ち着いてるね」

「十分に混乱してるよ。でも、死ぬことについては、随分考えたから」


 そう、ずっと考えていた。発作を起こした時、病名を告げられた時、一向に良くなる事のない検査結果を見つめる時。そうやって考えていた死は今、こんな風に部屋の前で、女の子の姿をして立っている。


「死神っていうのはもっと、骸骨で組まれた身体なんかを持って、陽の落ち切った夜更けに、身の丈はある大きな鎌を持って、枕元に立つものだと思ってたよ」


 少なくとも、同年代くらいの女の子の姿をしているべきではないんじゃないか。彼女は、その答えを予想していたようで、小さく笑ってから言葉を紡ぐ。


「そうだね、死神って聞くとみんな、大きな鎌だとか、骨だけの身体なんかを想像しがちだけど、そうじゃないの。私の役目には、命を刈る道具や、恐ろしい見た目なんかは必要ないからね」


 少し考えて、首を傾げる。


「なら、一体何が必要なの?」

「それは内緒です」


 彼女はそう言っておどけるような笑みを浮かべた。けれどその姿はなぜだか、風にさらわれる木の葉のように儚く見えた。


「僕はもう、死ぬんだね」


 死神がこうして目の前に現れたということは、僕はこれから、死後の世界へと連れていかれるのだろう。


 こうしていざ最後の時を迎えたと思うと、奇妙なほどに心は落ち着いていた。夕焼けに染まる廊下で、残された時間のことを考えている時は、あんなに怖いと感じていたのに。頭のどこかで、仕方ない、と呟く声が聞こえた。僕は昔から諦めることが得意だ。


 彼女は目線を右上の方に向けて、少しの間、何かを考えるようにしていた。


「ううん、まだ少し時間があるよ」

「そうなの?死神と初めて出会うのは、最期を迎える直前のことだと思ってたんだけど」

「早めに伝えるようにってことが決まりなの。直前になってから言うと、もっと早く教えて欲しかった、って思う人も多いからね。まだやり残したことがあったのにー、とかってさ」


 確かにそうなのだろう。こと人生において、夢とか、願いとか、満ち足りないことはたくさんあって、その実現が閉ざされるからこそ死ぬことは悲しい。終わる時間を知っているのなら、全てをなげうつタイミングも計れるというものだろう。


 それなら僕の場合は、残り少ない時間を全て注ぎ込んで、何を為すべきなのだろう。具体的なことはなにも、思い浮かばなかった。


 考えるうちに、視界の周りがぱっと白く光った。少し目を巡らせて、廊下の電気が灯ったのだとわかった。窓に目を向けると、夕陽は既にその姿を隠して、空の端に暗いオレンジ色の断片だけを残していた。

 あ、もうこんな時間なんだ。電灯を見上げながら彼女はぽつりと呟いた。人工の光の下で見ると、彼女の肌はまるで血が通っていないように不自然に白く、人形のように作り物めいて見えた。彼女はその薄い唇に、微かな笑みを浮かべる。


「もうちょっと話してたいんだけど、今日はこれくらいにしておくよ。これからしばらくの間、どうぞよろしくね」


 僕がその言葉について尋ねる前に、電灯を映してぼんやりと光るリノリウムの上を、音もたてずに階段の方へ向かって歩いていった。どうやら四六時中、一緒に過ごすというわけではないらしい。

 死神なんてものが側にいると気が休まらないだろうから、という配慮だろうか。それとも、一人で過ごすことを好む、僕の性質を見通した上での判断だろうか。あるいは、死神の勤務形態によったり、彼女自身の事情もあるのかもしれない。


 その後ろ姿が角を曲がって消えた少し後、入れ替わりに、新しく僕を担当する看護師さんがこちらに向かってくるのが見えた。病室の様子を見に来てくれたのだろう。するりと心に入り込んでくるような、人当たりの良い笑顔が印象的な人だった。


「今すれ違った女の子の服装、病院にしては結構不吉ですよね」


 彼女は訝しげな目を向けて、少しこわばった表情を浮かべた。


「なにそれ、怖いこと言わないでよ」


 やはり、彼女の事は見えていないようだ。

 こうして第二病棟に来たのだから、有名な噂話に乗ってみようと思った、という旨の言い訳を述べて謝罪した。彼女は口ごもるように曖昧な返答を返した後、やはり曖昧な笑みを浮かべ、ゆっくり自室で休むことを勧めた。


 まだ見慣れない部屋の中、清潔なシーツの上で味の薄いコンソメスープをスプーンですくう。もうしばらく空腹は感じていないけれど、全く食べないと心配されて面倒なので、とりあえず口に運ぶことは続けている。そうしながら考えるのは、今日出会った死神のことだった。


 少女の姿をした、影を持たない死神。

 どうやら僕は、本当にこの世ならざるものと接触したらしい。もしくは、僕の頭がおかしくなってしまって、幻覚を見ているのか。どちらかといえば前者の可能性の方がましだと思った。


 そっと胸に手を押し当てる。手のひらを伝って、かすかな鼓動を感じる。視界に入る部屋の白さが煩わしくなって目をつむった。僕はこれからの時間を、どう生きるべきだろう。何をして過ごすべきだろう。


 そうして思い出したのは、一台のノートパソコンのことだった。ベッドの横にある棚の引き出しには、着替え用の洋服と一緒に、時代に取り残された性能のノートパソコンが折りたたまれたまま、地中で眠る幼虫みたいに横たわっているはずだ。けれど、それはあまり気乗りのしない選択肢だった。


 小さく息を吐いて、夕飯の乗っていたトレイを脇によけ、引き出しから、あちこちがよれたキャンパスノートと、病院の売店で買った安い作りのボールペンを取り出す。日記を書く習慣は、もう何年も毎日続けている。精密検査の結果と一緒に、死神と出会ったことも書き留めた。

 ふと、ここに家族へ向けたメッセージでもしたためておけば、僕が死んだあとに見つけた両親を感動させられるかもしれないな、と思ったが、極めて個人的なことばかりが並ぶこの日記の存在自体、知られるのが嫌だったので止めることにした。僕が死んだあと、死神が処分してくれたりはしないだろうか。


 一通り書き終えて元にしまうと、ベッドに身体を預けた。ここ最近は以前よりもずっと、身体が重くなったように感じる。知らないうちに重力が増したみたいだ。このままいけば、遠くないうちに立ち上がることも難しくなるかもしれない。

 枕元のスイッチを押して明かりを消すと、側にある窓が淡く輝いた。目をやると、空では大きく欠けた形の月が、凛とした光を放っていた。


**


 死神と出会った次の日も、生活に大きな変化はなかった。温度の変わらない病室も、時間をやり過ごすように読む文庫本も、血液についての複雑な病気も、この日常のパーツとして、変わらずそこに横たわっていた。昨日の死神が部屋を訪れることもなかった。ただ、もうすぐ死ぬという事実は、僕の意識の隅に濃くこびりついていた。


 部屋の窓からは、薄い雲がまばらに浮かんだ空の下、町を貫くように流れる小さな川と、その向こう岸にある、森林公園の入り口が見える。春になると、桜の名所として人が集まる公園だが、今は枝をむき出しにした木々が立ち並び、寒々しい景色が広がっていた。


