幽霊と私(下)
手から離れた携帯電話は微弱に風に流されながら下へ下へと落ちて行き、八階の庭園に落ちたようだった。
恐らく壊れてしまっただろうが、大して悲しくはなかった。むしろこれ以上メールや電話が来ないことに安堵感さえ感じた。
でも一応確認しに行こうと思った時、あの日と同じ様に人がスッと通った。顔から血の気がすーっと引いて行くのを感じた。
来たときと同じようにフェンスを越えてエレベーターホールへと行き、下ボタンを押してエレベーターが来るのを待つ。幾分早く来たエレベーターに乗り込んで「八」のボタンを押した。この間と同じく八階が近づくにつれて鼓動が微妙に早くなる。チン。という音と共にエレベーターの扉がゆっくりと開いた。
八階の庭園に行くと、ベンチに人が座って本を読んでいた。八階の庭園には来たことが無いのだが、十六階の庭園と大して代わり映えは無かった。庭園の入り口のドアを見ると、南京錠が外されていた。
扉を引くとキイと鈍い音を立てた。その音に反応して本を読んでいた人が、本から顔を上げ、こちらを見て来た。なんだか見覚えのある顔だった。
「なんか用?」
尖った声で誰なのかがわかった。猪俣響子だ。
「上から携帯電話落としちゃってさ。猪俣さんわ何してんのここで? てか、なんで鍵あいてるの?」
「何してるかは見れば分かるでしょ」と言って、本をヒラヒラと振った「鍵が開いてることは秘密。たぶん携帯は壊れてるよ、あっちにあるけどね」と、芝生の方を指差した。
指差された方の芝生に向かって歩く。携帯はあったが、当たり所が悪かったらしく見事に真っ二つに割れていた。その側に花束が置かれていることが気になった。
「何この花束」猪俣響子に聞いてみる。
「事故で死んじゃった子の花束」再び本に目を落とした猪俣響子が素っ気無く答えた。
「あ、そうなんだ。なんか、まずいこと聞いた感じだね」
「私んちの子供じゃないし別に。それに・・・」そこまで言って言葉を切った。
私はフェンス越しに、いつもとはちょっぴり低い位置から赤く染まる町並みを眺めた。観てるものは一緒なのになにか違う感じで、私にちょっぴり似ていると思った。
「猪俣さんはいっつも何読んでるの?」
「いっつもって・・・その時によって読む本なんて違うに決まってんじゃん」
「大体だよ、大体。中心てきな主類とかあるじゃん」
「哲学」一言だけでいつもにも増した素っ気無く返してきた。
「へー。よく読めるねそんなの」
「別に。なんとなくな部分が多いけど、言いたい事は大体分かるよ」
「隣座って良い?」
「勝手にすれば」
「んじゃ、お言葉に甘えて」人一つ分のスペースを開けてベンチに座り「ちなみに、何読んでるの?」と本を覗きながら尋ねた。
「多分言っても知らないよ」
「私だって少しは知ってるよ。ニーチェとか」
「ショーペンハウアー」本から顔を上げて言った「知らないでしょ」
「誰?」
「ショーペンハウアー『存在と苦悩』。生きることを苦とする哲学者で、ニーチェの考えとはほぼ真逆な考え方」
「へー。面白いの」
「分かればね。私はこの人の考えが好きだから、この本はもう四回目」
「ふーん。私にも読ませてよ」
「は?」紫縁の眼鏡の奥で眉毛を寄せた。
「だから。私も読みたい」
「ほんとに読むなら好きにすれば」と言って、本を閉じ私に差し出した。
「え?」
「読むんでしょ?」突然目の前に出されて戸惑っている私に言った。
「うん。読むけど・・・途中じゃないの?」
「もう三回も読んでるから別に。どうせ途中で諦めるだろうし」
最後の一言に少々ムッとしながら受け取り「ありがとう」と言っておいた。
「私帰るけど、真鍋さんどうする?」
「あ。じゃあ、私も行く」
一緒に扉から出た。猪俣響子はポケットの中から南京錠を取り出してしっかりと施錠した。
「じゃ。私階段で帰るから」と言って階段のところで別れた。
「じゃあね」と言って、私はエレベーターホールに向かう私の背中に「あ。あと、」と猪俣響子が言葉を投げてきたので振り返った。
「オーストリアかスイスって感じだよね」それだけ言うと猪俣響子は階段を上りだした。
言われた意味が分からない私の頭の上にはクエスチョンマークが沢山浮かんでいた。なんで、南京錠の鍵を持ってるかなど、猪俣響子に対しては疑問ばかりが浮かんだ。
今思ってみたら、今日まともに会話したのはこれが初めてだった。