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てのひら2

作者: 鮎川りょう

 現在 11編

・赤い蝋燭の燃えるとき(8枚)

・梅雨の夜の小さな訪問者(9枚)

・支配からの卒業(7枚)

・人魚と石(5枚)

・檀原(3枚)

・抜け殻(4枚)

・落ち葉の真実(5枚)

・失恋レストラン(2枚)

・徘徊(15枚)

・銀河を超えて(4枚)

・再会(3枚)




 「赤い蝋燭の燃えるとき」

 

 どうして、あの子の後ろに狼のぬいぐるみを被った人がいるの。

 朝の通学路。姉の背に隠れながら、それまで聞けなかった疑問を恐る恐る口にした。姉は表情を強張らせ、私の肩へ手を置いた。異様に険しい瞳。その形相に、怪訝そうな顔を向けて学童たちが通りすぎていく。

「サヨ、あなた見えるの」

 うん、横の女の子は狐だよ。

「そのことを誰かに話した?」

 ううん、お姉ちゃんが初めて。

 すると姉は瞳をいくぶん穏やかにさせ、私の唇に人さし指を押しあてた。

「じつはわたしも見えるの。でも、誰にも言ってはだめよ」

 とうながし歩きだしたとき、私は姉に突き飛ばされ、突き飛ばした姉の身体は宙を舞った。

 暴走車が歩道に進入したことによる事故だった。私は膝を擦りむいただけの軽症で済んだが、姉は搬送された病院で亡くなった。十一歳だった。

 父は姉の死の間際に「この事故は、お前たちに課せられた運命かもしれない」

 と、ぽつりとつぶやいた。どうしてと聞き返すと、父はまた、ぼそりとつぶやく。

「おそらく業だろう」

  

 物心ついたときから私は人の背後に奇妙なものが見えた。父は兎だった。四年前に蒸発した母の影響だと思う。兎のぬいぐるみにくるまれた人と過ごす父は、母の能力を敏感に嗅ぎとり、さり気なく問いかけてきた。しかし逆に「何のこと?」と聞き返したら、性分なのかそれ以上何も語ろうとしなかった。

 でも母の血を色濃く継ぐ私は、草食的な父の懸念が理解できた。なぜなら記憶の隅にある母の背後には、皆と同じような獣はおらず、青い花柄の着物を花魁のように着た女性がいるのが見えていたからだ。それはつまり父にとっての安心、そして私にとっては父と源が違うということにつきる。

 着物を着た人は縮れた長い髪をふんわり垂らし、目と目の間隔の広い痩せた女性だった。手に赤い蝋燭を持って、ときおり私に謝罪を乞うかのよう涙を流していた。元気だった頃の姉が伝えてくれた話によると、透明の涙は癒しを、赤い涙は死を意味するらしい。記憶の隅にある女性は両目から血のような色の涙を流していた。

  

 私に備わった力はほかにもあった。濃淡はあるにせよ、つど生きていた頃の記憶を覚えていたのだ。そして必ず姉と同時期に女としての生を授かった。ときに姉は妹であったり母であったりした。ただ残念なことに、姉の記憶は生まれ変わるたび消去されてしまっていたようで、私とのめぐり合わせを宿縁と感じていなかった気もする。

 女にしか生まれない理由は、おそらく子孫を残さないためではないかと思う。人のいとなみに不必要な力、いや、むしろ邪魔とさえ感じる能力。そのような奇妙な能力を持つのは過去世でも私と姉だけだったが、今世には母もいた。微々たる力でしかないけど、これ以上増えたら魔女狩りの対象になる恐れもある。

 だから女に生まれる必要性があったのだと思う。仮に一夜限りの情交を異性と結んだとして、男であれば女が身ごもったかどうか知りようもないが、女ならわかる。確実に堕胎できるのだ。

 そのせいもあり、あるときは修道女として表向きは慎ましやかに、またあるときは遊女として奔放に暮らしていた。両極端な生の中で何度も子を身ごもった。遊女のときには廓専門の医者の手によって胎児を掻きだされ、堕胎の赦されない修道女のときは子ともども死を選んだ。

 残酷だったのは遊女として生きた二百年後、姉の命を私が絶ち、追従しなければならなかったときだ。修道女のときは自らの命を絶つだけだったが、そのときは姉の命を奪ったうえに自害しなければならない状況に追い込まれていた。

 尊皇を旗印に国が真っ二つに分かれた江戸末期、私と姉は幕府側の武家の娘として生を受けた。姉は勝ち気で、どちらかというと女々しい私を守りながら生きていた。混沌とした時代を反映するかに、男たちの背後には熊や狼、狐や蛇などの肉食、雑食性のぬいぐるみを被った者たちが多くいた。

 革命とはいえ、指導者の一部を除いて純粋な大志を持った者などそれほどいるわけではない。敵を滅ぼせば我先にと金品の掠奪、姦淫に走る者ばかり。私たち家族が帰藩した土地でも同じだった。それを知る武家の女たちは幼子を道連れに大半が自害した。けれど勝ち気な姉は戦うことを決意した。私も姉に従い参戦した。

 その最中、薙刀に未熟な私をかばい姉は銃で胸を撃たれてしまう。お願い、介錯を。という言葉を私に託して地に伏した。私は迷うことなく懐刀を取りだし、姉の心臓に突き刺した。息絶えたのを確認すると、すぐさま自らの喉笛に当て、真一文字に掻き切った。

  

 今思うと、不思議なことに必ず姉が先に死ぬ。それもすべて私をかばったうえで。もしかしたら姉と私の後ろにいる女性たちが起因しているのではないかと思ったりもする。母と同じで獣のぬいぐるみを被らぬ、十代後半と十代前半の着物を着た少女だったのだ。

 姉のほうは長い髪をたすきに縛り、白っぽい蝋燭を手に持っていた。私のほうの少女は右脇に分厚い本を抱え、左手に薬の小瓶を掲げていた。そしてたがいの着物は一つの帯によって継がれていた。

 その繋がれた帯が業なのだと、これまでの人生を振り返り、悟った。でも姉と私の業が帯で繋がるとして、ぬいぐるみが見えるのはどうしてなのだろう。確かに狼と狐には極力近づかないようにはなった。ただそれだけで、町ですれ違うカップルに注意を促したり、街頭で選挙演説をする候補者に注文をつけたりはしなかった。他人のことなどかまわず、災難を見て、見ぬ振りをしてきたにすぎないのだ。また左手に持つ薬の小瓶も謎だ。私は何かしなくてはならないのだろうか。

  

 夕食を済ませると一人海へ向かった。

 死を連想させる暗い海。その波間に半分欠けた、やはり死を意味する月の光が赤い蝋燭が燃えるよう妖しげに滲んでいた。吸い込まれてしまいそうな暗い海面を見つめながら、私は薬の小瓶を手に取り、意味もなく思う。すべきことを見つけられない人は、漠然と死を待つしかないのかと。

 答を探せないままふらふら町へ向かい、雑踏を夢遊病者のようにさまよった。煌々と照りつけるネオン看板に気圧され、逃げるように横道へ入った。すると時代錯誤を感じる赤レンガの建物に吸いよせられた。

 正面に、緑色の木枠に組み込まれたショーウインドウがあり、そこから腹話術師が使いそうな大きな人形や、こすると魔人が出てきそうな古めかしいランプなどが覗けた。それら無造作に陳列されたもの珍しいアンティーク品の中で、特に私が興味を惹かれたのは白い蝋燭だった。一本一本に、見たこともない深海の魚や貝のイラストが赤い絵の具で描かれていた。