 枕元のラジオから零れる、ヒットチャートに名を連ねる音楽を聞き流しているうちに、日は傾いて、空が薄く橙色に染まり始めた。川沿いに建てられた年代物の防災無線用スピーカーから『夕焼け小焼け』のメロディーが流れる。音が割れてざらついたメロディーが、殺風景な景色の上に、物悲しい色を塗り重ねていた。今日も廊下に、彼女はいるのだろうか。


 ベッドから降りて、廊下へ続く引き戸を開いた。すると、少し離れた窓の前で、真っ黒な服装に身を包んだ女の子が外の景色を眺めている。赤く染まった廊下の中で、どんな光も飲みこむような黒色が、彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。

扉が開く気配を感じて、こちらを振り向いた彼女は、軽い足取りでこちらに歩いてくる。歩くたびに、長い黒髪が波打つ。


「こんにちは、調子はどう?」

「おおむねいつも通りの一日だったよ」

「それはよかった」


 そう言って笑う彼女の笑顔はあまりにもあどけなくて、つい、胸に沸いた疑問を尋ねてしまった。


「君は、ほんとに死神なの?」


 そう聞くと、ガラス玉のように涼やかな瞳がまっすぐに僕の目を見る。その黒い瞳は、たくさんの色が複雑に混ざりあった結果、黒色になったというような不思議な色をしていた。


「それ以外の何に見える?」

「同じくらいの年の女の子だね」


 せめてもう少し暗く、圧倒するような雰囲気を纏っていれば、死神らしくも見えたかもしれないけれど、柔らかさを備えた通りのいい声と、柔和な笑顔と、僕よりも少し低い身長が、その言葉のイメージとは全くかけ離れていた。

 まあ、そうだよね、と言って笑う表情に、やはり不吉なものは感じられなかった。その姿からは、どちらかといえば、死よりも生を連想させる。


「僕は、本当にもうすぐ死ぬの?」


 そう尋ねると、彼女は真っすぐな瞳で僕を見た。


「うん、死ぬよ。明確な寿命の時期を教えることはできないんだけどね」


 それはもう、決定した事実なのだろう。あと僅かな時間で、僕の命は燃え尽きる。

その言葉は剥き出しの刃物のように鋭利だったけれど、それを伝える彼女の声音には、どこか気遣うような雰囲気があった。彼女は向ける視線を少し和らげて尋ねる。


「やっぱり不安?」


 僕は頭の中で考えていたことを、そのまま答える。


「まさか。避けられないことだっていうのは、この病棟に移った時から、もう分かっているつもりだよ」


 県内随一の医療技術の集まるこの病院の中で、第二病棟には特に優秀な機器が集められている。つまり、その優れた技術を必要とする患者が、ここに集められる。死神の噂が定着してしまうほどに、この病棟は死に近い。

 でも本当は、前の病棟にいる時から、いや、そのずっと前から考えていたことだ。生きることよりも、死の事の方を考えていた時間の方がずっと長いのだから、もちろん理解している。生きている限り必ず迎える、免れ得ない結末だと知っている。


 彼女は少し目を伏せて、小さく、そっか、と呟いた。その言葉は、廊下の床を転がるようにして僕の耳に届いた。


「何か、やりたいことは見つかった?」


 彼女はうって変わって明るい調子で尋ねる。そのことについては、一晩考えて、自分の中に結論を出していた。


「考えてみたけど、分からない。でも、そんなもの別に無くても構わないよ。穏やかに過ごせたのなら、それでいい」


 本心だった。このまま川底に沈んだ石のように、息を潜めながらだんだんとすり減って、ゆるやかに最期を迎えるのも、別段悪いことじゃないと思えた。

 彼女は僕の顔をじっと覗き込んだあとで、何かを思いついたように手を叩いた。


「もしよければ、君の話を聞かせて」


 多分僕は、きょとんとした顔をしていたと思う。


「一体どうして?」

「死神は、連れていく人の事を知る必要があるの。まあ、あくまで任意なんだけどね。気分転換に、部屋の空気を入れ替えるようなものだと思ってくれればいいよ。言葉を出して、言葉を入れて。何でもいいの、好きな雲の形だとか、いつか読んだ本の中身だとかね」


 なるほど、なんだか健康的な響きだ。思い返せば、誰かと雑談なんてことは随分としていなかったような気がする。言葉を発するのは、回診のときに回ってくる医師や看護師の問いかけを適当にやり過ごす時だけだ。

 死神と雑談をするなんて、聞いたことがない。でも、だからこそ興味を惹かれたのかもしれない。本当に取り留めのない話をして過ごした。季節ごとの匂いについて、この間見た夢について、好きなアイスクリームの味について。


 彼女はたどたどしく話す僕の言葉に、適切な相槌を打ち、時々先を促すように質問をした。久しぶりに吐き出した自分の言葉は、思ったよりもすらすらと出てきた。まるで喉のすぐ裏側で、飛び出す時を今か今かと待っていたみたいだった。もはや、話し相手が死神であるということも、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。一通り話し切る頃には、心地よい疲労感が身体に広がっていた。


「疲れた。こんなに話したのは、本当に久しぶりだ」


久しぶりどころか、初めてかもしれない。それを聞いた彼女は、何かを噛みしめるみたいに何度か頷いた。


「私も興味深い話が聞けてよかったよ。どう、気晴らし程度にはなったかな?」


そう聞かれて、自分の内側に意識を向ける。不思議と、いくつか荷物を降ろしたみたいに、頭が軽くなったような気がした。


「うん、悪くなかったよ」


 彼女は嬉しそうに笑った。


「ならよかった。日が暮れる頃にはここにいるから、気が向いたらまた来てね」


 そう言うと彼女は小さく手を振る。その後、僕が一度瞬きをした間に、彼女の姿は視界からかき消えていた。慌てて辺りを見渡してみても、彼女の姿はどこにもない。何度か短い点滅をしながら、廊下の電灯が灯った。


**


 運ばれてきた夕食を機械的に摂った後、机の上に日記を広げる。今日の日付、天気に続いて、死神と雑談したことを書いた。もう詳細を思い出せないほど、取るに足らない話ばかりだったけれど、不思議と心地の良い時間だった。


 白いページを黒々と文字で埋めながら考えるのは、中身のない雑談に付き合った死神のことだ。彼女は、連れていく人のことを知る必要があるのだと言った。もしかしたら彼女は、僕の行き先が天国か地獄か、そんなことを決める裁量権を持っていて、僕の人間性を見極めているのかもしれない。好きなアイスの味なんかが、その判断材料になるかはとても疑問だけれど。


 机の上にボールペンを投げだし、ベッドに身体を預ける。目に入るのは、染み一つない真っ白な天井だ。この病棟はどこに目を向けても、神経質なほど清潔に保たれている。

 汚れのない白は、清潔さや公平さといった侵されがたいものの塊に見える。何かを隔てる壁に用いるには最適な色だ。なんだかそれは、死神のイメージに似ているように思えた。


 突然、胸の奥にちくりとした痛みを感じた。痛みはそれを意識するほどに大きくなり、みるみるうちに、心臓を内側から食い破ろうとするほどになった。胸に両手を強く押しつけて、痛みで止まりそうになる呼吸を必死に続ける。目に映るシーツの皺が一層濃くなる。ナースコールを押そうか迷っているうちに、波が引いていくように、痛みがすっと無くなった。

 何度か経験した発作だった。長く続くものではないけれど、その度に、死が身近にまで迫っていることを意識させられた。額に浮かんだ汗を拭うと、ひどい倦怠感が意識を黒く塗りつぶしていった。


