惨殺現場
会社から帰り、リビングに入った夫はその散々たる光景に目を疑った。
今朝この部屋から会社へ出かけたときは綺麗に掃除がされ、新婚の新妻が優しい笑顔で見送ってくれたのだ。
今のこの部屋はソファがなぎ倒され、テーブルの上にあった物が床に散乱し、カーテンも半分取れかかっている。
そして部屋の中央には惨殺死体が残されているのだ。手足がもげ、顔を半分つぶされたその死体の目がこちらを向いているような気がする。
そしてその惨殺死体の横には犯人が凶器を手に握ったまま座り込んでいる。肩で息をし疲労に満ちたその体は指一本動かすことも叶わない様子だ。
夫帰宅三十分前
「何? 誰かいるの」
新妻はカーテンに向かって問いかけた。
その問いかけに言葉を返す代わりにカーテンを揺らめかせアイツが姿を現した。
「ヒィィ」
新妻がその風貌には似つかわしくない悲鳴を上げる。
アイツは一度歩みを止めると新妻の声にならない悲鳴を静かに聞き入っていた。
悲鳴を聞くのはいつものことだ。この全身黒づくめの姿で人間の前に出ればたいていの人間が悲鳴を上げる。そして最近はその悲鳴を聞くことが楽しくて仕方ないのだ。
アイツは新妻のほうへしっかりと向きなおると静かに歩き始めた。新妻の反応を楽しむかのようにゆっくりと進む。
アイツが動き始めたことに呼応するように新妻も動き始める。よつんばになりながら電話へたどり着くと夫の携帯電話に電話をかけた。
ツーツーツー
電話は妻に無常な電子音を返してくる。
この時間夫は帰宅のため地下鉄に乗っているころだ。携帯電話はつながらない。
そのことに気がついた妻は電子音の続く受話器を握り締め、ものすごい形相で黒づくめのアイツを見る。その表情にはパニックと恐怖と少しの狂気が混じっていた。
アイツは新妻の更なる恐怖を煽るかのように身軽な体を浮かせるとソファへ降り立った。
新妻はその動きを見ると、受話器を落とし、それに続くかのようにしゃがみこむ。無造作に投げ出された二本の足が妙に色っぽい。そして足の指の先がアイツが乗っているソファについた瞬間、反射的にソファを蹴り倒した。
アイツは驚きもせずソファから床へ飛び降りると徐々に新妻との距離を狭めていく。
進んでは止まりじらすように。そして、時々新妻から視線をはずしてはまた戻す。
新妻の恐怖心を最大にするようにわざとゆっくりと近づいていく。
そして新妻の表情を存分に楽しんだアイツはついにクライマックスとばかりに一気に走り出した。そこにはさっきまでのような遊び心もいたずら心もない。ただターゲットを仕留めることだけを目的として、最大の力で新妻に向かってくる。
とそのとき新妻の手の先に何かが当たった。
新妻はそれを手にとると目に一筋の狂気の光を宿してアイツに向かっていった。そこには先ほどまでのういういしい新妻の面影はない。
リビングは二匹の獣の戦場と化した。
新妻の攻撃に一瞬怯んだもののすぐに体制を立て直すアイツ。
新妻は頭のほとんどを恐怖と狂気で満たされでたらめに攻撃を繰り返す。
しかし百戦錬磨のアイツには攻撃はかすりもしない。
アイツの代わりに新妻の攻撃を受けた物が次々と床に散らばっていく。
床に落ちたものをまるで踊るようにアイツが避けていく。
そしてアイツはひらけた足場を見つけると一気に新妻に飛び掛った。
が、その瞬間新妻は護身用のスプレーを発射した。
一瞬にしてアイツの動きが止まる。スプレーが顔にでも命中したのか、仰向きに倒れるとじたばたと手足をばたつかせる。
新妻は右手に握った凶器をアイツめがけて振りかざす。
その瞳にはすでに狂気の色しか残っていない。
とにかく凶器を降り下ろす。
アイツの顔がつぶれても、アイツの手足がもげても新妻の動きは止まらない。
ただの肉片となっているアイツに向かって凶器を降り下ろす。
夫が帰ったことを知らすチャイムが鳴っても新妻の手から降り落とされる凶器は確実にアイツの体を破壊していく。
夫がリビングのドアを開けた音でようやく新妻の動きは止まった。
凶器を握ったままゆっくりと夫に振り向く。
「あなた……」
新妻が夫に声をかける。それはこの惨殺事件の犯人には似つかわしくない弱弱しい声だった。
「お前……」
夫の言葉も続かない。
「こうするしかなかったの。こうするしか」
新妻はまるで自分に言い聞かせるようにつぶやく。
夫もようやく正気を取り戻し、妻の肩を揺さぶりながら妻を問いただす。
「他に方法があっただろう。何もこんなことしなくても」
妻は涙を流しながら夫に訴える。
「だって、すごく怖かったの。アイツが真っ黒な体で近づいてきて。
あなたへの電話もつながらないし。スプレーでもだめだったし。
こうするしかなかったのよ」
とりみだした妻の手から凶器が落ちる。
凶器はそのままコトっと軽い音を響かし惨殺死体の横に落ちる。
そして夫は観念したように凶器を拾い上げるとゴミ箱へと捨てた。
そして小さく独り言をつぶやいた。
「何も俺の秘蔵の『水着アイドル写真集』で殴らなくてもいいだろう。
ゴキブリを」
夫はそのあとリビングに散らばったゴキブリの死骸を片付け始めた。