後編
南向きの窓から差しこむやわらかな日差しが、頬を撫でる。
このまま眠気に負けて昼寝をしたらきっと後悔するだろう。けれどとても贅沢。
這い上がってくる眠気を必死で口の中に押し止めて、目の前で無心に動いているシャーペンの先を見つめた。
カリカリ、と芯が削られていく小さな音だけが、教室内に響いている。
いい休日だ。
良乃は両手を天井に向かって振り上げ、背筋を一直線に伸ばした。
(―― さて、どうしてこうなったんだっけ?)
「デートしてください」
「は?」
まさか色恋関連のごほうびを請求されるとは。
あまりに意外な展開に、目が点になった。
確かに、他の講師の中では良乃が一番若輩者ではある。が、それだけに尽きる。
せっかくなんだから、もっと大人の魅力溢れる先生を誘えばいいじゃないか。とアドバイスをしようとしたら、小指を眼球の前にかざされた。
「先生に拒否権はないですよ」
…… 今、考えてみれば、このときの責任所在は、四倉くんよりも自分にあった。
生徒にそういうふうに見られるなんて可能性を、そのときまで考えたこともなかったというのは、ちょっと自覚が足りなかった。深く反省しなければいけない。
しかし、年下の男の子とデートなんて、どっちのごほうびだかわからなくなりそうだ。
なんて今朝目覚めてふと思い、いちおうどんなコースでもお付き合いできるように、銀行で、なけなしの福沢諭吉を下ろしてきたりしたんだけど。
机の上に置かれた缶ジュースが二本。塾生価格の百円ぽっきり。
今のところの出費、電車代プラス二百円なり。
思わずついてしまったため息が、四倉くんの手元、生物のノートのふちをめくりあげた。
四倉くんが顔を上げる。
「先生、ここの問題教えてください」
「…… はーい」
幸いにも、福沢諭吉は家にお持ち帰りできそうだった。
塾の自習室は、365日、深夜まで営業、冷暖房完備という、コンビニのような充実ぶりだ。
休みの日でも、守衛さんに鍵を借りれば、自由に出入りできる。
今日は、二人のほかに利用者はいなかった。
塾の冷房は効きすぎるため、一時間に一度電源を切って、窓を開ける。
生ぬるい空気がそろそろと忍び足で入ってきて、良乃の周りを歩きまた出て行った。
「…… 本当に、こんなのでよかったの?」
「なにがですか」
「ごほうび」
四倉くんの手が止まる。
生徒の勉強の邪魔をするとは感心しない行為である。
ゆえに、お昼をとっくに過ぎる時間まで、声をかけるのを我慢していた。
四倉くんは生物の教科書を閉じると、椅子に深く腰かけ直した。
どこかで見たことのあるような、デジャブの原因はこの間の個人面談のときの景色だ。
あのときも今のように、こうやって向かい合わせで座っていた。
「勉強教えてくださいって頼んだの、オレですから」
「でもこんなの塾のときとおんなじだし。せっかく10番とったのに」
デートしてください、と言われたときと、今の状況のギャップは激しい。
「…… オレ、今は勉強しなきゃいけないんです。新しくほしいものができたから」
「ほしいもの?」
「先生が言ってくれたでしょ。絶対譲れないものとか、お前にはないのかって」
「あー」
そういえばえらそうに、そんなことを言ったような気がする。
「それが、できたんです」
「そっかー、よかったねぇ」
良乃は微笑んだ。
自分の言葉が誰かに届く。そんなに嬉しいことはなかった。
「…… 先生は、いい人ですね」
「は?」
にこり。ゆるんだ口元から、一瞬白い歯がこぼれた。
四倉くんがこんなふうに笑うのは珍しい。
少なくとも良乃の頭の中には、そんなデータはない。
「例えば、今、密室で二人きりだってことも忘れていてくれる」
確かに、広い教室の中には良乃と四倉くんしかいなかった。
が、先生と生徒。そんなに特別なことでもない。
「そこで、生物の勉強をするっていう健全さに隠れて、オレが何をしようとしてたかなんて、考えたりしない」
「…… は?」
「なんで塾に入ったとか、なんで学校の成績だけ悪いのとか、なんでギリギリの10番をとったのかとか、いちいちそんなことに興味を抱いたりしない」
生徒のことについて興味を示さないなんて、それは職務怠慢ではなかろうか。
もしかして、遠まわしに非難されているのだろうか。
どう答えたものか悩んでいると、再びカリカリという音が響いてきた。
…… やっぱり、四倉くんはちょっと変わった男の子だと思う。
日が傾いて、教室内に入りこむ光の絶対量が減っていく。
影はにょきにょきと手足を伸ばし、机と椅子を抱いて、まるで教室ごと夜の海へと沈んでいくみたい。
机の上に突っ伏して、良乃は時折船を漕ぎながら夢と現実を行き来していた。
暇だし、おなかがすいたし、やっぱりちょっと申し訳ないしで、良乃は何度かコンビニに出かけて、二千円ほど使ってきた。
机の上に山のように積み上げられたお菓子の類を前にした四倉くんの顔つきがなんとも言えないもので、おかしかった。
封を開けたスナック菓子をつまんでいく手にはもう、シャーペンが握られていない。
「ほしいもの、またごほうびでくれませんか?」
ゆっくりと身体を起こす。
自覚のなさを反省したばかりだし、今はもう先生として、生徒に応対することができるし、しなきゃいけないはずだった。
ただ、四倉くんが珍しいくらい、いつもよりも、真剣で切実に何かがほしいのだ、ということだけは伝わってきた。
本日のデートの出費は、野口英世約三枚。
こんなごほうびで生徒のやる気を買えるなら、安いものではないだろうか。
「そんな、高いものじゃなければいいよ」
「じゃあ、具体的な目標は先生が決めてください」
10番の次は何番だろう。
良乃は悩みながら教室を見渡して、壁に貼ってある達筆な塾長の文字が目に入った。
「第一志望校、合格?」
四倉くんの目が見開いた。
それはそうなのだ。本格的な受験の波が到来するまではまだ半年近くあって。
もちろん、受験生としては焦るべき残り時間だけれど、それまでほしいものをおあずけされるっていうのは、結構つらいことだろうと思う。
ダイエットのようなもので、実際きっと自分なら堪え切れず食べてしまうと思う。ぱくりと。
良乃は机の上のお菓子の山に手を伸ばし包み紙を外すと、四角い茶色の塊を口の中に投げ入れた。甘い。
先生が答えを迷っている間に、生徒は一つの答えを示していた。
それは、あっさりとごく簡単なことのように。
そのおかげで、良乃は伸ばされた小指に、小指を絡めるだけでよかった。
そして半年後、四倉くんは見事、第一志望校の合格通知を獲得することになる。
おしまい