 夢を見ている自覚があった。もう何度も見た悪夢だった。目の前には今よりも幼い自分がいる。僕は少し離れた所から、その姿をただ眺めている。


 小さな僕は、どの場面を切り取っても一人で過ごしていた。昔から、口下手な子供だった。


 例えば、日常でふと持ち上がる話題に、何か思うことがあったとする。その考えを口に出す前に、その言葉が誰かの興味を惹くものか、誰かを傷つけたりはしないか、ということを念入りに精査する。そうして言葉がようやく組み上がる頃には、話題は次のことへと移っていて、僕は口に含んだままの言葉をそのまま飲み下す。その姿を傍から見れば、いつも何を考えているのか分からない、無口な子供だった。


 そんな調子の上、しばしば体調を崩し、友達づくりに適した主要な学校行事を軒並み欠席していたため、交友の輪の中に入り込むタイミングをすっかり逸し、教室の中でひっそりと孤立していった。

 そんな中でも、よせばいいのに、周りからどう思われているのかばかりが気になった。会話で言葉を詰まらせた時、休み時間に机に突っ伏している時、一人で教室の扉をくぐる瞬間。周りからの失笑を買うことに耐えられなかった。


 一人で時間をやり過ごすために見つけた最適な場所は、図書室だった。本自体への興味は別段なかったけれど、誰もがひっそりと息を潜めて、個人的な冒険の中に身を置くその空間は、とても居心地のいいものだった。休み時間の度にそこに通い、勉強をしたり、昼寝をしたり、適当に手に取った本をぱらぱらと捲ったりした。


 本とはそんな形の出会い方だったが、次第に物語を読むことにのめり込むようになっていった。新しい本を開くたびに、全く違う誰かの人生を生きる体験を味わった。それぞれの主人公のように、驚き、怒り、悲しみ、喜んだ。それは、現実の自分の感情よりも鮮明に、心の中に刻まれた。そうして、何もない自分の人生に、色をつける術を身に着けた。


 その一方で、僕には驚くほど優秀な弟がいた。健康な身体に、健全な精神を持ち、一を聞いて十以上を理解する明晰な頭脳を持ち合わせていた。僕と比べれば、遺伝子に何らかの突然変異が起こったとしか思えない存在だった。

 そんな二人が比較の対象となることは、極めて自然なことだった。両親は優しく、そんな雰囲気を感じさせまいと振る舞ってくれていたけれど、日陰を生き抜き、影が差す場所を見つけることに無意味に長けてしまった僕の意識は、言葉の端々からそんな気配を鋭敏に察知した。


 僕はいつからか、弟と自分を無意識に比べる癖がついていた。なにをする時にも付きまとったその考えはやがて、周囲と自分を比べる習慣に派生した。勉強も、運動も、自分の一番好きなことについてさえも、周りには自分よりも遥かな高みにいる人間が星の数ほどいて、その度に自分に失望し、諦めることを繰り返してきた。


 そうして諦め続けるうちに、僕は自分の価値を信じられない人間になり、周囲のことばかりを伺いながら、自分に関する色んなことを諦めるようになった。色々なことを諦め続けるうちに、重大な病気が発覚した。もう治ることはないと知った時も、すんなりとそれを受け入れた。こうして、生きる事も諦めてしまった。


 そこまで来ると、目の前の僕は、今の僕と同じ大きさになる。彼は痛みに耐えるように身体を丸めて、真っ白なシーツの上でうめき声を漏らしている。僕は目を閉じることも、耳をふさぐこともできず、ただ、夜が明けるのを願う。そんな夢だった。


**


 死神は夕陽が見える時にだけ現れた。そして、陽が落ちると共に、音もなく姿を消した。天気が崩れた日は、僕から彼女の姿を見ることはできないようだった。だから彼女の姿はいつも、夕陽のうつろな赤い光と共にあった。

 その彼女の性質について、特に深く追及することはしなかった。どんな答えが返ってきたところで、死神という常識を超えたものの法則を理解することは難しいと思われた。


 いつも彼女は聴く側の事を考慮しないようなとりとめのない話を、楽しそうに聞いていた。自分でも言いたいことがまとまらないような思考を、なんとか拾い集めて一緒に組み上げようとすらして見せた。

 

 音割れのひどい『夕焼け小焼け』が流れる頃に部屋の扉を開くと、彼女はいつも、何か愛おしいものを見つめるような顔で、窓の下に広がる中庭の景色を眺めていた。一度、何を見ているのかと尋ねると、彼女は外に目を向けたままで答えた。


「桜の木だよ、ソメイヨシノ」


 窓の向こうには病院の中庭がある。庭園をイメージして色鮮やかな花をつける植物が植えられた中庭を象徴するのが、この病院が建てられると同時に植えられた一本のソメイヨシノだ。病棟の半分ほどの高さにまで伸びた背丈と、中庭を覆い尽くさんばかりに伸ばした枝葉を持つ立派な木で、毎年春にはその枝全てに満開の花が咲き誇り、圧倒的な景色が広がっていた、らしい。


「入院した時に看護師さんから聞いたけど、もう何年も咲いてないらしいね」


 僕が入院してから、この桜が咲いているところを見たことはなかった。ソメイヨシノの寿命は数十年だという。もしかすると寿命を迎えてしまったのでは、というのがもっぱらの噂だった。葉を一枚残らず落として、沈黙を守る姿が、その噂の信憑性を後押ししていた。

 しかし、彼女は真っすぐな目を桜に向けながら答える。


「桜の木は、咲くのに相応しい時を待ってるの。花を咲かせる準備ができていても、条件が整うまでは眠って、力を蓄えるの。そうしてその時がきたら、満開の花で一斉に世界を彩るんだよ」


 すごいよね、とあどけなく笑った彼女の目は、とても優しい光を湛えていた。


「君は死神なのに、随分と前向きな見方をするんだね」


 僕にはあの桜も、もう死んでいるみたいに思えた。呼吸の様子が見えなければ、眠ることと死ぬことはとても似ている。


「死神は死ぬことの専門家だけど、それは同時に、生きる事の専門家でもあるんだよ」


 そう言って、桜に向けたものと同じ目を、僕へと向ける。


「私は二つの可能性がある状況なら、いつだって、幸せな結末の方を信じていたいの」


 ただの願望なんだけどね、そう言って彼女は照れたように笑った。夕陽に彩られて赤みを帯びた頬は、生の輝きに満ちているように見えた。後ろ向きな考えに憑りつかれた僕の方がよっぽど、死神のイメージに相応しい陰気さを備えていた。

 彼女が語る言葉はいつも前向きで、その言葉を通してみる世界は、いつもよりも鮮やかに映った。そんな彼女と言葉を交わすことは入院生活の少ない楽しみの一つとなり、いつしか夜のラジオから流れる明日の天気の情報を意識して拾うようになった。


 そんなある日、死神に、どうしようもない自分の昔話を打ち明けた。

 誰かにそんな話をするのは初めての経験だった。こうして抱え込んだ荷物も、誰かにくだらないものだと一笑に付してくれさえすれば、少し気持ちが楽になるような気がしたのだ。


 でも、話し始めると、だんだんと語り口は感情的になっていった。話の中では、意図的に同情を引くような表現も使った。自分でも戸惑っていた。話がどこに転がるのか、自分でも分からないまま、ひたすらに話し続けた最後に、絞り出したように掠れた声が、喉からこぼれた。