 私は導かれるよう扉に手をかけた。

 開けると潮の香りがして、目の前に店主が立っていた。着物の帯を花魁のように前で締め、縮れた長い髪をふんわり垂らした細身の女性。母の背後にいた人だった。

 女性は哀しげに笑むと、右手で火のついた赤い蝋燭を私の前に掲げた。

 小瓶の薬を飲まれたのですね。お帰りなさい、海の底へ。

 

       了




 『梅雨の夜の小さな訪問者』

  

 夏にしては少し肌寒い夜。執拗に襲いかかる睡魔に根負けし、つい微睡んでしまった私は、窓ガラスに打ちつける雨の音でふっと目を覚ました。でもまだ夢うつつ、腰をくの字にまげて布団の中へ潜り込んだ。すると雨音に混じりがさごそ奇妙な音が耳の中へ忍び込んでくる。

 何の音だろう。枕もとにはスマホと読みかけの文庫本しか置いていないが、この部屋は築三十年の老朽化したワンルームでもあるのだ。ネズミやハクビシンではないとしても、ゴキブリの侵入は否定できない。

 どうしよう。つい今しがたまで、主人公が数百匹の百足のいる落とし穴に落ちてしまうというおぞましい小説を読んでいたばかり。私は恐る恐る布団から半身を起こし、どうかゴキブリや百足ではありませんようにとスタンドの明かりを灯した。

 ゴキブリはいなかった。その代わり、栞を挟んだ小説のページが大きくめくれ、隙間から何やら薄気味悪いものがもそもそ動いているのを発見した。どきっとする。悲鳴を上げようにも竦んで声が出ず、しばらく呆気にとられていた。

 数秒後、ばさっという音とともに、本の中から掌ほどの年配の女性が飛びだしてきた。

「えっ……人間?」

 長い髪を後ろで一括りにし、小人というより等身大の女性を正確に縮小した感じ。服装は時代錯誤もはなはだしい、昭和初期を色濃く連想させるもんぺ姿。私は夢を見ているのかと目を疑った。

  

「よくぞ本を手に取ってくださいました」

 女性は私の動揺を察知してか、うやうやしく話しかけてくる。突然出現し、驚かせてしまったことで安心させようと気を配っているのだと思う。慎ましやかに、涼しげな目を向けてきた。

 それにしても女性が、どこかさっきまで読んでいた小説の主人公そのままのような気にさせられるし、もしかしたら、これは本の世界をリアルに想像した私が創りだした幻影なのかなとも考える。

「何の、ことでしょう」

 壁に背を押しつけたまま、私は慎重に聞き返した。これが現実にせよ幻にせよ、女性の指す本が古本屋で買ったこの小説であることは明確だったからだ。だからといって、それを素直に肯定するわけにはいかない。世の中には摩訶不思議な出来事がたくさんある。うっかりイエスと言って悪魔と契約させられてしまうことだってあり得るのだ。

 それに私は、幼い頃から人の目を気にして卑屈に生きてきたので、冒険心も際立った長所も持ち合わせていない。もちろん霊感もないし、時間が経ったらこの事象を場違いな世迷言と言い聞かせるつもりでいる。小説も同様だ。感情移入しそうになったらそこで本を閉じ、これはフィクションなのだと何度も自分に言い含め、一定の距離を置いて次の日に読み返す。そうでないと感動ばかりして、胸の奥底に抑えつけている感情が解放されてしまうのだ。

  

「この本は数十年間、誰にも読まれることなく書棚の奥に埋もれていました。それを、あなたが光を当ててくれたのです。何とお礼を言っていいのやら言葉になりません」

 女性は口もとに、こぼれんばかりの笑みを浮かべて礼を言う。だが、光を当てたなどと大げさだ。恋人のいない私は寂しい夜を本を読んで埋めようと、たまたま購入しただけなのだ。それに探したわけではなく、お目当ての小説が単に見つけられかっただけのこと。

「何を仰りたいのか、まったく意味がわかりません。だいいち、まだ半分も私は読んでいないのです」

「なるほど。あなたが山で迷い、落とし穴に落ちた辺りですね」

「あなた……? 落ちたのは主人公で、私ではありません。名前だって違います。主人公の名は佐和で、私は詩織なのです。ふざけるのも大概にしてもらえませんか」

 この時点で、女性が何がしかの魂胆を持っていることが判明した。おそらく私を本の主人公にして物語世界へ誘導するつもりなのだろう。いや誘導するというより私と交代させようとしているのかもしれなかった。

 そんな思い通りにはさせない。私はこの世界で、卑屈でもいいからひっそり生きるのだ。放っておいてほしい。すぐにでも本の中へ戻って、守り続けてきた平穏を壊さないでと願った。

 しかし女性が「では、今一度主人公の名前を確認する必要があるかもしれません」と言った瞬間、私の頭の中は金縛りにあったように硬直した。佐和とばかり記憶していた主人公の名前がもしかしたら詩織だったかも、それ以前に、事実として書き換えられてしまっているかもしれない、そんな気にさせられたからだった。

  

  

 雨はいつの間にかやんでいて、雲の隙間から星が滲んでいる。原付バイクがエンジンかけっぱなしで停車し、ばたばた人が駆け足で建物の中へ入っていく。おそらく新聞配達員なのだろう。となれば東の空は白みがかっているに違いない。

 女性は硝子テーブルの上へ敷いた布の上に正座し、お猪口に淹れた珈琲を口につける。「これが珈琲というのですね。初めて飲ませてもらいましたが、とても美味しいです」と何度も啜った。そして、あなたは控えめながら意志の強い目をしています。と私の印象を伝えてから「突然のことで戸惑う気持ちも十分理解できます。ですがこれも縁と考え、ぜひ話をお聞きください」と、背すじを伸ばして話しだした。

「わたしがこの本に出会ったのは戦時中でした。当時二十歳で、夫の戦死も知らないまま家は空襲で焼かれ、年老いた両親ともちりぢりになってしまいました。おそらく両親も姉妹も、家族は皆死んでしまったのだと思います。集められた焼死体の中に父母らしき遺体があったからです。ですが衣服も顔も身体も焼け焦げて、身元を判別できる状態ではありませんでした。そのため憔悴したわたしは、ふらふら焼け野原を彷徨ったあげく自殺しようと決心したのです」

 この女性も身寄りがいなかったんだ。しかも空襲で。

 でも……空襲? 私はその言葉に今さらながらはっとする。中年、いっても初老ぐらいにしか見えない女性の年齢は、いったいいくつなのだろうか。戦時中に二十歳であれば確実に九十歳は超えて老いるはずだ。私は不可解な思いを隠せず、女性の顔をしげしげと見つめた。が女性は視線を受け流し、話を続ける。

「というのも天涯孤独となり、住むところも定まらず生きるあてもなくなっていたからです。また浮浪者状態のわたしには配給もなく、食糧確保は困難をきわまりないものになっていました。出回っているのはほとんどが闇物資で、お金のない私は口にすることすらできなかったのです。それは私ばかりではありませんでした。ですから皆こぞって農家に日参し、わずかばかリの芋を手にして喰いつなぐ状態だったのです。わたしがそれを得るには、農家の好色な主人に身をまかせるしか術はありませんでした。耐えられないことですが、数ヶ月間……食料が尽きるたびにわたしは泣く泣く性奴として命をつなぎとめました。けれども、そんなさもしい自分につくづく嫌気がさしたのです。それで山の中へ入り首を吊ろうと決めました。そして格好の木を見つけたとき、その木の根元で本を見つけ、出現した修道女からこの本の世界を託されたのです」

