山田琴葉とヒーロー4
数分後。
俺はとある墓石の前に立っていた。
そこは入口から最も遠い最右最奥の墓石の前。眼前では狐が、その背を墓石に預けてしゃがみ込んでいる。
……いや、正確にはもう狐じゃねぇか。
面は剥いだ。今、俺を見上げているのは赤い目。どっかの誰かさんによく似た鋭くて赤い瞳。まぁ、それもそうだろう。だって彼女は――。
「悪かったね、こんなことに巻き込んじゃって」
琴葉の母さんだから。
「いえ、大丈夫っす」
琴葉の母さんは琴葉に似て美人だった。
艶やかな黒髪を肩のラインで切りそろえ、琴葉と同じように胸も顔も小さい。まぁ、これを言うと琴葉は怒るだろうが、琴葉と比べると身長は平均的だった。琴葉みたいに小っちゃくはない。
と、俺としてもこんな美人さんに謝られると、
「ほ、本当に大丈夫です。きゅ、救急車もちゃんと呼びました!」
少し噛んでしまう。見つめられるのが気恥ずかしく、つい視線を逸らしたくなる。
「ん、んん!」
そんな自分の気持ちを誤魔化すように、俺は一度咳払いをした。心臓はバクバクだが、それでも琴葉の母さんを見据える。どうしても訊きたいことがあった。
「あの、琴葉の母さん」
「いいわよ、狐で。それに、あなたの聞きたいことも分かるから」
言って、狐は俺に告げた。
「そうよ、琴葉を不良に仕立てたのは私よ」
「……どうして。そんな」
自然と、声に苛立ちがこもった。
「強くなって欲しかった。最初はそれだけだった」
淡々と告げ、狐はクイッと顎をしゃくった。おそらく狐が寄りかかっている墓石を見ろってことだろう。俺はそう判断し、視線を狐から墓石に移す。
見たとこ普通の墓石だった。普通に花が添えられ、普通に線香が置かれている。形だって俺の思い浮かべるあの二段ケーキを角ばわせたようなやつと大して変わらない――が、一つだけ普通ではない箇所がある。いや、墓石の上に狐がいる! というさっきみたいな心臓に悪いことではなくて、一般的には普通のことなのだが。少なくても俺にとっては……。
「この墓、琴葉の家系のやつか?」
狐は無言で首肯する。
「なら、あいつの爺ちゃんとか婆ちゃんの遺骨が?」
俺の問いに狐は首肯しなかった。
代わりに俺に問いかけてくる。
「琴葉は、お父さんのことをなんて?」
問われ、思い返す。
「……えっと。確か海外に単身赴任中で、あと五・六年は帰って来れないとか、何とか」
俺の曖昧な記憶に、狐は「その通り」と頷いた。
そして、もう一度、同じように。
「その通りに、私が嘘をついた」
「えっ……嘘?」
「あの子のお父さんも入ってるのよ。ここに」
「っ!」
俺は言葉を失った。
俺の失った言葉を埋めるように、狐は淡々と、変わらないペースで続ける。
「お父さんが事故で亡くなったとき、琴葉はまだ十歳だった。今のあの子からは想像できないでしょうけど、あの子はとても甘えん坊さんでね。お父さんのことが大好きで、何より、とても弱々しかったから……」
淡々とした狐の口調は変わらない。けれど、その表情に、このとき初めて、
狐の悔しさが表れた。
「私があの子を強くしないといけないって、そう思った」
あぁ……と、喉の奥から声にならない吐息が漏れる。
耳にしたモノの強さによって、気づく。
表面上、狐は泣いてない。でも、きっとこの人は泣いているんだ。
きっと三年前。彼女が琴葉を手放した瞬間を、彼女はずっと後悔しているんだ。
「だから故意にあの子の敵を作った。怖い敵さえいればあの子が自分自身で強くなることを決意すると思ったから。小学五年生のときに独り暮らしをさせたのも、ママと呼ぶのをやめさせたのも全部そう。孤独という苦痛を乗り越えて、強い心を持って欲しかった。だから琴葉が泣きついてきても私はそれを拒んだ。耐えられず、あの子が独りで泣き叫んでいても、私は見て見ぬふりをした。どんなに嘘で取り繕ったってあの子はいずれ真実を知る。なら、そのときまでにあの子を強くしないといけなかった。大好きだったお父さんの死を乗り越えられるくらいに、私があの子を強い女の子に育てないといけなかった。そうでないと、お父さんを失ったショックであの子が壊れてしまうと思ったから――でも」
逆接後の狐の言葉は、狐のボロボロの体が伝えていた。
「結局、壊れてしまったのは私の方だった」
