山田琴葉とヒーロー0
とある六月の日の、あるひと時。
期まっちゃんこと期末テストが間近に迫っているという現実を山田琴葉が認知したのは、どうやらこの時らしい。
「うわ、期まっちゃんって七月だっけ。ヤバっ、勉強不足ヤバっ。甚だしぃレベルなんだけど」
金曜の五限。授業は体育。男女は混合。そして本日プール開き。
よく晴れた青空の下は、喧騒に満ち満ちていた。校内に二つある棟の一つにあたる教室棟(ちなみにもう一つは文化棟。こちらにはプールもベンチも何もないけど)の屋上に設置されたプール内からはキャキャと弾んだ笑い声。若い。若いわ。若すぎるのぁぁぁ! と、授業の責任者として飛び込み台上より皆を監視する三十路女性体育教諭が軽く発狂してしまうくらい、ここには確かな青春ワールドが形成されていた。
ただ、その一方で、
「ぬかったわ。ぬかりすぎたわ。まさか期まっちゃんが二週間後にあるなんて……くそっ、聞いちゃないわよ」
「いや言ってたし。昨日のホームルーム中に先生口を酸っぱくして言ってたし。お前は寝てたがな」
「マズイわね。私、前回の中間テストも悲惨だったし。このままだと赤点……ううん、マジで退学とか。危ういかも」
「そっか……それは、残念だったな」
現在地、プール。の、外の、隅。格好は白の半袖と紺のハーフパンツ。
見学しているわけだ、俺は。体育服で。屋根の下、ベンチに尻をつけて。己と同様の格好をした、一時間授業に集中したら一時間眠らないと死んじゃう病を患う女の子の横で。仲良く二人っきり。しかし低いテンションで。なぜなら、
「ま、でもそれはいいよ。気にしない気にしない」
「……良きゃないだろ。死活問題だろ」
「にしても驚いたね。あの若葉がまさかカナヅチだったなんて」
「聞けよ! っか、う、うるせ。大体お前も見学じゃん。ははん。もしかしてお前も泳げないんじゃーー」
「泳げるわよ。もちろん。たぶんオリンピックに出れるくらいにわね」
ふわーと眠たそうにあくびを漏らしつつ、ベンチをはみ出した足を退屈そうにぷらぷら揺らし、琴葉は何でもないように言う。
……その台詞、まったく冗談に聞こえないから怖いんだけども。
「ちなみに百メートルは十一秒台で走るし、バスケだと助走なしでダンク行くし、サッカーはまぁあんな感じだし、テニスだと波動球とか打てるし、野球なら百三十キロは出せる」
「待て待て。何だよいきなり。何の自慢かよ」
「そう、自慢! でもこういう嫌な現実に直面したときはこうでもしないとやっていけないでしょ!」
「そんなの! そんなの……まぁそれは一理あるけど」
けど、その自慢を聞かされる側はたまったもんじゃない。
歯切れよくポポポポーン。と、滑らかな舌さばきでとても同学年(しかも異性)とは思えぬポテンシャルを並べられ、でも俺も『パワプロ』の中なら百三十キロ出せるけどぅ。だから負けてないですけどーーなどと情けなすぎる意地を張ってしまう己が恨めしい。何故俺がこんな不甲斐ない思いをしなければならないのか? お願いだから自慢するなら他の人に話してくれないかな、この人。
「って、そっか。他に話し相手いないんだったな、お前」
「な、何よその哀れむような目つきは。馬鹿にしてんの?」
「いや。馬鹿にしちゃねぇよ。俺はただ、純粋に、憐れだなって思って」
「料理も得意よ、私」
「まだ続けんのかよ」
ってか、山田琴葉が家事が得意なんて。自分で何言っちゃってんのこの子。ププッ、と。
おそらく他の誰かに話したところで誰も信じちゃくれないだろう。それについこの前までの己自身に説明しても鼻で笑われるだろう。が、これが意外や意外。この娘、『できる女』なのだ。
あれは始業日より三日が過ぎた頃。
その日俺は近くの病院のベッドにお世話になっていた。例の日野大事件にて全身打撲。これがきっかけととなり俺は授業初日から一週間の退屈な入院を余儀なくされたのだ。が、
その期間中、現れたのだ。山田琴葉が。何の脈絡もなく、己の見舞いに。
リンゴ共に。
そして目の前でリンゴからウサギを作り出し、食べさせてくれた。驚くほど器用な手先で。というか、慣れた包丁捌きで。料理初心者の自分ですらこの子料理できる子だ。と思わせる動きでーー。
「他にも、掃除・洗濯とか、家事全般はできるよ」
「そりゃ凄い女子力だな。どうだ、俺のお嫁さんに」
「死んでも嫌」
拒否られた。
まぁ、構わないけど。
「でも本当。大したもんだよな。何でお前はそんなに……あ、そっか。お前、一人暮らししてんだっけ」
「うん。もう三年目になる」
「道理で道理で。ま、それを含めてもすげぇけどな。俺には無理だ」