 そこまで話すと、女性は熱っぽく私を見つめた。すでに金縛りは解けているものの、私は返答もできず、ただじっと女性の目を見つめ返すことしかできなかった。

  

 しばらく私の表情を潤むように見つめていた女性は、思うところがあるのか大きく息を吸うとにじりよってきた。

「不躾なことをお聞きしますが、もしや、あなたの両親は亡くなっていないでしょうか」

「なぜ、そう思うのですか」

 女性は心もち目を伏せる。「この本を手に取るのは、修道女もそうでしたが……天涯孤独な女性だけ。そのためわたしは、古本屋であなたがこの本を手にしたときに、あなたとの運命を強く感じたのです」

「運命を、強く?」

「ええ。この人こそ、代々受け継がれてきたこの本の世界を託す人だと」

 そう言う女性の目に深い哀愁が宿る。私の心にもそこはかとなく憐憫が生まれる。とはいっても、例えるなら湖畔に沈む夕日に魅入られ、知らぬうちに自身の気持ちまで切なく黄昏れてしまうときのようなもの。

 迷う。

「お気持ちはわかります。でも、返事は少し待っていただけませんか」

 私が本の世界へ入って、どのような人と出会ってどのような物語を構築できるのかはわからない。けれど心の奥底に閉じ込めていた、唯一プラスの感情が共鳴する可能性は高いと思う。とても魅力的だ。

 でも、躊躇いもある。

 この世界に馴染めなかった私が、本の世界へ行けばほんとうに変われるのだろうか。

 疑問だった。

 結局、私が言葉を濁したため、女性は殊更沈んだ表情で本の中へ戻っていった。

  

 夕刻。帰宅するとすぐに古本屋へ行き、後ろめたい気持ちに支配されつつ、こっそり書棚に本を戻した。私が持っている限り女性は永遠に継承者を捜せないだろうし、時間の感覚がどのような仕組みになっているのかわからないが、下手をすると年老いて物語世界がとぎれてしまう可能性だってあるのだ。

 途中寄り道をして、うす暗くなった川沿いの道を歩いた。向こう岸で犬が一匹、どんよりとした空に向かってもの哀しそうに吠えていた。

 もし……あのとき、女性の願いを聞き入れ本の世界へ行っていたら、今と、何がどのように変わっていったのだろう。私にやり直しの場が与えられ、女性は安らぎを得たのだろうか。

 わからなかった。きらきら光る川面の底に何が潜んでいるか見えないよう、それは誰にもわからないのだ。

 また向こう岸で犬が吠える。つられて空を見上げると、今どき珍しいプロペラ機が数機、黒いものを落としながら飛んでいた。

  

  

       了




『支配からの卒業』


 彼女に恋をしてから八年の歳月が流れた。目の眩むような逢瀬は続くものの、だからといってその後を左右するような進展はない。

 保坂は、煙草の臭いとアルコールの臭気が交錯する居酒屋の中で、そろそろ潮時かもしれないと自分を顧みた。


「まだ彼女を忘れられないの」

 生ビールで乾杯したあと、隣の席に座っていた有紀が小声で囁いてきた。聞こえたのだろう。同調するかに、大量の枝豆を頬張った直美が口をもぐもぐさせて続く。

「いいかげんに夢から醒めたら」

「向こうにその気がないんだから、道化でしかないぞ」

 直美ばかりか、その直美と結婚の決意を固めた親友の聡までもが、口の周りにビールの泡をつけたまま補足してきた。

 みな実らぬ恋だと知っている。保坂は答えようがなく、半分ほど飲んだジョッキを音も立てずに下ろす。


 高校卒業時に十二人ではじまったこの定期的な飲み会は、今年で満十年を迎える。年が変わるごとに一人減り二人減りして、今では四人しか集まらなくなっていた。それもそのはずで、もともと女子が四人しかいなかったからだ。

 そこへ華の一人であった直美が、早々と聡とカップルを成立させてしまい会の魅力は半減した。比較的美人だった別の二人も、二度ほど顔を見せただけでその後は出欠の返事もよこさなくなった。残る一人の、どちらかといえば地味な有紀だけでは、血気盛んな男の参加者を満足させる活力に乏しかったのだろう。結局、五回目からは四人の集まりに変わっている。


「でも会うたびに僕を癒してくれるんだ」

 保坂は三人の質問に、心の中で肯定しつつも抵抗を見せる。

 誰もが、言わないだけで忘れられない甘酸っぱい思いを胸に秘めている。そう、恋慕という厄介なもの。それは人によって思春期に恋い焦がれた美人教師かもしれないし、あるいは突然転校してしまったクラスメイトなのかもしれない。

 ただ保坂の場合、考えようによってはそれらのケースを超越した、超法規的な遠距離恋愛のような気にもさせられる。いくら説明しても三人を説得させるには無理がある。それほど難しい関係だったのだ。


 なぜなら彼女はパリ在住の人妻。反して保坂は東の果ての日本に暮らし、努力しても一年に一度ほどしか会いにいけなかった。ただし逢瀬の密度は濃く、彼女は久しぶりであっても保坂を見つけると、まずセクシーに笑み、変わらぬ接し方で熱く癒してくれる。言葉はいらなかった。それだけで官能を交えた陶酔がはじまり、その後二人は秘密然とした恍惚の至福に浸されていくのだった。


 保坂はパリに必ず三日間滞在し、彼女とじつに濃厚な時間を過ごす。それは例えるならスクリーンの中でしか会えない有名な女優と夜を共にするようなもので、快感と哀愁が微妙にともなっていた。

 そもそも彼女が単身東京へ来たとき、二人はすぐ徒ならぬ関係に陥った。保坂を見るなり、彼女が含みのある笑みを投げかけ誘ってきたのだ。


「卒業しないの」

 有紀がジョッキに口をつけて、それから保坂へ視線を当ててきた。静かに答を待つその表情は、枝に数枚残る桜の花びらがそっと幹に別れを告げているようにも思える。

 まさか、君と……もう会えなくなってしまうの?

 保坂は少し動揺した。地味な女性ではあるけれど、これほどまで身近に、このような素敵な異性がいたことを今になって再確認したからだった。


「有紀は両親から、お見合いをさせられたんだって」

「しかも相手はぞっこんらしい」

 直美と聡が立て続けに言う。

「ちょっと待ってくれ。もしかして有紀は僕のことを……」

 保坂の頭の中で有紀の記憶が揺れる。酔いつぶれた保坂を家まで送りとどけてくれたことは常だったし、熱でうなされていたときなどつきっきりで看病をしてくれた。それなのに気づかず、ありがとうと言っても好きだと言ったことはいまだ一度もない。戸惑い、保坂はビールを飲み干した。


「鈍い男ね。今ごろ気づいたの」

 呆れたように直美が吐きすてる。そして彼女が煙草へ手を出したとき、聡が思いとどませるかに手を重ねた。直美が聡の顔を見る。素直に頷いた。

 そうか、彼らは恋人たちを卒業して夫婦になるんだ。ぽっかり空いた心の隙間に風が吹き抜ける。それに触発されたわけではなかったが、保坂は有紀に向き直る。


「見合い、ほんとうなの?」

「うん。私、あなたから卒業しようかなと思っているの。成就しない恋ほど惨めなものはないでしょ」

「しないでほしい」保坂は訴えた。

「遅すぎるよ」

 そう言って有紀は目を伏せる。たまらず保坂は、目の前にあるジョッキと枝豆の皿をテーブルの隅へどかせ、有紀の手を握った。


「確かに遅いかもしれない。でも約束するよ。大切にすると」

「彼女を忘れられるの?」

「もちろんさ」

「私の両親に挨拶できる?」

 続けざまの質問にもちろんと答え、なぜか保坂は、自分が有紀の尻に敷かれていくような気にさせられた。そもそも今夜の飲み会は、地味な女性の画策した堅実な計算だったような気もする。お見合いだってほんとうかどうかわからない。

