八、シルシィとカエデ
食を唆る芳ばしい香りが、耳元で悪魔が囁きかけるように鼻腔をくすぐり、その誘惑に必死に耐えようとしている、貧しそうな子ども達を、横目に、つかつかと目的もなく、歩いている二人がいた。
一人は少し、膨れっ面をしており、もう一人は少し、おどおどしている様子だった。
肉の焼ける音、匂い、如何にも足を止めてしまいそうな罠が右にも左にも点在している。
ここは飲食街になっており、普通の旅人なら十中八九、自分の胃袋と相談しつつ、出来る限り食べ尽くそうと考える程、どれも美味で人気がある食べ物ばかりだ。
そんな通りを二人、シルシィとカエデは目もくれず、歩く。ただ歩く。
「せっかく、下界に降りたのに、どうしてエミル様はお一人で……」
心底悲しそうに、シルシィが嘆いた。
「し、仕方ないよ……お師匠様にも、あの、事情があるんだよ」
「貴方はエミル様と下界に何度も降りてるかも知れませんが、わたくしは初めてなのですよ」
「ごめんなさい」
「貴方を責めるつもりではなかったのです。こちらこそすみません。ところで、先程から何故か注目を浴びている気がするのは、気のせいでしょうか?」
人混みの中、何故か自分達だけに視線が集まることにシルシィは奇妙に感じたらしい。
「それは、シルシィのせいじゃないかな……」
「わたくしが何をしたと言うのです」
「何も……でも、その服とか、見た目とか、目立つし……」
「そんなに派手ですか? でも、言われてみれば、確かに周りにはわたくしのような格好をしている者はいませんね」
シルシィはずっと、アリアスティにいたため、アリアスティの生活こそが彼女の常識となっており、浮世離れしていた。
エミルの指示で、翼はしまってはいたが、ただでさえ注目を浴びる美貌を兼ね備えている上に、純白のドレスを着て街を闊歩していたら、目立って当然であった。
周囲の人々は質素服装をしている者が大半なのに対し、シルシィはシルク生地の高級そうなドレスに身を包んでいたのだから、周りにはどこぞの王族のお嬢様か何かに見えていてもおかしくはない。
「うん」
「エミル様も目立つなと仰っていましたし、後で何か考えないといけませんね。それで、カエデ、人間達はわたくし達と違う言葉を喋るのですね?」
「うん、シルシィは話せないの?」
「初めて耳にする言語ですからね。しかし、先程の検問で、エミル様もお使いになっていましたね」
「う、うん……でも、あれは少し違かったような……」
「それで、その言語は覚えた方が良いのですか?」
「うん……そんなに難しくないから……あたしが教えてあげるね……いらないかな……?」
「いえ、知識があるに越したことはありませんから、是非お願いします」
「うん……それじゃあ、この本読んで」
そう言うと、カエデは百科事典のような分厚い本を取り出した。
シルシィは近くにあった椅子に腰を掛けると、一ページを一秒程のペース捲っていった。
そこには単語がびっしり書かれていて、そのペースでページを捲っていたら、読めるはずもない。
大分分厚い本だったので、シルシィは、相当な時間、本とにらめっこをしていたが、読み終えたのか、本をパタンと閉じた。
「この書物の内容は暗記しました、後はどうすれば良いのです?」
エミルにもAIが組み込まれていたように、シルシィにもAIが組み込まれていた。
AIの情報の処理能力は、人間の脳とは比べものにならない程の速さで、シルシィはあの本の文字の羅列を、写真を撮るように、瞬時に記憶したのだった。
「それじゃ……後は、あたしとの会話の中で、文法を理解していけば、話せるようになる……かな」
「わかりました、では、歩きながらにしましょうか」
「そうだね」
そうして、ずっと、シルシィとカエデは異言語で会話しながら、散歩を続けていた。
「中々様になってきたのではありませんか?」
「うん、もう、問題ない……かな」
「意外と時間がかかってしまいましたね」
「いや……普通は、そんなに早く喋れない……よ」
「そうでしょうか」
他愛も無い会話をしながら、目的も無く、街をぶらぶらと歩いていた二人だったが、シルシィが何かに興味を持ったらしく、カエデに疑問を投げかける。
「カエデ、あれは何ですか?」
「あれは、コロシアム……だよ」
「何をする所です?」
「魔獣と罪人が戦う所……だったかな……」
「何のために戦うのです?」
「魔獣を倒すと、罪が赦されるんだって……あと、お金も貰えるらしいよ……だから一般の参加もあるらしいね……」
「そうですか、することもないですし、入ってみましょうか」
「そうだね」
エミルが、コロシアムを発見した時にはすごい行列ができていたが、今は行列はできておらず、シルシィ達はすんなりと入場することができた。
観客席に辿り着くと、二人は適当に空いてる場所を探して、立って観戦した。
丁度始まる時だったらしく、進行役が喋り出した。
『さーて、本日はこれで最後の挑戦者となります!』
「もう最後ですって」
「そうだね」
「魔獣はどれ程の強さなのでしょうか」
「うーん……あたしも初めて見るから……」
「あっ、出てきましたよ。って、あれ? エミル様ですよね?」
「そんなわけ……ないで、ぶほおおおおおおお、おしじょーさまあ!?」
カエデは目が飛び出しそうになって、驚愕した。
「最後を飾るには相応しいですね」
「そう、だね……でも、何してるんだろう……」
「エミル様には、何かお考えがあるのでしょう」
「そうだね……でも何か……必死になって避けてるような……」
「あれは、演技です。あっさり勝利するよりも、苦戦して大逆転の方が、観客達も喜ぶでしょう」
「迫真の演技だね……まるで本当にやられているみたい……」
暫く見ていると、エミルが、突進を受けて、倒れた。
「あの猫、エミル様を押し倒しましたよ! なんて羨ま、いえ、無礼なことを!」
今にも闘技場に乱入しそうなシルシィを、カエデは必死に押さえた。
「シルシィ、駄目っ……」
「ですが黙って見ているわけには参りません!」
「大丈夫だよ……お師匠様は、ほら、見て……」
カエデに促されて視線を移すと、エミルが魔獣を払いのけていた。
「おお! ここから逆転劇が始まるのですね! 何という演出でしょう!」
「うん……」
「魔法ですよっ! ほらほら! 魔法ですよ! 御覧なさい!」
シルシィがエミルの魔法を見て、鼻血でも噴き出しそうな勢いで興奮している。
「圧倒的だね……」
カエデは目を輝かせ、食い入る様に見ている。
「いけえええええええええええええええええ」
エミルがマンティコアを完全に沈黙させ、シルシィは大興奮だった。
「勝負あったね……」
「ええ! わたくし、エミル様の戦うお姿を初めて拝見しましたので、柄にもなく興奮してしまいました」
「そうだね……びっくりしたよ……」
そして、先程までの興奮が嘘だったかのように、シルシィはいつも通りの調子に戻る。
「では、外でエミル様のことをお待ちしましょうか」