前編
そもそもの最初から、四倉帰一くんは、ちょっと変わった男の子だった。
良乃は、学習塾で講師のアルバイトをしている。
この塾のシステムは、生徒が各自で学習目標を定めて、達成を目指す、というものだ。
自由でアットホームな雰囲気が持ち味です、なんてかっこよく言ったりしているけれど、大手の予備校のような、成績アップに直結するような成果は望めないため、生徒たちは、学年が上がるにつれて、なんとなく辞めていくのが普通だった。
それは、上から下へと水が川を流れていくように、自然なこと。
生徒からすれば、次のステップへとのぼるための通過儀礼のようなもの。
少しだけ淋しい気もしたが、しょうがない。
アルバイトとはいえ、一応の先生の端くれとして、良乃はそう理解していた。
しかし、そんな流れに逆らって泳いできた川魚のように。
高校三年生の夏。大学を受験するなら一番大事にしたい時期。
四倉帰一という男の子は、入塾してきた。
彼は、ここから割と近いところにある高校の学生だった。
いつも制服姿で、おそらく学校からそのまま通っているのだろう。
成績は可もなく不可もなく、普通。
部活動の欄は、白い。帰宅部だろうか。趣味は、テレビ鑑賞らしい。
手元にある生徒個人調査票に目を落としながら、うーむ、と良乃は首をかしげた。
この塾にも、四倉くんのような例が他にないわけではない。
毎年、自然な流れにのっからずに、この塾にとどまる生徒も何人かいる。
成績優秀で、そもそも塾になんて頼らなくても一人でしっかり勉強できるような子が多かった。
彼らに必要なのは場所なのだ。誰にも邪魔されず、静かに勉強に集中できる場所。
塾長の道楽で経営されているようなこの塾は、ほぼ日付が変わる時間まで、自習室が開放されている。駅から近いという立地条件もあり、自由に使えるメリットは大きい。
しかし、四倉くんの場合はこの少ない例にも、微妙に当てはまっていないような気もするのだ。
(…… まあ、ただのアルバイトが、そこまで踏み込んで考えてもしょうがないのだけど)
ちょっと変わった男の子だな。
一度持ってしまった先入観はなかなか打ち消せるものではなかった。
現在、目の前の四倉くんは、何をするでもなく、向かいの席に座り、静かに背筋を伸ばしている。
なかなか口を開かない講師にイライラするわけでもなく、勉強できずに焦るわけでもなく、することがなくて暇なわけでもなく。
ただ、座っている。
今は、個人面談の時間だった。
毎月一回、希望の講師と個人的におしゃべりをする時間が、授業のあとに設けられる。
別に学習についてでなくても、将来についてとか、恋の悩みとか、話題はなんでも構わない。
(でも、まさかアルバイトの自分が面談相手に指名されるとは)
予想外の出来事に、なんで? とよほど尋ねてみたかったのだが、責任放棄になるような気がしたのでやめた。
しかしながら大変申し訳ないことに、良乃の頭の中には、四倉帰一くんという生徒に対するデータが詰まっていなかった。
謝りたい衝動を堪えて、代わりに、個人調査表から何か読み取れないかと目を凝らしているところだった。
「ええとー、四倉くんは大学、受験するつもりなんだよね?」
「あ、はい。いちおう」
「まだ志望校は決まってないのかな?」
志望校の欄が真っ白だったのを見つけ出し、聞いてみる。
この時期に決まってなくてもいいのか。学校の先生とかに何か言われたりしないのか。
脳内で、同じ高校に通っている他の生徒のデータと照合してみたところ、あんまり大丈夫じゃないような、という結論を導き出した。
講師側の焦りや苦悩なんてものは、生徒には一切関係ないものである。
四倉くんは焦ったふうでもなく、のんびりと口を開く。
「いちおう、候補はいくつか」
「そっか、じゃあ別にいいんだけど。たぶん、私に言われなくてもわかってると思うけど、大学は早めに本命決めてアプローチしたほうが有利だから」
「ああ、受験って恋愛と似てますもんね」
「は?」
恋愛、という単語が、目の前に座っている男の子とすぐには結びつかなくて、素の声が出た。
四倉くんはすぐに、浮気ものが報われないところとかと、説明を付け足してくれる。
なるほどー、と納得する良乃の様子を見守る目は、まるで教師のそれのようだ。
「オレ、片思いで終わらないようにがんばりますから」
表情を変えないままそんな比喩を平気で使用してしまう。
やっぱり、四倉くんは、ちょっと変わった男の子だと思った。
生徒の調査票は何枚か束になってクリップで留められていた。その一番下に、最近行われたばかりの模試の結果があった。