 けれど、それも妙に心地よい。

 察したのか有紀が、とつぜん保坂が愛してやまなかった名画のような含みを見せた。

「モナリザからの卒業に、乾杯しよう!」


 

 

『人魚と石』

 

 岩に打ちつける波の音にまぎれて、澄んだ歌声が聞こえてきます。

 十五歳ぐらいの少年が海を見つめて歌っていました。

 少年は去年上映されたマーメイドの映画を見て、ひとめでいいからアリエルに会いたいと、ひそかに叶わぬ夢を育ませたのです。いつか自分もこんな幻想的な恋をしてみたいと。それで曲も覚え、一人で海岸へやってきては歌っていました。


 そんな一途な少年がアリエルに会ったのは満月の夜のことでした。

 星がまばゆいばかりに降りそそぎ、海を照らしていました。月も、その星の輝きで夜空と海面にまるで合わせ鏡のように、一方は夜空にぽっかりと、もう一方は波に揺れながら水面に浮かばせていました。

 そのとき少年は歌いながら海岸を歩き、波打ち際で一際光る石を拾ったのです。緑色の石でした。中央にくぼみがあって、月に照らすと緑色の模様が万華鏡のように鮮やかに変化しました。少年にはそれが、まるで海の底で人魚たちが舞を披露しているみたいな錯覚を覚えたのです。一瞬で魅入られ、意中の人へ必ず渡そうと決めたのです。

 

 海岸の外れに腰かけるのにちょうどよい岩場があって、少年は歩きつかれると、よくその岩に座ってアリエルのことを考えていました。いくら架空の物語だと知っていても、SF好きの人たちがUFOに魅せられるのと同じくらいの夢だったからかもしれません。

 少年は満月の夜に人魚が姿を見せるという伝説も、もちろん拾った翡翠が恋を成就させることも知りませんでした。とうぜんながら、人間に姿を見られた人魚がどうなるかということも。

 でもその夜、いつも座る岩の上に美しい人魚が腰かけていたのです。

 少年は一目見て、人魚がアリエルだと思いました。金色の長い髪、澄みきった青い瞳、そのすべてが映画に出てきたアリエルと酷似していたからです。

 

 少年は気づかれないようにかがみ、しばらく眺めていました。なぜなら彼女は裸なのです。長い髪で胸を隠していましたが、まだ女性の裸身を見たことのない少年にとって、その姿は悩殺すぎました。

 そのため、ついごくりと唾を飲み込んでしまったのです。

 人魚が気づきました。手で胸を隠して振り返りました。でもなぜか海へ逃げようとはしません。

 もしかしたら怪我をしているのか、と少年は思い、勇気を出して人魚へ近づきました。

 

 腕から血が出ていました。尾鰭も傷だらけです。たぶん少年が拾った石は人魚の大切なもので、それを浜辺で必死に探すうちに傷ついてしまったのだろうと考えました。

 だったら返さなくては思う一方、石を持っている限りこの人魚は言うことを聞く。そんな醜い考えにとりつかれました。

 しかしまずは治療だと思い、少年は着ていたTシャツを脱ぐと破き、血止めをしてあげました。

 人魚が感謝して御礼をしたいと言いましたが、少年はなぜか拾った石を渡し、次の満月の夜、この海岸で会おう。そう言って人魚と別れたのです。きっと人魚に触れた瞬間、邪な気持ちが消えて心が洗われたのでしょう。もちろん人魚こそが意中の人だったからかもしれません。

 

 ですが、次の満月の夜がきても少年は海岸へ行きませんでした。裸で帰宅したことや、このところの夜の外出を両親に咎められたことにより、しょせん人魚との恋なんて幻想にしかすぎないと思いはじめていたのでした。

 あれだけ恋い焦がれていたのに、その気持ちの変化は少年自身不思議でしたが、受験生という現実の立場を考えると早すぎる恋だったのかもしれません。

 

 二十年後の翡翠海岸。大人になった少年は、七歳になる娘を連れて翡翠海岸へやってきました。もうすっかり人魚と交わした約束のことも、触れ合ったことも忘れていました。

 波打ち際にいた娘が走り寄り、目をまるくさせて彼の腕をつかみます。

「人魚さんて、ほんとにいるのかな」

「どうして、急にそんなことを言い出すの」

 彼は遠い日を懐かしむかに聞き返しました。

 娘は目を細めながら答えます。

「だって泳いでいたもの。それにあたし、その人から不思議な石をもらったんだから」と、石を見せました。

 不思議なことにそれは、人魚の怪我を手当てしたときに彼が渡した石とまるっきり同じものでした。

 もしかしたら人魚は、あれからずっと待っていてくれたのかもしれない。彼は青い海を見ながら思いました。


 

 

 『檀原』

 

 あなたを愛しています。

 雪深い故郷でつかの間の休息を満喫し、忙しない東京へ舞い戻って二日目のことだった。駅前のコンビニの入口でいきなり女性からそう告白された。

 切れ長の目に小悪魔みたいな薄い唇、どこか今をときめく売れっ子女優を想像させる美人だった。

 でも彼女を知らない。

 怪しい宗教の勧誘なのか、それとも高額の教材を売りつけようとでもいうのだろうか。

 いずれにせよ触らぬ神に祟りなし。美人だけに惜しい気もするが、無関心を装って横を通り抜けようとしたら彼女はすっと回り込んできた。

       

「誰かと間違えてない?」

 右手に持つシャケ弁当を掲げた。左手でさり気なくジャージの裾を引っ張った。「宗教に興味はないし、この通り貧乏している。それに君を知らないんだ」

「わたしはあなたをよく存じています。間違ってなどおりません」

 彼女は、ぽっと顔を赤らめて言った。「しんしんと降りしきる雪の中で、わたしはあなたに激しく抱かれました。そうしてその後、それがまるで運命であるがごとく熱く結ばれたのです。夢のような一夜でした」

 嘘だ。記憶にない。なら言い掛かりだろう。そもそもこんな美人とそんな関係になれるはずがない。自慢じゃないけど恋人いない歴三年なんだ。もしかしたら新たなオレオレ詐欺の手口かもしれないと感じ、キャッシュカード入りの財布をこっそりポケットの奥へ押し込んだ。

       

「だとして、いつどこでしたの」素っ気なく問い質した。

「三日前です。私たち二人の故郷、檀原で」

 三日前? おぼろげな記憶が脳裏をかすめる。そういえば友人としたたか飲んだ帰り、道路の端で立小便をしていたら車がスリップしながら突っ込んできたことがあった。たぶん犬でも飛び出してきたのを防ぐために急ブレーキを踏んだのだろうと思っていた。

 危うく難を逃れたが、避けた拍子にバランスを崩してその犬の上に覆い被さったのを覚えている。もちろん倅をしまう余裕などなかった。しかも酔っているうえに身も凍るような衝撃、悶絶して、そのまま犬に覆いかぶさった状態で寝てしまったのだ。