言って、狐は夜空を仰いだ。まるで昔を懐かしむように、呪うかのように。
「頼れる身内はいなかった。私の両親も、お父さんの両親もすでに亡くなってしまってね。私が頑張らなければと思った……。そして無理をした。私も、もう長くはないのよ」
見れば分かることだった。先程の吐血。俺に付着したこの血は、琴葉と狐を繋ぐもの。そして、琴葉を絶望へと誘うもの。
……笑えねぇ話だ。何であいつばっかり貧乏くじなんだよ。
俺は拳を握り締める。悔しかった。何だか、無性に。
そんな俺を見上げ、狐は再び言葉を紡ぐ。
「その折、私はあなたを見つけた。あの子のために一生懸命戦ってくれた、あなたを」
狐の赤い瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。
「そして今日、全力で戦ってみて分かった。あなたなら大丈夫だって、あなたになら娘を任せられるってね。理屈や強さだけじゃなく、あなたは琴葉のことを大切に想ってくれたから」
俺が琴葉を大切に……。
そんな恥ずかしい言葉を、しかし否定できなかった。自覚してしまった。先刻の戦いで、俺が誰のために戦ったのかを。誰のために逃げなかったのかを。
ただの友達ではない。俺の中で山田琴葉という少女がどういう存在なのか、俺にはもう分からなくなっていた。
「琴葉は私のせいで多くの敵を作ってしまった。その中には琴葉一人じゃどうにもできない奴らだっている」
俺を見上げる赤い瞳は、一人の母親の目だ。優しく温かい、誰よりも我が子を想う、親の目だ。
「だから、あなたが守ってくれますか? 琴葉を、私たちの大切な娘を。私ではもう守れないから。あの子を傷つけるだけ傷つけたのに、私はもう、何もしてあげられないから……」
その言葉に俺は小さく頷いた。
――結局。
琴葉がピンチになれば自分が駆けつけるという条件の下、狐は琴葉に敵を作り、琴葉がその敵を倒し続けたことによって最強不良少女の山田琴葉が誕生した。毅然とした態度に圧倒的な力を持つ少女山田琴葉。その様は、狐の理想とする域まであと少しのところだったのだろう。狐の理想とする強い山田琴葉はすぐ先の未来にいたのだろう。『強い琴葉を育てる』という狐の計画は順調に進んでいたのだろう。
しかしその最中、狐にとって予想外の事態が発生した。酷使し続けた狐の体が限界を迎えたのだ。すなわち、琴葉を守るという条件を満たせなくなった。故に狐は琴葉に不良をやめるように言った。自分で琴葉を不良にさせておいて、自分で琴葉を不良から遠ざけた。
いや、遠ざけようとした。
狐は一つの思い違いをしていた。山田琴葉の名は狐の想像以上に知れ渡っていた。狐の想像以上に、琴葉には敵がいた。琴葉が不良をやめるにしたって、それを許してくれない連中が次々に琴葉に襲い掛かってきた。否が応でも琴葉はその戦いの日々から逃げ出すことができなかった。
だから、必要だった。第二の狐が、琴葉のヒーローが必要だった。琴葉をその日々から解放させてやる奴が必要だった。
そして、
今日、狐はそいつと戦った。そいつの実力を測るために、そいつの琴葉への想いを確かめるために。強襲というかたちでそいつの恐怖心を煽り、全力で自分に向かってくるように仕向け、戦い、そして認めた。
そうだ。そう、結局の話。
狐が選んだのは俺だった。
「俺はあなたの娘と約束しました。いや、俺は約束しちまいました……。『不良のお前を終わらせてやる』って、かっこつけて約束しました。だから守りますよ。あいつがみんなに認められるまで、みんなが琴葉のことを不良の山田琴葉じゃなくて、一人の女の子として見るようになるまで。命をかけるなんて大それたことは言えないけど、それでも俺があいつを守ります」
それにな……。
俺は狐から目を外し、叫んだ。
狐が話しておかなければならない相手は俺じゃない。
「琴葉!」
ビクッと体を震わせる音がここまで聞こえてきた。
少女は少し離れた墓石の陰からおどおどとした様子で顔を覗かせ、素早い動作で一度引っ込めた後、意を決したように俺たちの目の前まで歩いてきた。
「お、お母さん」
不安が入り混じったような声音には、ビクビクと体を震わせる琴葉の心境がそのまま表れていた。
無理もない。琴葉が彼女の母さんと対面するのは、約三年ぶりのことなんだから。