「ずっと、心が騒がしいんだ。理由はもう分かってる。このまま、何も為せないまま、死んでいくことが怖いんだ。ねえ死神、僕は、どうしたらいい?」


 そうして気づいた。僕は、嘘ばかりついていた。

 家族に最近体調はどう、と聞かれて、笑顔で問題ないと言った。そんなわけがなかった。

 やりたい事なんて何もないと言った。かつての夢は鮮やかな色をつけたまま、胸を内側から叩いていた。

 生きることは諦めたと言い聞かせた。夕焼けが、胸の痛みが、怖かった。

 涙が滲んで、視界で夕陽の色が乱反射する。


 死神と夕焼けは似ている。どちらも、終わりを知らせるために現れて、僅かの時間の猶予を与える。夕焼けは、一日が終わることを明確に突きつけてくる。今日もまた、何もない一日だった。意味を成さない時間だった。その思いがずっと、僕の胸に焦りをもたらしていた。


 夕焼けに染まる廊下で死神と出会ったあの時。目の前に死が降りてきたと思ったあの瞬間。僕は少し安堵を覚えていた。思えば僕は初めから彼女に、救いを求めていた。こんな無為な時間に怯える日々から、今すぐ連れ去って欲しかった。

 けれど、死神はそうしなかった。期限だけを告げ、テストの答案を提出する前、最後の確認をするような時間を与えた。


「その答えは、君が自分で見つけなきゃいけないよ」


 彼女はそう短く答えて目を伏せた。痛みに耐えるような表情だった。


 自分の感情をどこに追いやったらいいのか分からなかった。胸をかきむしって、内側にあるものを全て取り出してしまいたかった。世界がぐらぐらと揺れて、その場に立っていられなくなる。喉からは嗚咽と共に、形を成さない言葉が、どろどろと溶けだすように漏れ出ている。目の前が真っ暗になって、自分の形が分からなくなる。


 ふと、すぐ近くから潤んだ声が聞こえた。


「他の誰とも比べなくていい、君は、君なんだよ」


 顔を上げると、死神の顔が近くにあった。寄り添うように呼びかける彼女の目からも、涙がとめどなく零れていた。

彼女の言葉は、僕の欠落を端的に指摘していた。


 ずっと、特別なものを求めていた。自分の中にも、何か一つでいい、弟のように飛び抜けて優れたものを見つけられることを願っていた。そうやって、一度でもいい、誰かから自分の価値を認められることだけを望んでいた。

 でもきっと、そういった瞬間は、願いを握り締め続けた人だけに訪れる。周りと比べて自分をすぐに見放す人間には、叶えられない願いだ。


 目が覚めたような気持ちだった。目を服の袖で拭い、涙と一緒に、視界一杯に広がる夕陽の色を追いやった。足に力を込めて、立ちあがる。


「ありがとう。僕はもう、自分に嘘をつかないよ」


 諦めたなんて嘘で、現実を受け入れたふりをするのは、もう止めにする。一度、精一杯やってみよう。どうせもう、失うものはないのだ。

 死神は赤い目を隠すように笑った、彼女に心の底から感謝した。

 一度諦めた自分の願いを、もう一度拾いあげる決意を固めた。

 

**


 そうして心持ちが晴れた一方で、身体の調子は思わしくなかった。精密検査では悪い数値が続いて、それを示すように、身体を動かすことは段々と億劫になっていった。


 そんな中、体調のいい日は、一階の売店まで降りていって、アイスを買った。アイスを食べるのは、長い入院生活の中での小さな楽しみだった。舌に感じる、包み込むような強烈な甘みは、食事を摂ることの楽しさを思い出させてくれた。中でもバニラ味のカップアイスが好きで、季節を問わずに年中食べていた。



 この病院には僕と同じく、一年中バニラアイスを食べている少年がいる。彼はほぼ毎日、お昼の騒々しいバラエティー番組が終わるくらいの時間に、待合室にある、病院の中庭を見渡せるガラス張りの壁の前に置かれたソファーの右端に行儀よく座って、もくもくとバニラアイスを口に運んでいる。


 彼の存在に初めて気づいたのは、購買に通い始めてから何カ月か経った頃だった。あまりにも同じ時間に、同じ入院着を着て、同じ位置に座り、同じアイスを食べているため、その姿が意識の端に引っかかったのだった。まるでその場面だけが時間の流れから切り取られ、置き去りにされているみたいだった。僕はそれを、病室に戻る通路を歩きながら横目で眺めていた。


 今からちょうど1年前くらい、外を歩く人達の息の形が白く見えるようになった、ある日の事だった。きっかけは色々あったと思う。彼が同じアイスを好む同士だったからかもしれないし、そのソファーを自分の場所と決めた理由が気になったからかもしれないし、そこでいつも一人きりだったからかもしれない。彼が座る4人掛けソファーの左端に腰かけて、アイスのふたをペリペリと開けながら、右端に座る彼に声をかけた。


「いつも同じアイスだよね」


 彼は突然話しかけてきた見知らぬ男の姿を、アイスを食べる手を止めないまま、怪訝そうに横目で見るに留めた。遠くから、診察待ちの患者の名前を呼びかける声が響いてくる。


「僕も、このアイス好きなんだよ」


 なんとか取り繕おうと、急ごしらえの笑みと共に声を投げる。すると彼は、僕の手元のアイスに目を落として尋ねた。


「お兄さんも冬なのに、アイスですか?」


 僕は、まあね、と笑って答える。


「純粋に好きなものに、季節は関係ないと思ってるよ」


 彼は、そうですね、と呟いて、正面のガラス壁へと目を向けた。僕も同じように、外に広がる景色に目を向ける。壁の向こうでは、寒々しい空を背にして、葉を落とし切ったソメイヨシノが沈黙を守っていた。


「この病院でアイスを美味しく食べる条件、知ってますか?」


 ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声が聞こえた。ふと目を向けると、彼は利発そうな目をこちらに向け、僕の様子を伺っている。少し考えてみても、さっぱり分からなかった。


「知らないな、一体なんなの?」

「木のスプーンで食べる事と、病室以外で食べる事ですよ」


 彼は少し得意気な顔をして、長年の研究の成果を発表するような明瞭な口ぶりで答えた。僕は外の寒々しい景色を眺めて、頭をぼうっとさせるような空調のぬるい風を感じながら、買った時に付いてきた簡素な木のスプーンでアイスを口に運ぶ。色々な温度が混ざり合って、脳が軽い混乱状態に陥る。しかし、病室では味わえない開放感と新鮮さが、確かにあった。


「うん、悪くない気がする」

「そうでしょう」


 彼は満足げにそう言って、そのまま自分のアイスを食べ終えた。そして、では、と言い残し、脇に置かれた松葉杖を拾い上げて席を立つ。僕もそれに、うん、とだけなんとか答えて、歩きにくそうにしながら遠ざかるその背中を見送った。


 その日からタイミングが合った時は時々、4人掛けソファーの端と端から、アイスを食べ終わるまでの間だけ話をするようになった。お互い病室ではいつもラジオを流していて、意識して聴く番組が一緒だったということで、大抵はその話題や、そこからつながる映画や音楽の話ばかりをした。お互いの事について話すことは、思い返せば少しもなかった。



「やあ」

「どうも」


 いつも通りの短い挨拶を交わしながら、ソファーの左端に座る。日向の特等席にある緑色のビニールレザーは、陽の温度を溜め込んでいて温かい。


 初めて話してから1年が経った今も、僕たちはお互いの名前も、この病院から出られない事情も知らないままだ。ソファー2人分の距離は今も変わらず、僕らの間に横たわっている。でも、それが心地良いと感じてもいた。