      

「思い出してくれたでしょうか。あなたは私の命を救ってくれたうえ、強く抱きしめて離しませんでした。私は感動と快感で何度も何度も果てました」

 と、彼女が耳元へ熱い息を吹きかけてくる。

 故郷の言い伝え、民話が脳裏をかすめる。もしかして、あれは犬じゃなく檀原の狐だったのだろうか。

 誤解だと後退りしたが遅かった。すでに周りには無数の狐火が浮かんでしまっている。

「どうやら婚礼の支度が整ったようですね。一緒に山へ帰りましょう。晴れてあなたは我が一族の後継者と認められました」




『抜け殻』

 

――眠れない夜と雨の日には 忘れかけていた愛がよみがえる。

   

 若かったのだろう。そんな歌詞の一節を何の衒いもなく信じていた時期があった。でも年齢を重ね、突きつけられた現実の前ではそれが単なる夢物語でしかないと、奈美江はつくづく思い知らされた。

 深夜0時。家々の灯りも消え、ひっそりとしたベランダで洗濯物が寂しく揺れている。もう乾いているはずだ。けど奈美江には取り込む気力が湧いてこなかった。

 リビングの電気を消し、テーブルに置いたうす明かりのキャンドルの中で淹れ立てのコーヒーを啜る。そして一ヶ月前の出来事に思いを馳せる。眠れない夜は無理に寝ることはない。

   

 あの日、玄関で軽い口づけを交わし夫を見送った。いつもと変わらぬ穏やかな朝だった。けれど、ときどき悪戯ずきな天使が究極のシナリオを演出してくることがある。いやそれ以前に鈍感な奈美江に気づきを与えようとしているのかもしれなかった。それはそれで乗り越えられればハッピーエンドとなるが、稀に予想もしなかった現実と向き合わされるカップルもいる。

 奈美江たち夫婦がそれだった。


 扉が閉まったと同時に電子音が鳴った。一瞬、テレビから流れる音かと思った。でも発信源は夫の部屋。携帯の着信音だった。年度末ということもあり夫は残業続きで疲れきっている。大量の仕事を抱え込み、自室の扉を閉めて資料をチェックすることはもちろん帰宅できないこともしばしばだったのだ。

   

 忘れたのなら、渡してあげよう、まだ間に合う。携帯を手に取った。無意識に表面の小さな液晶に目を向ける。そこへ見知った名前が右から左へ流れていく。KEIKO、と。

 それは奈美江の同級生だった女性の名、半年前離婚したばかりの友人の名前だった。

 どういうこと。


 困惑していたら夫が戻ってきた。携帯を忘れたと、ひどく慌てた様子。そうしてすぐに、奈美江の手にそれがあるのを見つける。

「どうして君が持っているんだ」

「着信音が鳴ったから、それで渡そうと思って……」

「見たのか」寝不足なはずなのに夫は感情を露わにする。「夫婦だからといっても、プライバシーの侵害だぞ」

 ひどい。隠し事をしない夫婦でいよう。さんざんそう言っていたじゃない。なのにしているの。それほど見られたら困るものなの。

「今夜は遅くなる。下手したら泊まり込みになるかもしれない」と夫は奈美江の感情を無視して言う。あきらかに開き直った視線を当ててくる。信じられない変容だ。

   

 相変わらず洗濯物が揺れている。けれどもその中に夫のものはない。あの日以来、帰ってこないからだ。

 景子の所にいるのね。

 そういえば二ヶ月くらい前の昼、久し振りに景子と会って食事をしたとき「妻だけを愛し続ける男なんていない」彼女自身の離婚の教訓からか、そう嘯いていた。

 うちはそんなことないよ。大丈夫。と反論したら、目を逸らせて小さく笑った。それが何を意味するか、そのときはまったくわからなかった。


 ……そういうことだったのね。すでに既成事実だったんだ。夫が忙しかったのは仕事だけじゃなかったんだ。

 それにしても愛なんて唯の言葉、儚すぎる。形あるものがいつか崩れると知っていたけど、形のない愛が、こうも脆いとは考えてもいなかった。

 

――眠れない夜と雨の日には 忘れかけていた愛がよみがえる。

 また透明感のあるフレーズが耳を支配する。けれど蘇るのは屈辱だけ。奈美江は、自分の抜け殻としか思えない洗濯物に囁いた。

 もう揺れる必要なんてないよ。蘇らなくたっていいんだから。


 

      了




『落ち葉の真実』

 

 以前、この坂道のもみじはこんなにも毒々しくなかった。

 いつもなら葉ごとに多彩な色を反映させて、すべてが一気に赤くなることはなかったと思う。たぶん――あの日を境に、僕だけでなく僕のまわりのすべてが変わってしまったのだ。

  

 そう。まだバイクの免許を持っていない十五歳の僕は、彼女を誘って、紅葉する山道を無計画でサイクリングしようと思い立った。彼女はいいねと笑顔を見せた。

 二人とも少し風変りだったのかもしれなかった。同年代のカップルのデートであれば、町へくりだして映画を観たりコンサートへ行ったりするのに、僕たちはそういうことにまったく関心を示さなかった。逆に少しでも都会を離れた場所へ行くのが楽しみだったのだ。もしかしたら十五歳で老成、いや達観していたのかもしれない。

  

 あの日もそうだった。古風な藁ぶき屋根の民家を見つけると、まるでたがいの気持ちが通じたかのように顔を見合わせ、自転車から降りた。そっと庭先を覗いて、縁側で日向ぼっこする老夫婦に挨拶した。気づくと彼らと談笑し、お茶を啜り、あげくには峠でお食べとおむすびまで持たされていた。

 彼らは口を揃えて言った。素敵な彼女だね。屈託のない笑顔と控えめなところが気に入ったよと。

 でも彼らの気にいる、彼女の屈託のない笑顔はもう二度と見ることができない。この緩やかな坂を登りきった所で……事故に遭ってしまったのだ。僕をかばって。

  

 深い絶望に襲われながら自転車から降りた。そして通行の邪魔にならないよう道の端に自転車を置き、抱える心の痛みを樹木へ訴えた。

 もちろん彼らが返事をすることはない。しかし彼らは事故の一部始終を見ていたのだ。

  

 不意に、一枚のもみじの葉がひらひら舞い落ちてきた。

 はてと思いながらも、僕は手のひらを広げて腕を前に出した。なぜか樹木が答に応じてくれたような気がしたからだった。

 もみじの葉が、広げた手のひらに着地した。それをじっと眺めてから腕を縮め、顔の前に近づける。

 濡れていた。もしかして、これは涙?

 もみじがこんなにも一気に赤くなったのは……涙の痕跡?