(ああそうか。これを見れば、志望校の候補だってわかるじゃないか)
回っていない脳みそに突っ込みを入れつつ、良乃は新たなデータをインプットするのに努めた。
第一志望から、すべての大学名の横に、A判定の文字が踊っていた。
「…… なんだ。四倉くんって、頭いいんじゃないの」
「は?」
成績は、生徒を判断する一つの材料でしかない。
でもここは塾だから、普通の生活よりも比重が大きくなるのはしょうがない。
どうして、模試ではここまでの点数が取れるのに、学校の成績が可もなく不可もないんだろう。
浮かんだ疑問をよく吟味もせずぶつけてみると、ああ、となんでもないことのふうに四倉くんが答えた。
「あんまり、集中力が続かなくて。学校の定期試験って終わるまで一週間ぐらいかかるから」
それを聞いて、彼の不思議な人となりの一部が氷解したような気がした。
(でも、なんだか、なんだろう)
溶けた氷の中に、新しく小石を見つけてしまったような。
良乃は腕を組み、うーんと低くうなる。
これは四倉くんにはじめて会ったときから、ずっと付きまとっている、直感の根っこみたいなものだ。
ちょっと変、の正体とも言える。
「―― あのさ、四倉くんには、絶対これだけは譲れないとか、あいつにだけは負けたくないとか、そういう気持ちはないのかな?」
「なんですかそれは」
そんな言葉とは、人生で初めて対面しましたかのような反応だった。
確かに闘争心とか、まったく縁がなさそうに見える。
「えっとね……」
この心のひっかかりをうまく言葉にするのは難しい。
所詮、ただのアルバイトだ。良乃は机の下で、気づかれないように拳を握る。
塾の先輩講師たち曰く。
虚勢でいいから生徒の前ではできるだけえらそうにしてなさい、と。
ただでさえ、年齢が近くてなめられるんだから、と。
実際、まともに先生扱いをされることは少ない。それもいいという気持ちと、それではいけないという気持ち。どちらにも気づかないフリをしている、面倒だからだ。
けれど今、目の前にいる生徒だけが。
四倉帰一くんだけが、今、良乃の声に耳を澄ましているのだ。
良乃は、丸まっていた背中を正しく伸ばし直した。
今の自分ではとても、彼に、役立ちそうなデータはあげられそうにない。
だから、講師としての面は一端、横に置いておくことにする。
「えっと、だからね。運動会のかけっことかは、足が速いとヒーローになれるじゃない? 定期テストだって、学校行事には違いないんだから、一緒だと思うんだ。だから、もったいないな、って思うのね」
正直に、まじめに、誠実に。
それが良乃なりの、生徒に対する、人に対するときの最低限のマナーだった。
「きっと、四倉くんならヒーローになれるよ」
まっすぐ目を見つめて言い切ると、ふいっと顔をそらされた。
そう簡単にうまくいくはずもない。良乃は苦笑いする。
四倉くんは口を一文字に結んで、しばらく下を向いていた。
足元に落ちてくる長い沈黙が、自分の未熟さをそのまま表しているような気がした。
「ごほうび」
その四文字は、唐突に耳に飛び込んできた。
「は?」
「先生が、ごほうびをくれるって言うなら、がんばってみてもいいです」
「ごほうび?」
四倉くんには、前後、というものがないらしい。流れ、というものが存在しないというか。
塾に入ってきたときも、個人面談のときも、今もそうだ。
「ええと、ちなみに何がほしいのかな?」
「…… それは、いきなりには決まらないんで。がんばってみてから考えるのってダメですか」
改めて、目の前に座っている男の子のことを見直した。
表向きは、そんな真剣なわけでもなく、切実なわけでもなく、かと言って、からかっているわけでもなさそうに見える。
いちおう先生の端くれとしては、生徒のやる気を買えるなら、なんだってやってやるぐらいの気概は、なくもなかった。
「よーし、わかった。そんな高いものじゃなければいいよ」
「じゃあ、具体的な目標は先生が決めてください」
と言われて、もう一度、手にしていた模試の成績表に目を落とした。
四倉くんにとって、どこらへんが妥当なのか、わからない。
模試の成績と、学校の今の順位を比べてみる。
「…… 学年30番以内ぐらい?」
「そんなので、いいんですか?」
「え、簡単すぎる? じゃあ、10番以内」
すっと、机の上に手が差し出された。
その意味がわかって、少し可笑しくなった。意外に子どもっぽいところを発見できて、嬉しかったのかもしれない。
伸ばされた小指に、小指を絡めた。
そして、四倉くんは見事、学年10番という素晴らしい成績を獲得する。