 ガラスの向こうには、去年から変わらず、何も実らせない枝を伸ばし、眠り続ける大きなソメイヨシノの姿がある。全てを支える、黒々とした巨大な幹だけが、その内にまだ、命の火が宿っていることを感じさせた。その姿を見て、咲くべき時を迎えた春に広がるだろう景色を夢想する。でもきっと、その春を僕が迎えられることはない。そう思うと、頭の中に描いた春の色は、一層鮮やかで美しいものになった。


「この前、部屋の前で死神に会ったよ」


 その僕の言葉に、彼は珍しく表情に驚きの色を浮かべた。


「死神って、第二病棟のですか?」

「うん」

「あの噂、ほんとだったんですね」


 彼はどこか感慨深さを伴った声で呟く。もっと正気を疑われるのを想像していたから、なんだか意外な反応だった。


「信じるの?」

「からかったんですか?」


 僕は慌てて否定する。


「いや、そんなつもりはないよ」

「じゃあ、それが真実なんでしょう。見えないからって、いないと言い切れることなんてありませんから」


 そう言った後、彼は自分の言葉にどこか満足そうな顔をして、アイスの次の一口を運んだ。そして、興味深々という風に僕に尋ねる。


「どうでした?やっぱり怖い感じですか?」

「全く。僕と同い年くらいの女の子だったよ」


 彼は急にじっとりとした目つきになった。


「からかったんですね」

「いや、本当なんだってば、さっき信じてくれただろ」

「急に妄想とか、願望の話みたいに聞こえてきました」

「勘弁してくれよ」


 困ったように言う僕の姿を見て、彼は楽しそうに声を上げて笑った。その後で、控えめな声で尋ねる。


「身体、良くないんですか?」

「うん、まあね」


 僕はなんでもない、というように笑った。


「もう長く生きられないと知った時、初めは、どうしようもなく怖かったんだ。死ぬことじゃなくて、自分の中で膨らんでいく、やり場のない気持ちがね」


 手元のアイスに目を落とす。じわりと溶け始めた部分から掬って食べる。昔から変わらない、優しい甘さが口いっぱいに広がっていく。


「でも、彼女が、死神がくれた言葉に助けられたんだ。死神に助けられる、なんて、変な感じがするけどね」


 彼はその言葉を聞いて、一人で何かを考えては、ふむふむと何かを納得して頷いている。


「なんだか、噂から受けた印象とは全然違いますね」


 続けて、こう切り出した。


「死神についての最初の噂って、聞いたことありますか?」

「いや、知らない」


 彼は一度頷いて、少しこちらに身を乗り出すようにして語り始めた。


「もう何年も前、ある女の子が、第二病棟の屋上から飛び降りたことがあったんだそうです。その子は飛び降りる前、誰の言葉も耳に入らないくらい、恐怖に染まり切った顔をして、しきりに同じ言葉を繰り返していたらしいんです。『死神』と」


 そこで言葉を区切り、彼は中庭の桜の木を指差した。


「そして、その子が落ちたのが、ちょうどあの桜の木の辺り。その年からあの桜は、花を咲かせなくなったんだそうです」


 話の内容だけ拾えば、よくある怪談の類に聞こえる。でも僕は、実際にその死神に会っている。死神。あどけない笑顔を浮かべる、生きる事に前向きな考え方を持った死神。優しい目で桜の木を眺めていた死神。確かに、彼女の本質を全てわかっているわけじゃない。でも、僕が知っている、あの優しい死神が招く結末だとは、とても思えない。


「でもなんだか、お兄さんの話を聞いてると、全然そんな感じはしませんね」

「そうだね、今の僕には、とても信じられない話だ」


 単なる噂話だと断じればそれまでだ。噂なんていくらでも尾ひれや羽ひれが付いて、いつの間にか原型をとどめない怪物になっていたりするものだ。でも、死神は本当にいた。それに、咲かなくなった桜。桜を見つめていた彼女の姿。それがなぜだか、頭から離れなかった。


「もしかして」


 考え続けるうちに、一つの可能性に思い当たった。それは推理なんてものじゃなく、願望と呼ぶのがずっと正しいものだった。でも僕は、それを確かめてみたいと思った。


「何か、思いついたんですか?」

「うん、少し、彼女に聞いてみようと思う。教えてくれてありがとう」

「そうですか、参考になったなら良かったです」


 彼はそう言って、とっくに食べ終えていたらしいカップをビニール袋に片づけ、松葉杖を掴んで立ちあがった。


「お身体、お気をつけて」


 そう言った彼は、初めて見るような優しい笑みを浮かべていた。僕は、ありがとうと答えて、ゆっくりと歩き去る彼の背中を見送った。


 ほとんど溶けきってしまったアイスをスプーンでかき回しながら、僕が出会った死神のことを考えた。思い出す彼女は、やはり曇りのない笑顔が似合う明るい少女だ。彼女に尋ねる言葉を考えながら、ガラス壁の向こう、長い眠りにつくソメイヨシノを、陽が傾く頃まで眺めていた。


**


 身を切るように冷たい風が通り過ぎて、耳が痛んだ。とっさに温めようとして、素のままの両手を押し当てる。厚手のコートを着込んでいるにも関わらず、身体は体温を上げようとして勝手に震え続けている。自分では寒いのは得意な方だと思っていたけれど、侮っていた。ほとんど外に出なかった長い入院生活の内に、身体は季節との折り合いの付け方を忘れてしまっていた。


 ソメイヨシノの幹に背中を預ける。ごつごつとした感触が背中を押し返す。真上を仰ぎ見ると、入り組んだ枝を抜けた向こうに、屋上を囲むフェンスと、重たそうな雲が漂う、朱色が浅くにじむ空が見えた。


「こんにちは、今日はここにいたんだね」


 鈴を転がすような声が聞こえて、視線を下げる。

 もうずいぶん見慣れた笑顔を纏って、死神が立っていた。風に流れた長い黒髪が、夕陽を映した波のように輝く。


「うん、桜が見たくなってね」

「咲いていないのに?」

「君が話してくれた、内側に溜め込んだ力っていうのに、あやかろうと思ったんだよ」

「なにそれ」


 そう言って小さく笑った。草花たちが沈黙する庭の中、彼女の笑顔は季節に取り残された花みたいに儚く見えた。


「でも、力になってくれるかもしれないね」


 彼女は大切なものを見守るような温かい目で桜を見つめている。まるでその眼には本当に、鮮やかに色づいた桜の姿が見えているみたいだ。


「聞きたいことが3つあるんだ、いいかな」


 彼女は、なに?と尋ねるように、少し首を傾げて僕の目を覗き見た。僕は桜の木の表面を手のひらで撫でる。植物というより、岩のようだ。冷たくて、ごつごつとしている。


「君は、この桜が咲かなくなった理由を知ってる?」


 突然、彼女の表情が嘘のようにこわばった。いままで見たことのない、固い表情だった。


「知らないよ」


 何かをためらうような声が返ってきた。僕は少し間をおいて、続ける。


「じゃあ、ここに落ちた女の子のことは?」


 彼女は驚愕に目を見開いて、まるで震えているみたいに、首を小さく横に振った。僕はそれを見て、間違いない、と思った。


「最後の一つだけど」


気持ちを落ち着けるように一度深呼吸をした後で、尋ねる。


「何年も前、屋上から飛び降りた少女っていうのは、君のこと?」


 根拠なんてまるでなかった。飛び降り、咲かなくなった桜、初めの死神の噂、それが同時に起きたというだけ。一番の理由は、彼女が誰かを追い込んだということを信じたくなかった、ということ。これはただの願望だ。