  

 ふと事故現場を見ると、道の端に真新しい花が活けられていた。お茶とおむすびも一緒に。

 まさか老夫婦が。僕は空を見上げた。ありがとう、おじいさんとおばあさん。

 そして果てしない空に、きみを絶対に忘れないから、と声を振り絞った。


  

 悲惨な事故が起きたのは私たちのせいかもしれない。

 厳しい冬に備えて、私たちは葉を落して幹に養分を蓄える。その日もかなり冷え込んだため、皆がいっせいに葉を落しはじめた。さながら落ち葉の吹雪の感がするほどに。

 だがその行為によって、一人の献身的な少年をこの世から奪い去る破目に陥ってしまった。

 坂の上からやってきた一台の車のフロントガラスに、私たちの落した葉が集中して降りそそがれたのだ。運悪く、その車のワイパーは不具合が生じていたのか、大量の落ち葉を掃ききれなかった。それにより視界が狭くなったのだろう。ブレーキをかけて停まればいいのに、運転手は速度を緩めることなく本能的に山側へ車を寄せた。

  

 まずい、このままでは事故が起きる。

 少女も気づいたのだろう。逃げて! と押し迫った声で叫んだ。しかし、山側を走行していた二人が事故に巻き込まれてしまうのは既成事実だった。

 何とかしたいと思っても、私たちの能力では二人を助けることは難しかった。なぜなら植物である私たちに備わる力は、癒しと祈りだけであるからだ。

 ――二人を助けよう! まわりの兄弟たちから懸命な祈りがとどく。心を動かされ、私は切に祈った。

  

 奇跡が起きた。

 いや、それを奇跡というのなら、奇跡とは何と惨たらしいのであろうか。左端を走行していた少年が迫る車の進路を予測して、咄嗟の判断で少女を突き飛ばしたのだ。

 少女は間一髪難を逃れ、車から逸れた。しかし少年はまともにぶつかってしまった。

 私たちは声を合わせて泣いた。葉を濡らし、路面を涙で埋めつくした。

  

 自分の犠牲によって少女が助かったことも知らず、事故現場で悔い続ける少年へ、投げかける言葉を探せずに私たちは今も泣いている。葉を真っ赤にして。



           了



「失恋レストラン」

 

 グラスの氷が、ことりと音を立ててくずれていく。琥珀色のウイスキーが水に溶けて飴色に薄まっていく。私はそのさまを目にしたとき、もしかしたら彼女は姿を見せないかもしれないと思った。

 きっと終わってしまったのだろう。

 そう答を導き、やりきれない気持ちで窓の外を眺めると、青空は朱に染まりビルの谷間へ太陽が沈んでいた。上層に薄っすら取り残された青い空。下層はトマトをすり潰したような茜色。そして地上は、私の胸と同色の藍色に塗り込まれていた。

 やるせなくグラスを手に取り、すっかり水っぽくなったウイスキーを飲んだ。

 喉に、焼けるような熱い痺れが走る。その痺れは、空洞になった胸を気づかいもせずに締めつけてくる。思い出をとぎれとぎれに甦らせながら。

 感情がたかぶる。

 

 恋人同士であろう隣席のテーブルに、フルーツの乗ったカクテルが運ばれてきた。二人は満面の笑みを浮かべ、すぐさまスマホで撮り、たがいにピースサインをして口に運ぶ。

 そいえば私たちも、食事の際には必ずといっていいほど自撮りしてインスタに載せた。ハロウィンのときも、現実さながら美女と野獣の仮装をした。大いに受けた。皆がブログにアップするからと写真をせがまれた。至福の瞬間だった。けれど現実は残酷だ。その後、野獣と醜男の違いをまざまざと見せつけられた。

 美女は、私の親友である美男に心を奪われてしまったのだ。私は抗うこともできなかった。経済力が傑出していれば別だが、並であれば醜男は疎外の対象でしかない。

 

 奥のテーブルで男が目を赤くさせている。胸が痛んだ。彼も、どちらかといえば風采の上がらぬ醜男に属している。なら、やはり失恋したのだろう。

 やがて空のすべてが藍色に変わった。失恋は、この店の風物詩の一つなのかもしれない。

 

        了



「徘徊」

 

 浅い眠りの耳底に時を巻き戻すかのような雨音が響いている。

 リズムは幻想的で切なく、ときに激しく打ちつけている。そんな陶酔を誘う雨音の中に紛れ込む、異質な音を感じとり私は目を覚ました。

 彼が扉に手をかけ気まずそうに立っていた。わずかに開いた戸の隙間から、現実とは思えない形の灯りが湿気に滲んで揺れていた。

 どこへ行くの?

 不安に駆られて訊くと、悪びれずにトイレだよ、冷えるせいか近くてね。と彼はいつもと変わらぬ調子で答え、すぐに戻るからさと扉を閉めた。

 信じていいの。

 私は光を遮断された部屋の中で、彼の残像を追いながら弱々しく首を振る。

 予感はなくはなかった。バレリーナを夢見ながら質素なOL生活を送り、せっせと貯め込んできた預金も、歯車の狂った彼の仕事を援助してきたため底がつきはじめている。これ以上援助を続ければ破滅するのはあきらかだった。

 でもと、迫り出したお腹を愛おしくさする。さすりながら、産もうと思い直させてくれた女医の言葉を思い出していた。

  

 夕暮れの金曜日、産院の待合室にはまだ数人の妊婦が談笑していた。

「村田さん」

 名前を呼ばれて振り向くと、細身の看護師が白いカーテンを開けてにこやかに手招きをしてきた。促されて足を踏み入れると、三十代半ばと思われる女医もカルテを手に穏やかな目を向けていた。

 それでも私は待合室にいる妊婦のような笑顔を返せず、おずおず奥へ進んだ。何気に覗いたカーテンの横に処置室と書かれた鉄の扉が見えた。手前に小さなかごが置かれ、灰色がかった手術衣が丁寧にたたまれていた。

「決心は変わりませんか」

 女医が優しく問いかけてくる。私は目を伏せながら肯いた。

「すでに五ヶ月をすぎていますから、もう立派な赤ちゃんですよ。事情はあると思いますが、考え直したらどうでしょう」

 再度、女医が諭してくる。看護師も私の肩に手を乗せてきた。

「すくすく育ってるわよ、赤ちゃん。生きようと頑張ってるんじゃないかしら」

 私は返答に詰まる。

「ねえ、カトリック系の産院を選んだのは、多少でも生む気持ちが残っているからなのよね」

 女医が手を握ってきた。看護師が横にまわりこんで膝をかがめた。

「よかったら、先生に話してみない」

「話して。力になれると思う」

 思ってもみなかった言葉に決心が揺らいでいく。

  

「六ヶ月前、私は若い頃にバレリーナを志したこともあって、リバイバルされていたライム・ライトという映画を無性に観たくなったのです。上映後、感動してしばらく席を立てずにいた私は皆より少し遅れて映画館を出ました。目が赤く腫れていたので、手で顔を隠しながら外へ出たのを覚えています。でもどうしたわけか舗道に人だかりができていて駅方向へはまったく進めませんでした。どうしたのだろう。恥ずかしかったけど、化粧のくずれた顔で覗き込みました。するとそこに、今見た映画と同じ世界が繰り広げられていたのです」

「同じ世界? チャップリンなのかしら」

「ええ。バイオリンの奏でるもの哀しい旋律に合わせ、パントマイムをしていました。感動の余韻を引きずっていたせいもあるのでしょう、私はそのチャップリンに扮した青年に一瞬で魅せられてしまいました。誰もが銀幕の中の主人公に惹かれるよう、私も青年の演技と映画のチャップリンを重ね合わせて心を持っていかれてしまったのです」

「もしかして、その人が赤ちゃんの父親なの?」

 女医がノートに何やら書き込んだ。

 私は「そうであれば、こんなにも悩みません」と、小さく首を振る。

「違うの?」

 女医が足を組み、ペンをとめる。私に向き直った。「続きを聞かせて」

  

