永世中立国家と私(下)
「えいせいちゅうりつこっか?」
猪俣響子が口にした言葉と同じように言ったつもりだったがなんだか間の抜けた感じになってしまった。
「知らない?」
と訊かれたので首を横に振った。
続けて
「知りたい?」
と訊かれたので今度は首を縦に振った。
ふう。という感じで本を閉じて話し出した。
「永世中立国家っていうのは、もし多国間で戦争が起こっても中立の立場である事を宣言して、他国がその中立を保障・承認している国のこと。軍事的な同盟国がないから、他国の軍事攻撃に遭った時でも自国のみで解決しなければいけない。そういう側面もあるから強力な軍隊を組織している国が多いらしいよ」と、一息に言い切った。
「つまりどういうこと?」
猪俣響子は柔らかく説明したのだろうが核心的な部分が避けて話されていると私は感じた。
「スイスとかオーストリアとかがそれを宣言してるの」少しムッとした感じの目だった。
「つまり私が猪俣さんの目にはその中立国家みたいに映ってるってことなの?」
「まあ。そういうこと」
私の目から視線をはずして遠くを見ながら一言
「いじめられてるんでしょ」
と加えた。
胸の中が妙にざわついた。他人にしっかりと澱みなく言われたのは初めてだった。
「今までは広く浅くみたいなかんじで中立の立場で接してたけど、いざ『いじめ』っていう名の他国からの攻撃を受けると誰からの援助もなく自国だけで解決しなければならない。そん感じでしょ」
再び私と目を合わせた。すごく冷たく挑戦的な目をしていた。
「じゃあ」と、声を発したつもりだったがうまく出なかった。咳払いをひとつして仕切りなおす。
「じゃあ。猪俣さんはどうだったの?」逆に挑戦的な視線を投げかける
「なにが?」眉間に皺をを寄せた。
「昔」声が澱む「猪俣さんもいじめられてたんじゃないの?」
口に出したら妙に胸がすっきりした。猪俣響子の顔が歪む。
妙な沈黙が再び二人の間に割って入ってきた。一分だろうか? 十分だろうか? 一時間だろうか? 嫌な時間がゆっくりとスライドして行く。
「なにそれ」遠くを見ながら短く猪俣響子が言った。
「なにそれって?」
「私がいじめられてたって話。別に好きで一人やってるつもりなんだけど」と早口にまくし立てた。
「今の学校じゃなくて、前の学校の話なんだけど」と少し気負いを感じながら何とか発した。
「前の学校でもいじめられてないし。変な噂流さないでくれる」
そう言って立ち上がって南京錠を私に放る。
「私先に帰るからちゃんと閉めて行ってね」と言ってそそくさと歩いていった。
「何?逃げるわけ?」
扉を開けて出て行く猪俣響子の背中に言葉を投げた。しかし、振り返りもせずに行ってしまった。
本を返し忘れたのを思い出した。
猪俣響子が出て行ってから少ししてから私も出て家に帰った。お父さんと一緒にごはんを食べて、お風呂に入って、お笑い番組をみて布団にはいった時に自分の言ったことを悔やんだ。
「変な噂」最後に言った猪俣響子の言葉がリフレインする。確かに変な噂だ。明確な根拠もない。誰かが流して、気がついたら風化して影も形もなくなったものを私が勝手に蒸し返しただけだ。
寝返りを打つ。明日も時間通りには起きれないだろう。みんなに無視される孤独感から引き起こるストレスで体のバイオリズムは少しずつ崩れはじめている。前髪を下ろしているからあまり目立たないが、おでこにニキビが二三個できてしまった。
羊を数える。一匹・・・・・・二匹・・・・・・頭の中でもこもこの羊が柵を飛び越えてフェードインしてそのまま左にフェードアウトしていく。昨日は112匹数えたところでやっと眠りに落ちることができた。今日は何匹で眠りに落ちることができるだろうか。
柵を羊が越えて視界に入り消えるとまた同じ要領で羊が通り過ぎて、しばらくして羊が歪んで瞼の裏の暗闇に溶け込んでいった。