 でも、今こうして話を聞いて確信した。彼女は自分の罪を隠すようなことはしない。もし本当に誰かを追い込んでしまったのなら、何かを答えてくれただろう。よく考えると、これもただの願望だ。でも、色々な可能性があるのなら、一番好みに合うものを信じたかった。


 それを聞いた彼女は一度目を閉じて、少し考えるような間を置いた後、ガラス玉のように澄んだ目を、真っすぐに合わせた。


「うん、そうだよ」


 凍えるような風が吹き抜けて、気が付いた。いつの間にか身体の震えは止まっていた。彼女は少し自分の身体を温めるように身をすくめて、ぽつりぽつりと語り始めた。彼女自身に起こった全てを。


**


 昔から両親は仕事が忙しくて、休みもあまり取れなくて、家に帰って来るのは私が眠るくらい遅くだった。だからいつも一人でご飯を温めて食べて、それでも、私の誕生日にはいつも早く帰ってきてくれて、一緒にご飯を食べに行ったり、お休みを取って一緒にお出かけに連れて行ったりしてくれた。本当に、優しい両親だった。


 桜の咲く時期に生まれたから、『さくら』。笑っちゃうくらい単純な成り立ちの名前だったけれど、私はそれをすごく気に入っていた。桜はとても辛抱強くて綺麗な花だから、それと自分を繋げるものがあることも、純粋に嬉しかった。


 始まりは、私のわがままだった。中学三年生の私の誕生日には、家族揃って、山を越えた先にある森林公園まで、お花見にいく約束をしていた。でもその前日に、お父さんに急な仕事の連絡が入って、お花見には行けなくなってしまった。申し訳なさそうに謝るお父さんに、本当は、いってらっしゃい、って言うつもりだったのに、自分でも分からないくらい、それがとても悲しかったみたいで、言葉が喉に詰まって、思わず泣いちゃったんだ。それで、言ってしまった。お花見、行きたかったって。


 それを見たお父さんは、色んな所に電話をして、その仕事をお休みにしてくれて、大丈夫になったよって笑ってくれた。私は、ごめんなさいって思ったけど、それよりもずっと、嬉しい気持ちが大きかったな。


 次の日の誕生日、私はそわそわして、朝早くから起きちゃって、お母さんがお弁当を作る準備を手伝ったりしてた。お父さんは、張り切っておしゃれして、普段じゃ絶対選ばないような気取った帽子をかぶってて。それを見てお母さんと一緒に笑ったら、少し不服そうな顔をした後で、照れたみたいに笑ってた。


 そうして、お昼になる少し前くらいにはお父さんの運転する車に乗って家を出た。本当に天気のいい日で、後部座席の窓から見上げた空は、雲が一つもない、透けるように綺麗な青色だった。まるで私の心模様みたいで、思わずつられて嬉しくなった。世界中からお祝いしてもらっているような気すらしていたな。


 お花見場所の公園が近付いてきた、見通しのいい大通りだった。対向車線を遠くから走って来ていた大きなバスが、突然不安定にふらふらと蛇行して、こっちの車線を塞ぐように横倒しになった。お父さんは急いでブレーキをかけたけど、とても間に合う距離じゃなかった。最後に見えたのは、フロントガラスを埋める、くすんだ白いバスの車体と、助手席から私を守るように飛び出した、お母さんの必死な表情だった。


 私たちは公園の近くの病院、つまりはこの病院に搬送されて、後部座席にいた私だけが、お母さんが覆いかぶさって守ってくれたお陰で、一命を取り留めた。他に身寄りのなかった私は、あっさりと一人ぼっちになった。


 目が覚めた後の私は、からっぽだった。難しい話は全部、保険の会社の人に任せて、私はずっと、自分を責めながら泣いてばかりいた。あの時わがままを言わなければ。お花見じゃなくて別のところに行っていれば。どうして私が生き残ったんだろうって。助けてくれたお母さんの気持ちなんて、すっかり気付かないままで。


 それからは、優しくしてくれる人の好意を拒みながら生き続けた。大切な人を自分のわがままで無くした自分には、もうその資格がないと思ったし、誰にも、この気持ちは理解できないと思っていた。この悲しみも、怒りも、やるせなさも、不安も、後悔も、大切な人がまだ生きている人になんて、理解できないと思っていた。


 でも、理解できないのは当たり前のことだった。それぞれ違う人間なんだから、完璧に理解できることなんてあり得ないんだ。重要なのは、想像力を使って歩み寄ろうとしてくれた人たちがいたことだった。

 でも、そうしてくれた人たちの事を、拒絶してしまった。お見舞いに来てくれた同級生の友達を追い返して、同室になった子の呼びかけには答えず、熱心に気遣ってくれた看護師さんの言葉にも反発した。自分でもどうしたらいいのか分からないような、暗澹たる気持ちを抱えたまま、そうやって心を閉ざし続けた。


 私が入院したのは、第二病棟の大部屋の病室だった。本来は外傷で入るような病棟ではなかったけれど、あの事故でバスに乗っていた乗客も多く搬送されてベッドが足りていないせいで、そこに転がり込む形になった。


 隣のベッドになった女の子は、重い心臓の疾患を抱えていた。窓際のベッドだった彼女は、いつも暗い顔をして俯いている私を気遣ってか、夕焼けが綺麗だったり、近くにツバメが巣を作ったり、空に虹がかかったりと、外に何か面白い変化がある度におずおずと知らせて、なんとか私と関わろうとしてくれていた。私がそれに何かを答えることは一度も無かった。


 あの事故の後から、怖い夢を見ることが多くなっていた。状況はそれぞれの夢で違っていたけれど、最後には決まって、両親が私の前からいなくなる。そんな夢だった。

 ある日の夜も、夢のせいで目が覚めた。しんと静まった病室の中で、何かの機械が発する、低く響き続ける作動音がいやに大きく聞こえて、私は布団に潜り込んで、一人で声を殺して泣いていた。


「大丈夫?」


 布団の外から、くぐもった声が聞こえた。その後、控えめに布団を叩く気配がした。


「痛いところがあるなら、看護師さん呼ぼうか?」

「大丈夫だよ。平気」


 かすれた声で、なんとかそれだけを答えた。もちろん全部嘘だ。でも、他に言える言葉は思いつかなかった。でも、彼女はそこで納得して、去ろうとはしなかった。


「私もね、眠れないんだ。外の自動販売機まで、ジュースを買いに行ってたの。よかったらどっちか飲む?」


 そっと目だけを布団から出すと、彼女は両手にそれぞれ握ったお茶とカルピスウォーターを私に向けてそっと差し出す。私はカルピスを手に取った。

 彼女は優しい表情で、なんでもいいから、話せることがあったら教えてね、と言った。

 入院してから、誰かとまともに話すのは、これが初めてだったと思う。私は小さな声でぽつり、ぽつりと、今までに起こったことを話した。彼女は控えめに相槌を打って、静かに涙を流しながら私の話を聞いていた。