「ショータイムが終わり、気がつくと周りには数人しか残っていませんでした。すっかり魅入っていた私は、我を取り戻し、青年の手に握られるシルクハットにありったけの小銭を入れて立ち去ろうとしました。そのとき青年が、紗英ちゃん、紗英ちゃんだよねと声をかけてきたのです。職場の同僚から村田さんと呼ばれても、紗英ちゃんと呼ばれたことは一度もありませんでした。そのように親しく呼ぶのは故郷の人だけだったのです。不意に心が緩みました。都会生活に疲れ、自らバリアーを張って生きてきた私の胸に、その言葉が心地よく駆け巡りました。私は青年の顔を食い入るように見つめます。でも、チャップリンに似せてメイクしているため、誰なのかわかりません。すると、俺だよ、慎平だよ。といきなり青年が抱擁をしてきたのです。それで私は彼が誰なのかようやく気づきました。そればかりかバイオリンを弾いている人の顔も思い出したのです。二人とも故郷の高校の同級生でした」

「ドラマチックな再会なのね」

 女医が目を輝かせて足を組み替える。私はまた話し出した。

「中でも私を抱擁している人は当時学校中の人気者で、顔立ちもいいせいかとにかく目立つ生徒でした。家柄も頭もよく、いずれ地元に根を張り、立派な政治家になるのだろうと誰もが思っていました。ですが言い寄る異性に縛られるのが嫌なのか、それとも私のように夢を持っている女が好きだったのか、何度かデートに誘われたことを覚えています。でも私はその頃、後ろで控えめにバイオリンを弾いている人に淡い感情を抱いていました」

「そう、複雑なのね……」

 女医は考え込むようにつぶやく。

  

「抱擁をとき、もう一度二人の顔をじっくり見つめました。それぞれ頬に少し肉がついていましたが、至る所に懐かしい少年時代の面影を濃厚に残していました。ですがあまりに唐突だったせいで、そのときはまだこれは夢なのだ、映画の余韻なのだ、と思い込んでいました。けれど徐々に現実だと実感していくうち、この再会は運命なのではと思うようになりました。なぜなら私の夢は潰えたものの、今も夢を追い続ける彼らに深く共感していたからです。今夜、一緒にいたい。そんな追い打ちをかける彼の言葉にも私は酔いしれました」

「彼、少し性急すぎる気がする」

「そうかもしれません。でもオーディションに落ち続け、すでに三十六歳。私は夢を失った女なのです。まして相手にしてくれる人がいなかったからでしょうか。その夜どちらからともなく求め合いました。そして一つ屋根で一緒に暮らしながら彼の夢の成就を応援したのです。でも破局は、それこそあっけなく訪れました」

「原因は、予定外の妊娠ね」

 女医がノートの上にペンを放り投げ、腕を組んだ。「女は芸の肥やし。その責任のなさは、まさに芸人の典型ね」

「いえ違うんです。原因は彼のせいではないのです」

「どういうことなの」

  

「売れない芸人だった二人は、私との再会と同時に一気にブレークしました。実際は映画館の前での地道な努力が実ったのでしょうが、彼らは私を福娘として褒め称えてくれました。そんな幸せのさなかに、あの忌まわしい事件が起こったのです」

「事件?」

「どうしても彼の演技が前面に押し出され、演奏に徹する相方は演技に参加するわけでもなく、観客から見れば酒の肴ていどの認識しか持たれなかったせいだと思います。しだいに彼一人がクローズアップされ、相方は完全に壁の染み程度の存在になってしまいました。高校時代は演奏も演技もとにかく群を抜いていたのにどうしたことなのでしょう。もしかしたらパントマイムを前面に押し出す、それを前提とした芸風を目指したからかもしれません。そのため相方は黒子に徹するしかなかったのだと思います。私は相方の才能も人の良さも知っていただけに心を痛めました。事件当日も彼だけが出演して、相方は舞台に立たないどころか主催者から呼ばれませんでした。彼はコンビだからと異議を申し立てたのですが、主催者はソロでいいといって聞き入れてくれなかったようです。相方は荒れて部屋へやってきました。酒もかなり飲んでいたみたいです。あいつは自分だけを売り込んで、俺を切り捨てたと喚き、その勢いのまま強い力で私を押し倒してきました。きっと腹いせもあったのでしょう、私を犯して溜まった鬱憤を晴らそうと思ったに違いありません」


 女医はやるせない表情を見せた後、目をつぶる。

「ですがどんな事情があろうとも、そんな恥知らずなことを受け入れてしまえば人間として終わりです。必死に抵抗しました。けれど相手は正気を失っています。もがこうにも力で押さえつけられ為すすべもなく衣服を脱がされてしまいました。私は彼の親友である相方に犯されてしまったのです。そればかりか、女というのはつくづく弱い生きものだと、そのとき嫌というほど実感させられました。凌辱のさなかに肉体が意思を裏ぎり、ある部分がとても敏感になってしまったのです。私は忌むべき男の首に腕を絡め、自ら腰をくねらせていたようでした。

そのことはやがて彼の知ることになり、コンビは解消され、彼はピン芸人として徐々に仕事を増やしていきます。頻繁にテレビにも出るようになり、部屋に帰ってくることが少なくなりました。ですが相方がいてこそ彼の良さが引き出されるということに、ようやく気づいたようです。のみならず、一つの芸だけではすぐに飽きられてしまいます。彼のブレークは三ヶ月で終わりました」

「売れない芸人に戻ってしまったわけね」

 女医の言葉に私は頷くことしかできなかった。

「コンビの解消に結果的に加担してしまった負い目から、私は懸命に彼を支えました。これまで蓄えてきた預金を切り崩し彼に渡しました。そうした生活が続いた頃、私の妊娠が発覚したのです。私は悩みました。このお腹の父親が彼であってほしいと祈りました。でも自信がありません。医師から告げられた妊娠時期は、ちょうど相方に犯された頃と合致したからです」

「それで中絶を思い立ったの?」

「祝福されない子が不憫だと思ったのです」

「勝手なこじつけね。確かに父親が不明かもしれないけど、祝福されないというのは言いすぎよ。だって生まれたら母であるあなたに祝福されるんだから」

 女医は毅然と言い放ち、続けた。「産みなさいよ。援助するから」

  

 ふと我に返ると私は夜具を払いのけ、お腹をかばうようにして起き上がった。パジャマの上から厚手のカーディガンを羽織って窓辺に向かった。そうして硝子越しに外を覗き込む。雨でくすむ舗道に愛着のある黒い影が傘もささずに遠ざかっていくのが見えた。

 嘘つき……。

 私は両手で顔を覆い、へなへなその場に蹲る。が、ひとしきり咽ぶと、反動で立ち上がり憑かれたように黒い影の跡を追った。

 静まり返った廊下を、心もとない灯りを頼りに歩いた。数メートル進んだ所で、はて、ここはどこなのだろうと頭に素朴な疑問をよぎらせた。下町の六畳一間のアパートにしては異様に廊下が長すぎるのだ。しかも、床も壁も馴染んだ板張りではなくコンクリートだった。

 もしや愛する男にすてられたショックで頭が錯乱してしまったのだろうか。それとも激しく感情が揺れたせいで意識がどこかへ飛ばされてしまったのか。私は胸に手を当て興奮を鎮めると、大きく深呼吸して、彼が向かった駅へ行くことだけに神経を集中させた。

 数メートル先の、正面玄関の手前の部屋から煌々と明かりが漏れていた。すぐに大家さんの居宅だと一人合点するのだが、確か大家さんは向かいに一軒家を構えていたはずだ。なら、いつから誰が住んでいるのだろう。またぞろ不思議に思いつつ、やはりそれでもこの情景の意味を探れないまま忍び足で歩き、白い服を着た男がテレビ画面に見入る一瞬の隙を突いて部屋を通りすぎた。

  

 外へ出ると、晩秋の雨は思いのほか冷たかった。まるで氷。その冷たい雨粒は意思に反して容赦なく目に入り込み、狭い視界をさらに狭くした。雨は何度ぬぐっても都度入り込み、通過する車のヘッドライトに乱反射しては雨氷にも似た光の洪水をつくりだす。

 そのうちしだいに風も強まり、煽られた銀杏の葉が次から次に吹き飛び舗道へ落ちずに勢いよく空へ舞い上がった。カーディガンも凧のようにばたばたはためいた。私はかじかむ指ではだけた衣服の前をどうにか合わせ、雨と風に震えながら彼の跡を追った。

 でもそのとき、思ったように足が進まないことに気づいた。悪天候で転んではいけないと、本能的にお腹の子をかばっていたのかもしれなかった。

 ごめんね、少し急ぐから。

 といったん歩みを緩め、済まなそうに両手で触れると……迫り出ていたはずのお腹がへこんでいた。

 えっ?

