永世中立国家と私(上)
雨音が部屋にこだまする。
この三日間雨は飽きることなく私の町を濡らし続けている。梅雨の季節になってもイジメは続いた。イジメと言っても基本的には「はぶ」にされているだけなので慣れたくは無いが、大分慣れた。お父さんは相変わらずこういうことには鈍く、なにも気づいていない。
携帯電話は解約してしまって結局新しいものは買っていない。もうすぐ受験だから。と適当な理由をつけて買ってもらわなかった。猪俣響子とはあの日以来話していない。借りた本はあと数ページで読み終わるのだが、ちんぷんかんぷんだ。読んでは戻って、戻っては読んでを繰り返している。でも好きな文章は見つけられた。
「われわれは、物を食べたり、眠ったり、暖をとったりしては死と格闘するのだ。結局勝つのは死である。なぜなら、われわれは既に生誕とともに死の所有物となったからである」
当たり前のことが書いてあるだけなのに胸にぐっとくる。こんなことを意識して生きていないから突然目の前に最終的な終着点を押し付けられて、妙に世界が狭まった感覚に陥る。
雨の日は本を読んで、晴れの日は本を買いに行く。
この数ヶ月で格段に私の読書量は増えた。薄っぺらな文庫本なら一日であっさりと読んでしまう。昔の私なら一週間かかっても読み終えることはできなかっただろう。
学校でも放課後でも話し相手が居ない私は文字で胸に空いた隙間と時間を埋める。猪俣響子がずっと本ばかりを読み続けて居る意味が分かった。
洋子とミカは完璧な問題児になった、学校には週に二回位しか来なくなった。
だから周りの女子は私を
「はぶく」
ことを止められないのだ。話したら今度は私が・・・・みたいに思ってるのだろう。
ベットに寝転んで本を読む。あと数ページで読み終わる。全部読み終えて猪俣響子に返したら彼女はどんな顔をするだろうかと、少し考えたが多分いつも通りの無愛想な感じだろうと思う。
そんなことを考えていたらまた話の筋がわからなくなった。
最後の一ページをめくる。小説とは違いなんのオチもないためか、なんとなくあっけない終わり方に感じた。それと同時に妙な解放感を得た。
「やっぱり私に哲学なんて向かないなぁ〜」
と、わざと声に出して言う。私なんかには哲学よりも、直木賞とかを取ってるミーハーな感じが似合うだろう。
本を閉じて勉強机に置く。窓を開けて外を見ると雨は上がっていたが、まだ空には重たい雲が掛かっている。
ぼんやりと猪俣響子のことを考えた。今日も八階の庭園にいるのだろうか?猪俣響子と無性に話したい。久しぶりに友達と話したいとかじゃなくて猪俣響子と話したい。同じ
「いじめ」
という痛みを感じたことのある猪俣響子と……
気が付くと窓を閉めて立ち上がっていた。それから、適当なトートバッグに本を入れて家をでた。 壁の色が変わる境目でストップ。八階の庭園に行ってみたが当然ながらという感じで猪俣響子は居なかった。
少しの間、しっかりと施錠された南京錠をぼんやりと眺めた。さすがに雨が上がったばかりではいなくて当然だ。そう思ってその場を後にしてエレベーターホールに向かう。
下のボタンを押してエレベーターが降りてくるのを待った。一番端っこのエレベーターが十階から降りてくるので、そのエレベーターの前に移動する。
九…八…と降りてきたエレベーターの中には見慣れた人間が乗っていた。
「あら。真鍋さん。何やってんの」
別に興味はないが形として聞いている感じで言われた。
「や、庭園行ったら猪俣さんいるかなって」
なんだか妙に恥ずかしくて言葉のお尻のほうは縮こまってしまった
「ふーん。なんか用?」相変わらず無愛想に尋ねてきたが「まあ、いいや。これから行くところだからくれば?」と言った。
「あ。うん」という私の返事もろくに聞かないで猪俣響子は歩き出した。
手馴れた手つきで南京錠に鍵を挿して開錠する。こないだの時と同じようにキィと、扉が小さく呻いた。二人でベンチの前まで歩いたが、当然のことながらベンチは濡れていた。
「ふう。で、なに」
全くベンチが濡れていることなんか気にせず猪俣響子はベンチにもたれかかった。
「あ。本読み終わったから返そうと思って」
私も、お尻が濡れるのを気にしながらもベンチに座った。
「え。ほんとに。やるじゃん」
想像していた事とは違い、やわらかい笑顔で猪俣響子は私を褒めてくれた。
「でも、なんだかあんまり理解できなかったよ」
猪俣響子に褒められて、なんだか少し恥ずかしくて目を見て話せなかった。
「ふっ。そんなもんでしょ」
と、鼻で笑われた。
そこからは取り留めの無い話しを延々と私が一方的に話した。猪俣響子は、持って来た本に目を落として、私の言葉に、うんうん、と相槌を煩わしそうに、でも優しく打っていた。
話しのネタが尽きて、妙な沈黙が私たちの前に降りて来た。
「ねぇ」
と、先に口を開いたのは私だった。
「こないだ言ってたスイスだかなんとかってどういうこと?」
本から顔をあげて、しっかり私の目を見据えて短く一言
「永世中立国家」
と言った。