「こ、琴葉……あなたいつからそこに」
「全部、全部聞いてたよ」
「っ!」
狐は目を大きく見開き、絶句した。
すかさず手を胸の前で慌ただしく振りながら琴葉が言葉を紡ぐ。
「い、いやでも大丈夫大丈夫! 大丈夫だよ、心配しないで。私は、私は……大丈夫だから」
このとき、俺は琴葉の取り繕った笑顔を初めて見た。
偽りで塗り固められた笑顔。俺ですら見抜くことができる彼女の嘘を、実の母親に見抜けないわけがない。
「琴葉」
「何? お母さん」
「ごめんなさい」
「……何で謝るの?」
「辛かったよね。苦しかったよね。私は、あなたの大切なものをたくさん奪ってしまった。真実をあなたから遠ざけて、行き過ぎた自分の理想を押し付けてしまった。まだ小学生だったあなたに寂しい思いをさせてしまった」
「ううん、それは違うよ」
「何も違わないわ!」
その言葉に琴葉が首を振る。先ほどとは違う、いつもの笑顔で。
「お母さんはいつも私のそばにいてくれた。私がピンチのとき、いつも駆けつけてくれた。辛かったのは確かにそう。苦しかったのもそう。でも、寂しくなんかなかった。昔も、そして――」
――今も。
琴葉は一歩後退し、傍らの俺を一瞥した。
「若葉はさ……お母さんと比べてバカだし、意地悪だし、顔もよくないし、やっぱりバカだけど。頼りになるよ。だから若葉がいれば私は大丈夫。私はきっと大丈夫だから。心配しないでお母さん……本当に、絶対に私は大丈夫だから……。強くなったから。もう過去のことで悔やまないで。今日はお母さんの誕生日なんだから。少しくらい笑ってよ」
「……笑って、いいの?」
「当たり前だよ。私はお母さんの笑った顔が見たいんだから」
笑って欲しいという琴葉の想い虚しく、狐の瞳からは涙が流れた。
「悔やまなくてもいいの? 琴葉は、私のことを許してくれるの?」
「許すもなにも、私は最初からお母さんのことを恨んでなんかない。今でも大好きだよ、お母さんのこと」
相変わらずの泣きっ面だが、ほんの少しだけ狐の頬が緩んだ。
琴葉を強くさせようと決意してから、今日まで。狐はずっと罪悪感と共に生きてきたのだろう。自分が琴葉を苦しめた。自分のせいで琴葉が苦しんでいる。琴葉のことが大切だからこそ、これが正しい選択だったのか? と正解のない自問自答を繰り返してきたのだろう。そして、その度に迷い、苦しみ、自分の選択を憎んできたのだろう。
けれど聞けた。
――もう過去のことで悔やまないで。
聞きたかった一言を、聞きたかった人から聞けた。
それだけで、彼女は救われた。
「ねぇ、お母さん」
「何? 琴葉」
「実はね、お母さんにプレゼントがあるの。今年は受け取ってもらえる?」
涙を拭い、狐は琴葉の声に頷く。
「本当に! やったー!」
心底嬉しそうに叫びつつ、琴葉は小さなピンク色のハンドバックから茶色い包み紙を取り出した。見れば、昼間とは異なる青のワンピースに身を包み、その表情はニコニコしているというよりニヤニヤしていた。表情から察するに、琴葉が甘えん坊だったという証言は本当のことだったのだろう。
俺は一人そんなことを考え、この親子の行く末を目に焼き付ける。
たとえ、悲しい結末が待っていると、知っていても。
「これ、本当は私とお母さんとでお揃いにする予定だったんだけどね。でも、私の分はお父さんに渡して欲しいな。お父さん、ずっと寂しい思いをしていると思うから。だから、お土産の一つくらい渡してあげないと可哀そうだよ」
「うん、ありがとう、琴葉」
「そ、それからそれから……ね」
琴葉の言葉を遮るように狐がよろよろと琴葉に近づく。
緊張の糸が切れたのか、狐に先ほどまでの機敏さはない。あまりにぎこちなく、不安定な足取り。俺はそんな狐の姿を直視できず、傍らを見た。狐のその動きに琴葉の顔が一瞬、ほんの一瞬だけ曇ったことを俺は見逃さなかった。
やがて、琴葉のもとに辿り着いた狐が琴葉を優しく抱き締めた。
「約束よ琴葉。本当に身勝手な約束をもう一度言わせて。『不良をやめて幸せになって』。空からずっと祈ってる。あなたの幸せだけをずっと願ってる。本当に、最期にあなたに会えてよかった。大好きよ」
「……うん。私も大好きだよ、お母さん」
狐を受け止めた琴葉の目に涙はなかった。
ただ、小刻みに揺れるその小さな手が、彼女の心境を俺に伝えていた。