共働きの両親は出張中。二つ離れた実妹に家事全般を任せている俺には到底できない芸当だ。
「別に、すごくなんかないよ。すごくないから、今見学してる」
こちらが山田琴葉のらしくない長所を珍しく素直に褒めているというのに、琴葉はどこか面白くなさそうな表情を浮かべている。何故だろうか? 疑問に思い尋ねようとした矢先、しかし彼女はおもむろに人差し指の先を前に向けて、
「楽しそうよね〜」
「へっ? あ、あぁまぁ、そうだな」
特に男子が。楽しそうというか何かこう、幸せそうだ。
「若葉はさ、水泳の授業って。いつも見学してたの?」
「やることないからここでクラスで一番胸の大きい子を眺めてた」
すーと無言で眦を釣り上げた琴葉の殺気を感じ俺は思わず漏れた失言を猛省。琴葉はさらに人差し指の先を俺の目ん玉の前に寄せて、
「うわっ、待て! 違う。冗談だ冗談。ほら、俺がそんなことするわけないだろ」
「どうだか。若葉って変態だし」
ジト目で睨んでくる。つか変態って……どうもこいつ、俺が桐先のいる交番前で裏切ったことをまだ根に持っているらしい。
「ま、別にいいけどね。若葉の目が誰に向いてようとも、別に。……そんなことはどうでもいいんだけど」
「そうかよ。ってかお前は何で見学してんだよ。聞いてる限りじゃ泳ぎが苦手ってわけでもないんだろ」
「逆に訊くけど、あんたあの集団のあの雰囲気の中に一人でぶっこめる?」
絶対無理っしょ。とでも付け足しそうな、試すような物言いの琴葉の視線を追って、俺もプール内に目を向けた。プールの授業は基本的にいつも自由時間だ。つまり何をしてたって構わない。
青空の下、バシャバシャと気持ちよく水泳を楽しむのはもちろんのこと、ど真ん中でわいわいとボール遊びに興じてようが、端でこっそり間近に迫った期末テストの勉強をしてようが、年頃の男子諸君がエッチな眼差しで年頃のガールのデリケートな部分を「ありゃDだな。Dだぜ」とひしめきあってようが咎めるものはいない。
ただいま俺と琴葉の目の前ではクラスメイトたちがそれぞれ目的を持って行動し、差し迫った脅威に真剣に向き合う一部の生徒を除いた多くの生徒たち憂鬱な教室での授業とは違う、とても充実した表情を浮かべていた。
……まー確かに、こりゃきついな。
「そういうことよ。あのイカれたテンションの少年少女多数と同じ場所とこに入って、あんたがいなかったらボッチの私は一体何をすればいいってのよ。気まずすぎて死んじゃうわよ私」
「かもなー。実際俺も単に水が苦手ってだけじゃなくて、あの空間に入る勇気がなくて見学ばかりしてるって側面もあるからな」
だからその気持ちはよく分かる。
周りのテンションが高ければ高いほど、ボッチの居心地の悪さは膨らんでしまうものなのだ。悲しいことに。
「はぁ、大体何でプールのときってみんな他の体育の種目より全然テンション高いのよ。特にあの坊主とか、見てよあれ。でっかい女の子の乳をガン見しながら小躍りまでしちゃってさ。あんなのさ、ただの変態じゃない」
「おいおい指を指してやるな」
「若葉じゃないの!」
「俺じゃねぇよ!」
いやほんと、頼むからその変態=俺という等式はやめてほしい。地味に凹むから。
「まったく何なのよもう。みんなみんな、あんな風にハッチャケちゃって。楽しそうに、幸せそうに、み、見せつけてくれちゃって」
「お前、羨ましいのか?」
「べ、別にっ! う、羨ましいくなんて別に……」
ない! ってことはないのだろう。
琴葉はこう見えて正直な人間だ。最近知った。嘘で自身の気持ちを取り繕うとしても、その表情や仕草で一発で見抜かれてしまう。たぶん本人が認めることはないだろうが、その瞳は確かに憧れの感情を湛えていた。
ま、だからこそ。
そんな顔を間近で見ちまうと、だな。
「でも、今は独りじゃないだろ」
「えっ?」
「友達がいるわけだ。お前と、俺な。次は俺も頑張ってこの授業出るからさ、俺たちもあの中で駄弁ろうぜ」
俺はクラスで一番胸の大きい藤谷さんを眺めつつ、男らしく一言。
琴葉は一瞬驚いたように目を丸くしたが、そのうち、ふっと。柔らか声音で。
「ね、ねぇ若葉」
「ん?」
「私の胸、そんなエロい目で見ないたらぶっ飛ばすからね」
……心配するなよ、琴葉。
見ないよ。お前の慎ましい胸なんか。
ただ、もしかしたら。
もしかしたらあの人は、こんな何気ないひと時でさえ、どこからか見守っていたのだろうか?
それは考えたところで答えが出ることは永遠にないクエスチョンであるのだが、それでも俺はを思い、そして仰いだ。
この大きな青空を。