「よく頑張ったね」


 話し終えた後、彼女は震える声で最後にそう言って、私の手を包み込むように握った。頑張った。私は頑張ったのだろうか。分からなかったけれど、涙は次々頬を伝って落ちた。手の甲から伝わる温度が、血流に乗って、私の心まで温めてくれたような気がした。溢れ続ける涙が止まるまで、彼女はずっと手を握ってくれていた。


 翌朝目が覚めると、私の心持ちはずいぶん変わっていた。一月以上は過ごしている病室の天井の白さすら、今初めて見たみたいに新鮮に映った。ベッドを囲うカーテンを開けると、起きたばかりの様子で、少し広がった髪を梳かしている彼女と目が合った。泣いているところを見られたことを思い出して、気恥ずかしさが込み上げる。それを誤魔化すように、私は冗談めかして指摘した。


「おはよう、目が赤いよ」


彼女も笑って答える。


「おはよう、そっちもだよ」


 ベッドの横の手鏡を手にとって見ると、そこにはシロウサギみたいに赤い目をした私がいて、おかしくなって吹き出した。すると、彼女もつられて笑い始めて、検診に来た看護師さんに怪訝な目で見られるまで、二人でそうして笑い続けていた。久しぶりに、心から笑えていたと思う。


 私たちは、少しずつ自分たちのことを話すようになった。通っていた学校のことや、愛読している漫画のこと、彼女は絵を描くのが好きだということ。言葉を少し交わすたびに、温かくて心地良い感情が胸の奥に広がり、世界は少しずつ色彩を増していった。


 突然のことだった。ある日の夜中に、彼女の容体が急変した。久しぶりにゆっくりと眠りに就けていた私は、隣のベッドの異変に気付くのが遅れた。ベッドから落ちて、胸を抱えたまま動けないでいる彼女の代わりに、ナースコールを何度も押した。早く誰か来て、急げ、と強く念じながら、何度も、何度も押した。けれど、彼女はもう手遅れだった。


 後から聞いた話では、彼女はもともと、次の発作には耐えられないような状態だったらしい。あなたのせいではない、と宥められたけれど、親しい人を続けてなくした私の心は、もう疲弊し切っていた。私は、自分が死を媒介するとんでもない化け物になってしまったと信じ込んでいた。近づいた人を、死に至らしめる。まさに、死神だと。


 今思うと、完全な錯乱状態だった。けれど、あの時の私にとっては、それが真実だった。私は自分に近寄るものを全て拒んだ。私は死神なんだ。そればかりを繰り返していた。あんな思いをするのは、もう怖かった。そんな状態が続いて、とうとう私は、自分が生きていることも許せないという思考に陥った。


 医療スタッフすら近づけようとしない。そんな状態でも、最初から付き添ってくれていた看護師さんは、私を必死に理解しようとしてくれていた。その優しさが、その時の私にとっては怖かった。目の前に迫るバスの外壁が、床にうずくまる彼女の姿が、脳裏を何度も駆け巡った。


 それを繰り返した私は、もう限界だった。カウンセリングの先生の言葉も聞かないままで、途中であった何もかもの制止を振り切って、病院の屋上まで駆け上がって、沢山のスタッフの前で、身の丈の倍はあるフェンスをよじ登り、乗り越えた。


 落ちていく時、目の前の景色の中心には、大きな桜の木があった。それでここが、病院の中庭だと分かった。青々とした緑の葉が、海のようにさざめく中に、吸い込まれるように落ちていく。

 その短い時間で、随分と色んなことが頭に浮かんだ。追い返してしまったきりの、仲良くしてくれた友達たち。隣のベッドに座る、彼女の泣きはらした目。ずっと私に優しくしてくれた、お父さんの人懐っこい笑顔。最後に見た、必死に私を守ろうとするお母さんの表情。


 そうだ。

 私は、生きなくてはいけなかった。


 お母さんが守ってくれた命、彼女がわけてくれた優しい温度、その分まで、誰かに受け継ぐまで、生き続けなくてはいけなかった。


 そう思った瞬間、私は激しく後悔した。こんなことは、決してするべきじゃなかった。ごめんなさい。そう頭の中で繰り返すうちに、視界は急速に緑色で埋まった。


**


「次に目が覚めた時は、あの病室の扉の前に立っていたの」


 彼女は風に靡く髪を抑えながら、僕の病室の方を仰ぎ見た。


「そこの窓から中庭の様子を確認したけれど、私の落ちた痕なんかは何も残っていなかった。私が落ちた日から、何カ月も時間が経っていたみたいでね。こんな幽霊にも、すぐなれるわけじゃないのかもね」


 彼女は自虐をするように、小さな笑みを浮かべた。


「その空白の時間のうちに、ここには噂が流れ始めていたの」



『第二病棟には、死神がいる』



「私の言動を断片的に聞いた誰かが、死神って言葉を面白がって語って、そのまま定着したのかもしれないね。でも私は、その噂に乗っかってみることにしたの。そこに何かがいる、って強く思っていて、寿命が残り少ない人ほど、私の姿は見えやすいみたいだったから」


 想像する。壁の染みが人の顔に見えてくるのと同じ原理なのかもしれない。今思えば僕も心の隅では、死神の存在を信じていた。


「見える人とは、あの病室から出るまでに、色々な話をした。私があの子に救われたみたいに、言葉を通して、誰かを救えるんじゃないかって思ってたから。それが、お父さん、お母さん、彼女にもらったこの命の責任を果たすことになる気がしたから」


 彼女は、そこにある痛みを確かめるように胸を手で押さえた。


「死神はね、命を終わらせる存在だけど、死後の魂を、正しく魂を導くものでもあるの。私は、それに似た役割をしたかった。失望だけに暮れる最期は、きっと辛いものだから」


 伏せた彼女の瞳から、涙が数滴、白い頬に軌跡を描いて流れ落ちた。


「でも、もうそろそろ時間切れみたい。だんだんここに居られる時間も短くなってきてるの。こんな奇跡みたいなことは、長続きしないんじゃないかって思ってたけど、もう終わりだね」


 儚げな笑みを浮かべた彼女を見て、僕は反射的に答えていた。


「僕が、その想いを継ぐよ」


 そう言うと、彼女は驚きで目を丸くした後、伏せ目がちに答えた。


「気持ちは本当に、本当に嬉しい。でもね、あなたの時間は多分、そこまで多くはないと思う。神様じゃないから正確にわかるわけじゃないけど、纏っている雰囲気が、こっちのものに似てきてるの。君は、君自身のために残りの時間を使うべきだよ」


 それでも、僕の心はもう変わらない。


「そうだね、僕も嫌というほどに感じている。きっともう、あまり長くは生きられない。だから、僕も託すんだ」


 冷たい風が吹き抜けて、隠せていない手や耳が痛む。ぐっと、手を握り締めた。


「僕がいなくなっても、物語は残る。きっと誰かの中で、熱を持ち続ける」


 残りの命で、誰かの中に残るものを作る。


「そんな物語を、僕は書くよ。それが僕にとっての、最良の余生の過ごし方だ」


 その言葉に、彼女は顔いっぱいの笑顔で、ありがとう、と答えた。その細めた目の端から涙が零れると同時に、彼女の姿がふっと、闇の中に消えた。


 見上げれば、空からは夕の色が失せ、にわかに星が輝きだしている。きっともう時間がない。僕は急いで、自分の部屋へと戻るために病棟への扉をくぐった。廊下の窓からは、満月に照らされた桜の枝が、その光を受けて淡く輝いているように見えた。