 私は、よろよろ立ちどまる。もしかしたらと恐る恐る顔に手を当ててみる。雨に濡れているのに潤いがなく、まるで老人のようにがさがさだった。

 頭の中が真っ白になる。

 そんなばかなと、今度は外灯に手をかざして甲の部分を凝視した。やはり皮膚がたるみ、しわだらけだった。

 これは何、どういうこと?

 私は絶句し、放心して、ふらふらと猛スピードで押し寄せる光の洪水の中へ吸い込まれていった。

 

 

   了




「銀河を超えて」

 

 たびたび怪鳥が目撃されるという情報を得、急遽きゅうきょ私は赤道直下の島へ降り立った。島は日本の淡路島程度の広さで、大半は密林であった。人口もわずか五百人あまりと聞く。したがって案内人は心許ない十二歳の少年である。

「ぼくが子供なんで、不安そうな顔をしてるね」

 密林へ足を踏み入れたとき、私の顔をしげしげと見ながら少年が問いかけてきた。

 それもそのはずで、私はひどく身体能力の乏しい鳥類学者なのだ。これまでずっと安全な日本で観察を続けてきており、こういった未開の地で未知の生物を調査するのは初めてなのである。

「ジャングルには猛獣もいるのかい。例えば、豹とか」

「猛獣がいることはいるけど、捕まえようとしない限り人間を襲ったりはしないよ。ほんとうに怖いのは人間さ。人間を襲うのは大概たいがい人間と相場が決まってるからね」

 なるほどと思ったが、身の安全に対しては何の気休めにもならない回答である。

 しかし調査するにはジャングルの奥深くへ入らねばならない。猛獣だけでなく現地の人間にも警戒しなくてはならないのなら拳銃一丁では不安だ。

「豹や虎よりもかい」

「うん、以前はね」

「以前?」

 少年が鉈で草を払いながら含み笑いをした。

「ケンヂのおかげで、村はすっかり平和になったんだ」

「ケンヂって、その人は日本人なのかい」

「うん、宮沢賢治。学校に自画像が飾ってある。彼は奇跡を起こしたんだ」

「どういうこと?」

 私は歩みをとめて訊いた。話が胡散臭かったからだ。日本の小説家を、どうしてこのような未開の人間が知っているのだ。たぶんに外交辞令だろう。自画像だって嘘っぱちだ。

  

 不意に少年が立ちどまる。私へ振り向いて言った。

「この先に黒い丘がある。そこは満月の番になると星が降りそそぐんだ。それを見て、彼の本を読んで感銘を受けた王様が丘へ上った。そして発見したんだ」

「発見? 何をだい」

「光る鳥だよ」

 ああ、それこそが私の捜しているものだった。やはりいるのか。胸が興奮で湧きたった。

「早く、そこへ案内してくれないか」

「もちろんだよ。最近また部族間の争いが起きはじめたから、大人たちが総出であんたを待ちわびてるよ。なんせ王様以来の生贄だからね」

「ちょっと待ってくれ。君が何を言いたいのか、まったくわからない」

「だって王様は、あんたと同じ日本人だよ。争いの絶えない部族たちを危惧し、自ら犠牲となって黄泉の国へ旅立ったんだ。光る鳥の背中に乗ってね」

 それで、ようやく宮沢賢治の本に感銘を受けたことが納得できた。だからといって私は王様ではない。鳥類学にしか興味のない人間だ。いくら諍いが起きようと救う力も義理もない。

「戻ろう」

 私が言うと、少年がまた含み笑いをした。

「手遅れだよ」

「ふざけるな」

 私は少年を置いて一人で踵を返した。すると急に空が暗くなり汽笛が鳴り響いた。

 まさか……光る鳥とは銀河を旅する列車なのか。

 逃げ去ろうとすると、屈強な大人が三人、意味不明の笑みを浮かべ道をふさいできた。

 

       おわり





 「再会」

 

 その男を見たのは昭和の中頃だったから、もう五十年以上前になる。

 あの頃は、東京ばかりか日本全体が高熱に浮かされ、高度経済成長の名のもと景気はこれ以上ないくらい沸騰していた。しかしその反動で空も河川も今の中国と同じように汚染されて澱み、時流に取り残された人間の心も当然のように荒んでいたのを覚えている。

 そんなとき、謎の怪事件が立て続けに勃発した。無気力な人間が突然蒸発するという事件が続いたのだ。

 気にはなったが、凡庸で人と争うことの苦手な私は受験戦争にも敗れ、気がつくと新宿の駅前広場にたむろしていた。勤勉という言葉に理由もなく反発し、自由気ままに過ごしていた。そんな自堕落な私がニュースを気にするわけがなかった。

  

 そうしたある日、私は男と遭遇する。

 着飾った人並みの中に、異様に白くのっぺりとした男を見たのだ。白い顔には目も鼻も口も黒い穴だけしかなく、耳がアンテナのように立っていた。

 私は竦む。

 男が気がついたのか近づいてきた。黒い穴をぱくぱくさせて声をかけてきた。

「どうやらきみは私が見えるらしい」

 どういう意味だ。ほかの人にはこの男が見えないのか。

 薄気味悪かったが、冷静に考えればドラッグで頭がトリップしている。幻覚なのだと思い直した。

「幻覚を見ているのさ。顔のない人間なんているわけがない」

「確かにそんな人間はいない。だがきみは見ている、顔のない私をね」

 その言葉にぞくっとした。ほんとうにドラッグのせいなのだろうか。私は逃げるようにその場を離れた。そしてそのまま二度と都会へは足を向けなかった。

  

 それから五十年後、私は故郷の老人ホームで再び男を目にした。

 施設の前を変な男が歩いていると思い、何気に窓辺に寄ったときだった。不意に男が長い耳を動かし振り向いたのだ。

 忘れていた震えが全身を駆けめぐった。私は恐ろしくなってすぐにカーテンを閉めた。部屋の隅で顔を隠してうずくまった。

 男が音も立てずにやってきた。

「見いつけた」

 と、あの日と同じように黒い穴をぱくぱくさせて笑った。

 すると生ぬるい風が、とつぜん私を絡めとるように吹きだした。私は抗うこともできず黒い穴に吸い込まれていった。

 

 

   おしまい







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[一言] 鮎川りょう様 「てのひら」シリーズありがとうございます! なんかもう、いろいろ言いたいことがたくさんありますが、とにかくまずは落ち着いて……(どちらにしてもテンションおかしいです、すみませ…
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