**


 かつての僕は、文章を書くことが好きだった。それは、図書館にこもり続けた日々の延長にあった。本を読み、その物語、彩る言葉、世界の設定、人物の魅力に感動を覚える度、いつか自分も、誰かの生き方に寄り添えるような物語を書きたい、と強く願うようになった。


 授業中は、ノートにひたすら向き合った。黒板には目もくれず、ただ自分の言葉がノートを隙間なく埋め尽くすまで、手を動かし続けた。家に帰ってからは、父親から譲ってもらった型落ちのノートパソコンに向かって、文字を打ち続けた。そうやって、自分の心を埋められるような、最良の物語を探していた。

 僕は思いつくままに書いた。自分を救えるような物語を想像して、書いて、書いて、書き続けて、ようやく満足できるものが出来上がると、宝物を眺めるように、それを何度も読み返して過ごした。


 そんな中で、一つの想いが湧いてきた。できたものを、誰かに認めてもらいたい、という気持ちだった。そうすれば、生み出した作品の価値を信じられる。自分だけではなく、誰かの胸に届くものだと信じられる。僕は色々な賞へ作品を送り、そして、ことごとく落選した。


 落選の通知が来るたびに、全てを否定された気持ちに陥った。自分が唯一見つけられた、大好きなものでさえも、才能はない、誰かの心に届くようなものは生み出せない、という烙印を押されたように思えた。


 文章力、構成力、設定における不備、それらの欠落はきっと継続した積み重ねで埋めていくものだったに違いない。初めから全てが上手くいくことなんてあり得ない。しかし、その時の僕は才能主義ともいえる考え方に陥っていた。


 それからも僕はいくつかの物語を書いた。けれど、途中で読み返してみると、何かの要素が欠落しているように感じて、書き終える途中で手が止まってしまう。

それを繰り返し続けた結果、僕はとうとう何も書けなくなってしまった。自分が望んでいたものが何だったのか、その願いの輪郭すら、思い出せなくなってしまった。


 でも、今ならわかる。僕は喜び、怒り、悲しんだ時、あの魅力的なキャラクターたちの心の動きに自分を重ねた。そうすると、喜びはより鮮やかに、怒りは少し客観的に捉えられ、悲しみはその受け皿を見つけられたような気がした。そうして僕は現実と折り合いをつけることができた。あの日々を、乗り越えて来られた。


 僕が物語に魅せられた理由は、そうした感情の共振、ともいえる現象だった。

 物語は人の様々な感情を揺さぶり、目覚めさせる。きっと、人の優しさだってその一つだ。


 僕は彼女の言葉に触れて、考え方を変えられた。それは決して、雷に打たれるみたいに劇的なものではない。道端に咲く花の美しさに気付くような、どこかで鳴く虫の声に耳をすませるような、通いなれた道の壁で、切な想いの込められた落書きを見つけるような、ささやかで、それでいて鮮やかな変化だ。


 日常に潜む、そんな可能性を思い当たらせるような物語を書きたい。少し前の僕が読んで、そのことに気付けるような、心の底に沈んでいた優しさを、にわかに浮かび上がらせるような、そんな物語を。


**

 

 一日三度、運ばれてくる食事を摂る。食欲は相変わらず湧かないが、身体を維持するという確かな目的を持って口に運ぶ。その食後には、決められた薬を飲み下す。


 そうした後には、空になった器を避けて、時代遅れのノートパソコンと、あちこちよれたキャンパスノートを広げる。


 彼女の姿は、あの日以来見えなくなってしまった。彼女の言うように、時間切れの時が来たのかもしれない。けれど、物語に行き詰まったり、重い発作に苦しむ夜には、緑の葉を茂らせて穏やかな風に揺れる桜の木の夢を見た。そうやって、まだそばで見守ってくれているような気がした。


 クリスマスと新年には、家族が部屋まで来てくれた。前までの僕はこういう時、表面上は喜んでおきながら、その優しさの周りに何かの影を見つけようと躍起になっていた。けれど今年は嘘ではなく、心の底から一緒に過ごす時間を楽しむことができた。ただ一つだけ、僕の体調に関する嘘だけは、最後まで吐き通すことに決めた。帰り際のさよならの重さを、僕だけが知っていた。


 それから二週間が経ったあとの夕方、思いつく限りの優しい言葉を詰め込んだ物語は完成した。看護師さんに頼み込んでそれを紙の束に印刷してもらい、『夕焼け小焼け』が漏れ聞こえる病室で、最後の確認のために、一枚一枚ゆっくりと読んだ。


 紙をめくる時、彼女もすぐそばで一緒に読んでくれているような気がして、僕は心持ち、めくる手の速度をゆっくりにした。そうして読み終わり、いくつかの修正点を反映させた後、初めから決めていたタイトルを付けた。


 『夕焼けと死神』。僕が彼女のおかげで、最後に好きになれたもの。


 それを、ネットの小説投稿サイトへと投稿した。誰の手元へ届くのかも、その誰かが開いてくれるのかも分からない。大海原に、個人へ向けたメッセージボトルを浮かべることに似ている行為。それでも願いを込めて、送信ボタンを、心持ち強い力で押した。


 それと同時に、全ての力を使い切ったようだった。意識を刈り取るような強烈な眠気が訪れて、それに従うままベッドに横たわった。窓から見える空には、柔らかな橙色が広がっている。明日を想い家路につく人々を、温かく見守るような空だった。


 目蓋がとても重い。それでもまだ、この空の色を目に焼き付けていたかった。この世界を満たす美しい色を、心に刻み付けておきたかった。それでも、とうとう限界がきて、支えきれなくなった目蓋が落ちる。その後にはただ、音の無い暗闇がどこまでも続くだけだった。


**


 閉ざされた暗闇の中、彼女と過ごした夕焼けの色を想う。朝日のようにも見えるその光に包まれながら、ありがとう、という彼女の言葉を聞いた気がする。


その次の瞬間、視界が端から、桜色へと塗り替わっていく。気が付くと僕は、満開の桜が波打つ、森林公園の中にいた。


 公園の奥から、はしゃぐような声が聞こえて、目を向ける。花弁の積もる桜並木の道で、ベルトのついた帽子が似合う優しい目をした男性と、芯の強そうな目をした清楚な装いの女性が笑みを交わしている。


 その二人が見つめる先で、あどけない笑顔の少女が、地面に積もった花びらを両手で掬って、思い切り舞い上げる。きれいだね、と笑う少女に、二人は、誕生日おめでとう、と優しい声音で言葉を贈る。少女は二人にそれぞれ抱き着くと、間に割って入り、両の手をつなぐ。穏やかな春の陽の中、三つの影が、ゆっくりと光の中へ進んでいく。


 ありがとう、さようなら、優しい死神。


 そう呟いて、その景色に背を向けた。歩き出そうとした時、すぐ後ろから、待って、と呼びかける声が聞こえた。


 振り向くと、先ほどの少女が、すぐそばで人懐っこい笑みを浮かべている。なにしてるの、置いてくよ。楽しそうにそう言って、手のひらを差し出す。自分の手を重ねると、春の陽よりも、いつかの夕焼けよりも、確かで柔らかな温もりを感じた。


 彼女は導くように手を引いて歩き出す。その先では、二人の男女が手をひらひらと振って、僕たちを待っている。


 僕は我慢できずに駆けだす。すると彼女も、ずるい、と言って後に続く。


 僕たちは一緒に、春の陽射しの中へと溶けていく。


 何かが始まるような予感に、胸を高鳴らせながら。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